丹生川上神社下社
奈良県吉野郡下市町長谷1 its-mo


鳥居と社域



交通案内
近鉄吉野線下市口 天川方面行きバス40分



祭神

摂社
稲荷神社「宇賀御霊神」
八幡神社「應神天皇」
大山祇祠「大山祇神」
稲荷祠「稲荷神」



由緒

 天武天皇の白鳳四年(676年)に「人声聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」との御神誨に因り創立された古社。そうすると山辺の道の大和神社からの勧請と『延喜式』に記載があるそうだが、ありうることかも。松田寿男氏『古代の朱』では、丹生川沿いに鎮座していた丹生神社をして神武天皇の天神地祇を祀った丹生川上として丹生川上神社とかぶせたのであろうと推測している。現にこの辺りの土壌からは水銀濃度の高い所が見つかっている。


 紀の国の丹生都比売神社に伝わる『丹生大明神告門』には、川上水分之峯爾上坐天國加加志給比 (カハカミミクマリノミネニノボリマシテクニカカシタマヒ)とあり、『紀伊続風土記』の注には「川上は大和國吉野郡丹生川の川上なり」とあるが、当社の神体山の丹生山は残念ながら国見をするようなの高さではない。近くの櫃ヶ岳辺りだろうか。

 天平宝字七年(763年)「奉幣千四畿内群神其丹生川上神者加黒毛馬旱也」とあり、以降も祈雨のために黒馬を奉る。宝亀八年(777年)白馬を奉る。祈雨には黒馬、止雨には白馬を献ずることが恒例となった。

 式内大社の丹生川上神社の論社は三社鎮座し、上社、中社、下社とよばれてきているが、当下社の西の地域からは縄文土器や須恵器、土師器が出土したようで、往古から人の気配があったようで、論社の内では有力な神社である。

 平安時代になり、山城国の鴨川の上流の貴船神社が祈雨止雨の神として崇敬されることになった。やがては神社の場所すらわからなくなってしまったと言う。


拝殿から本殿への階段


お姿

 『HP吉野にようこそ』のマルヤさんによれば、丹生川上神社下社の一の大鳥居は15kmほど離れた大淀町今木の甲神社付近、二の鳥居は8kmほど離れた下市町善城に在った跡があるとのことであるが共に残っていないようだ。
 本殿は拝殿背後の丹生山に鎮座しているが、一般的に近づけない。 本殿付近には神社の前を流れる丹生川の石26個で囲まれた矩形の石群が残っているとのこと。 それ以外にも無数のこぶし大の石が本殿近くにあるようだ。
 当然の事ながら創始の頃には本殿はなく、丹生山を神体山としていたのであろう。
 鎮座の姿は今は違うのだが、社前を清冽な川が流れている、山の上に神域がある、祈雨の神である、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社もそうだし、貴船神社も概ねそう言う雰囲気であったことを思い出す。


本殿 平成22年の祭礼日に昇殿ができました。



お祭り
 6月 1日 例祭
10月第二日曜日 秋祭

平成祭礼データから



丹生川上神社下社 御祭神 闇・神(クラオカミの神)
御神徳 万物生成化育の根源たる、水を主宰遊ばされ、地球上のありとあらゆる物象 の上に、はかり知れない恩恵を垂れ給い守護あらせられる。
御例祭 六月 一日(秋の大祭は十月十四日)
御社格 延喜式の名神大社、元官幣大社。
御本殿 総桧の流れ造り、屋根銅板葺きで建坪七・三一坪。
御神域 約五千坪樹令五百年の老杉をはじめ、槻、樫、椎等の巨樹を以て覆われ森厳 そのもので身心共に浄まる。

由緒沿革の概要
 御祭神は、いざなぎ、いざなみの大神のみ子神であらせられ、天武天皇の白鳳四年 に「人聲ノ聞エザル深山ニ吾ガ宮柱ヲ立テテ敬祀セバ天下ノタメニ甘雨ヲ降ラシ霖雨 を止メム」との御神誨に因り創立された古社であるから、歴朝の御尊崇極めて篤く、 續日本紀に「天平宝字七年五月夷午丹生川上ノ神ニハ帛幣(へいはく)ノ外特ニ黒毛 ノ馬ヲ奉ル」と見え、この後は祈雨には黒馬を、祈晴には白馬を幣帛に添えて献ずる ことを恒例と遊ばされて居り、醍醐天皇の延喜の制では名神(ミョウジン)大社とし て案上の官幣に預かり、ついで二十二社の一(全国の大社中の特別尊貴な神社)に列 し給い明治の新政に及ぶ。また別に神階正一位に進ませられ、爾後たびたびの奉幣を お続けになり、孝明天皇は安政元年に「外患恨服、国家清平」の御祈祷を仰せつけら れ(御綸旨現存)文久二年には晨くも銀二十枚、米三十石を御下賜相成り(御沙汰書 現存)続いて明治天皇もその四年に官幣大社に御治定仰せ出だされ、初代大宮司に松 岡尚嘉を小宮司に江藤正澄を補佐せられて以来昭和二十一年までお使いとして高官を 参向せしめて、大祭、臨時大祭を厳重に斎行されて来たが、その後神社制度の変革に 依り宗教法人の神社となって今日に及んでいる。 
 


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