丹生都比売神社 (にぶつひめ)
伊都郡かつらぎ町上天野30 its-mo


鳥居


楼門



交通案内
健脚向き南海高野線 難波→九度山下車  (69分750円)
ハイキング 駅から西へ。慈尊院の中の丹生官省符神社拝殿右から高野町石道をひたすら歩く。ここは柿畑、杉林、雑木林の中のかっての高野山参詣の表参道であり、途中大きい石碑がいくつもある。 案内板も所々にはあるが、分岐点の全てにはない。歩いてきた道と同じ様な道を選択して進めばよい。石碑が見つからなければ戻る。雨引山分岐を越え六本杉からさらに直進し、上天野の集落に降りて神社に至る。3時間弱。
神社の前から集落の中を更に南へ東へ進み、山道を登ると二つ鳥居に至る。さらに進むと分岐があり、ここを上古沢方面に向かう。約2時間で駅。途中命の水があり救われる。神社左手の道を登れば分岐に直接いける。

車 三谷橋で紀ノ川を渡り、109号線6Km。



祭神
丹生都比売大神(丹生明神)
   丹生大明神神告門によると天照大神の妹の稚日女命とされる。 大和の王権とつながった際、生じた伝承である可能性もある。
丹生高野御子大神(高野明神)
大食都比売大神(気比明神)
市杵島比売大神(厳島明神)

 丹生とは水銀を含む赤土を言う。その発掘に関わった氏神とも言われる。
 また水分(みくまり)の神とも言われている。水を与え、水の配分を司った。
 空海に高野山を譲った神としての伝承で有名。空海の資金源は水銀であった。



神社庁平成祭礼データCDの由緒 祭礼日は改訂

 丹生都比売大神は天照大神の御妹神で別名稚日女尊(わかひるめのみこと)と申します。織物の祖神と言われ、御子の高野御子と共に大和地方を巡歴され、農耕殖産を教え導かれこの地に鎮座されました。 神功皇后に協力された功績で応神天皇より紀ノ川以南の広大な地を神領として与えられました。その後も皇室の御崇敬は厚く延喜の制で名神大社に列せられ、大正13年官弊大社になりました それ故社宝には、国宝や重文も多く保存されています。
 古くは弘法大師が当社の側に曼陀羅院を建立し、その後神白、神黒、2匹の犬の導きで高野山に真言密教の道場を開き、以来当社は高野山の守護神として崇拝されています。第3、4殿には鎌倉時代の初め行勝上人により、敦賀の気比神宮、安芸の厳島神社を勧請され、4柱の神を各殿にお祀りして以来4社明神とも呼ばれてお導きの神として参詣者が絶えません。
 当社の特殊神事の1月の第3日曜日の御田祭、4月の第3日曜日の花盛祭及び渡御の儀は平安時代の古式そのままに行われています。



由緒

  神武東遷の際、部隊は紀伊の名草戸畔を討ってから紀伊水道を南下したことになっているが、 地元では紀ノ川をさかのぼり、吉野川の下流に出たのではないかと伝えられている。 義経ではないが敵の意表を突く戦術としては、熊野から山を越して吉野へ出る事もありえるので、 神武の存在、東遷の事実も含めて、未だ解明されていない古代史の謎の一つとして残っている。
日本書紀に丹敷戸畔を討つとあるが、これを「にしき」と読むのか「にふ」と見るかで、 丹敷戸畔を奉ずる人々の生産物が錦か水銀かとなる。水銀で磨いた銅鏡の輝きは見事なほど美しく、 日の神の後裔を新たに名乗るにはうってつけの材料である。また赤土からは鉄もとれる。 さすれば、神武が入手すべき戦略物質は「水銀」「鉄」ではなかったか。丹生都比売命の所有する金属がねらわれたのである。 神武に討たれた丹敷戸畔とは丹生戸畔のことであり、祭神の丹生都比売神をこの丹敷戸畔を祀ったものとする説がある。*1
またこの伊都郡には丹生神社が53社あると言われている。水銀の採掘にかかわった丹生氏の勢力、丹敷戸畔の存在が大きいものであった事を示している。
 元々この神社は丹生川の水源地の筒香にあったが、吉野の丹生川上水分峯、大和の十市・巨勢・宇智、紀伊の伊都郡・那賀郡の各地を経て現社地の天野原に鎮まったと言われている。天野原は貴志川の水源地の一つである。神社の東の山には赤土が多く、それもドス赤い土が多い。


本殿(一間社春日見世棚造)


本殿正面



お姿、神奈備
 広い境内である。緑の中にことさら朱色が目立つきらびやかな神社である。 春日造りの社殿が並び、水分神社の雰囲気が漂う。拝殿にも赤土が敷かれ、太鼓橋も朱である。高野山が神奈備であろうが、直接には見えない。 ここから登ると二つ鳥居があるが、空海が遥拝所としたのだろう。高野山参詣の参道からは相当な下りであり、神社にお参りをしていたのではその日のうちに高野山にはたどり着けないからと想像する。
真夏のハイキングとお参りであったのか、ハイカーは2組、参拝者は2人、良いコースであり神社であった。神社では黒い大きい蝶が私の周りをヒラヒラと飛び交い、比売神のお使いが歓迎してくれているようであった。
 二度目の参詣はお水取りの日、まだ前日の雪が残っている。

太鼓橋と楼門




お祭り
秋季大祭 10月16日


丹生祝氏本系帳 延暦十八年の新撰姓氏録撰述の勅に応じて記載との説あり。


 始祖天魂命、次高御魂命大伴氏祖、次血速魂命中臣氏祖、次安魂命門部連等祖、次神魂命紀伊氏祖、次最兄坐之宇遅比古命、別豊耳命、国主神の女児阿牟田刀自に娶いまして生める児、小牟久君が児ら、紀伊国伊都郡に侍へる丹生真人の大丹生直の丹生祝、丹生相見、丹生神奴ら三姓の始め、丹生都比売の大御神、高野大御神よりはじめて百余りの大御神達に神奴と仕へ奉らしめ了へぬ。

 小牟久君が児丹生麻呂首、次児麻布良首、丹生祝姓賜ふ、即の子孫安麻呂、豊耳より安麻呂に至る十四世、安麻呂の児丹生祝伊賀津の子孫、石床、石垣、石清水、当川、教守、速総、蓑麿、身麿、乙国、諸国、友国、古公。

 小牟久君が児丹生麻呂首、佐夜造の乙女古刀自に娶ひまして生める児小佐非直が子孫、麻呂、即の子廣椅、丹生相見姓賜ふ。豊耳より廣椅に至る、十六世、廣椅児丹生相見廣教の子孫、宇胡閇、大津、古佐布、秋麿、志賀、上長谷、屋主。

 美麻貴天皇(諡 崇神)御世、天道根命裔紀伊国造宇遅比古命、国主御神児大阿牟太首、二人仕へ奉れり、しかして大阿牟太首、神御前に御琴引き仕へ奉りき、是の如く大御神祝仕へ奉る、美麻貴天皇御時神御祝仕へ奉る、伊久米天皇(諡 垂仁)御時神御祝仕へ奉る。並びに二つの朝廷の大御時に大阿牟太祝仕へ奉りき。

 大阿牟太祝の児、兄地、次に弟地、次に阿牟田刀自、大帯之比古意志呂和気天皇(諡 景行)御代仕へ奉る祝兄地、若帯中比古天皇(諡 成務)御代仕へ奉る祝弟地、帯中比古乃天皇(諡 仲哀)御代仕へ奉る祝阿牟田刀自。

 品田天皇(諡 応神)二柱に進つれる物、紀伊国の黒犬一伴、阿波遅国三原郡の白犬一伴。

 品田天皇(諡 応神)寄せ奉る山地四至、東は丹生川上を限り、南は阿帝川の南横峯を限り、西は応神山及び星川神勾を限り、北は吉野川を限る。

 御犬の口代に飯地を奉る、美乃の国の美津の加志波、波麻由布、飯盛る器と寄せ給ひき、又此の伴の犬甘蔵吉人、三野国に在る別牟毛津と云う人の児犬黒比と云う人、この人を寄せ奉る、此の人を寄せ奉る、此の人等は今丹生人と云う姓賜ひ別け奉る。犬黒比と云う者、彼の御犬二伴を率ゐ、弓矢手に取り持ち、大御神坐す阿帝川の下長谷川原に、犬甘の神と云う名を得て、石神と成りて今に在す。彼の児裔、十三世の祖の時より今に大贄人と仕へ奉りて、丹生人と召す姓を賜りて侍る。

 和銅三年十二世の祖、彼の季の籍勘へ仕へ奉る丹生真人安麿。天平十二年籍、十三世勘へ仕え奉る、丹生真人仕え奉る。此の人等の子孫、今に侍り仕え奉る。

 延暦十九年九月十六日
 




紀伊国名所図会から

紀伊續風土記 巻之四十八 伊都郡第七 天野荘 上天野村から

○丹生四所明神社
 一 宮 丹生津比[ニフツヒメ]ノ大神
 二 宮 丹生高野御子[ニフタカノミコ]ノ神
 三 宮 笥飯[ケヒ]ノ神
 四 宮 嚴島[イツクシマ]ノ神
  以上四社檜皮葺千木堅魚木あり 大宮作極彩色梁行一間四尺餘桁行一間四尺
毎社小異あり
右四所明神の内一宮二宮は丹生高野二柱の神にして往古より此地に鎭まり坐せり 三宮四宮は中世以後加へ祀る所にて合せて四所明神と稱ふはいと々々後の事なり 祝部丹生氏は紀國造と同家にて往古より當社に奉仕して今に至る 中世以来高野山社務を兼職し一山最尊崇を極るを以て諸殿雑舎大に備わり最壮麗を盡し祭祀神事怠慢ある事なし
 長  宮 
梁行五尺桁行二間二尺 本社の左にあり
  祀神五座 
皮張神 皮付神 土公神 大将軍 八王子
 長  宮 
梁行五尺桁行二間六尺一寸 本社の右にあり
  祀神六座 
八幡 熊野 金峯 白山 住吉 信田
 衣比須宮 
梁行五尺桁行三尺三寸 右の長宮の次ぎあり
  祀神十二王子之一合祀百廿伴神
  
以上三社十二座の神を十二王子といふ 舊は高野明神の社に合祭せしを承元三年(1209年)行勝上人分ち祭る所といふ
 若  宮 
梁行六尺八寸桁行六尺六寸 衣比須宮の東にあり 行勝上人建保五年(1217年)五月七日遷化の後當社を造りて其霊を祭る故に行勝社ともいふ
 内鳥居  
四社の中央にあり高さ二間二尺幅一間三尺格子の扉あり
 瑞 籬  
内鳥居の左右本社末社を圍繞して東西長さ十七間餘
 中 門  
梁行二間二尺桁行三間六尺二階造高さ一丈二尺内の鳥居の正面にあり
 右前殿  
中門の西に接す桁行十三間五尺梁行三間七尺車寄透廊太鞁部屋大般若蔵承仕部屋別あり東北隅御馬屋芝といふあり古の厩の趾といふ
 左前殿  
桁行十一間餘梁行三間一尺中門の東に接す拜殿神人廳神楽所神子部屋の別あり
 御供所  
桁行九間三尺梁行四間二尺五寸右前殿の坤にあり西の端に竈門明神を祀る
 舞 臺  
方三間餘右前殿の前にあり
 樂 屋  
桁行五間四尺梁行二間五尺舞臺の西にあり中間に橋を架す
 鐘 樓  
方一丈一尺舞臺の西にあり洪鐘に應仁三年(1496年)の銘あり
 持 所  
桁行七尺間四間梁間同三餘本社の西にあり 本尊兩頭愛染明王大師四十二歳の作といふ 外に愛染明王一區覚鑁上人の作といふ大壇の裏に正和年中(1312年〜)銘文あり
 護摩所  
方三間本社の東にあり一に壇所ともいふ本尊不動明王智證の作といふ天野口傳鈔に行勝上人の遺跡也とあり持所護摩所を天野兩僧といふ
 御影堂  
方三間護摩所の東にあり二位禅尼の草創といふ 本尊弘法太師は舊北院御室の本尊なりといふ
 多寳塔  
方二間三尺餘御影堂の北にあり本尊大日如來
 神輿堂  
梁行二間五尺桁行二間六尺多寳塔の北にあり 神輿二乗を納む
 山王堂  
七尺間方六間四尺神輿堂の西北にあり 又は本地堂とも曼陀羅院ともいふ或は大師の草創ともいふ又東三條院御願の堂ともいふ 四社明神の本地佛胎蔵界大日如來金剛界大日如來千手觀音辨財天女を安置す
 不動堂  
梁行三間餘桁行三間四尺餘山王堂の西北にあり 六月十日此堂にて社家に月俸を輿ふ依りて御蔵ともいふ
 荒神社  
方二尺六寸不動堂の北にあり瑞籬鳥居あり社の前に石地蔵あり
 長 床  
桁行二十五間餘梁行四間不動堂の西北にあり西の端に行者堂あり方二間二尺中央役行者像左に義覺の像を安置す東の端に小庵室あり長床の後に芝あり三角芝といふ葛城先達の行所なり
 寳 蔵  
二間に三間行者堂の南池ノ中にあり前に土橋を架す行人方神事の具を蔵む
 一切經蔵 
二間に三間寳蔵の西池ノ中に並へり前に板橋を架す仁和寺道法親王御灌頂の時行勝上人命を奉し止雨の法を行ひ即験あり其賞として此經蔵を造り宋本の一切經を蔵む
 鳥居二基 
中門の北輪橋の南北にあり南にあるを中の鳥居といふ高さ二丈四尺餘北にあるを外の鳥居といふ高さ一丈七尺扁額に正一位勲八等丹生大明神正一位勲八等高野大明神と書す 宮法印道守の筆なり外の鳥居の内に螺籟石といふあり四月十日螺を此石上に吹きて明神の神幸を送る故に名とす
 輪 橋  
長さ十間餘幅二間餘本社の正面五十間許池に架す 池中に小丘あり相傳ふ往古八百比丘尼神鏡を納めし所といふ
 石碑四基 
中の鳥居と輪橋との間にありて左右に列建す修験者の建る所なり
 大庵室  
東西十六間餘南北十一間輪橋の西にあり上下の門及長屋あり大師曼茶院を此地に草創し後山上に移す雅眞僧都其舊跡に山王院を草創せし舊地なりといふ學侶方以下大衆の宿所とす
 祝詞棚  
外の鳥居の西北にあり神輿渡御の時海部郡和歌浦玉津島明神へ濱降[ハマクダリ]の神幸の式をなして祝詞を捧くる所なり

一宮丹生津比大神延喜式ニ曰丹生都比女神社
名神大月次新嘗

本國神名帳曰正一位勲八等丹生津比大神とある是なり 丹生津比は伊弉諾伊弉册二尊の御兒 天照大御神の御妹にして稚日女尊と申し神世より本國和歌浦玉津島に鎭まり坐せり 神功皇后新羅を征伐し給ひし時此神赤土を以て功勲を顯はし給ひし故 皇后凱旋の後伊都郡丹生の川上菅川藤代峰に鎭め奉れり 菅川今筒香と書す藤代峯上人水呑峠又右堂カ峯或は子粒カ嶽ともいふ古老傳へて藤代ノ峯ともいひしといふ其地は上筒香東富貴和州坂本三村の界なり 此邊より流れ出る川を丹生川といふ西北に流るゝ事五六里にして紀州に入る 此峯より東の方和州に流るゝ川を又丹生川といふ 神武紀に丹生川上といふ是なり此邊總て赤土を生するを以て丹生の名あり又上筒香村により川上東へ登る事三十町許に 天照大神顯れ給ひし舊地といふありそは丹生明神の訛傳なるへし 又筒香村の西川の下に明神岩といふあり土人傳へて筒香明神の影向石といふ是又御鎭座の時始めて下り給へる石なるへし 今上筒香村に丹生四社明神を祀りて荘中の氏神とす故に是を筒香明神といふ


玉川上流の明神岩(提供:山子さん 2000.8.10

そは此神の居まく欲し給へる處なるにや書記に 皇后御凱旋の後功勲を顯し給へる神等の功労に報ひ給ひて其鎭り座らんと欲し給へる處にそれゝゝ鎭め奉りし事を書して稚日女尊誨之曰吾欲居活田[イクタ]長峽[ナガヲ]ノ國ニ因テ以海上[ウナカミ]ノ五十狭茅[イサチ]ヲ令祭とあるは延喜式摂津國八部ノ郡生田神社なり生田社當社と勲位も同等なるを見れは同神にて荒魂[アラミタマ]和魂[ニギミタマ]を別ち祀れるにて住吉の神荒魂和魂を別ちて長門と摂津と兩所に祭りしと同類ならむ 書記に其偏を洩して載せさるとも下文引く所の播磨風土記に其漏せる方を書せは此二書を合せて此御神の事備はるといふへし

是より一神兩所に分れ立ち給ひて御名も別に稱へ奉れるなり事代主ノ神初は阿波ノ國に座しゝに後 皇后を助けて功勲を顯し給へるにより摂津國長田に鎭め奉る 式に阿波ノ國にては事代主神社といひ摂津國にては長田神社といふと同例なり

然れとも舊一神なるを以て其間十餘里を隔つといへども毎年九月十六日神輿玉津島に遷幸なし奉る 名つけて濱降[ハマクダリ]の神事といふ祭祀の部并せ考ふへし

又紀伊國造と天野祝部とは共に天名草彦の子孫にして玉津島神は國造の齋ひ祀れる所丹生神社は天野祝部の齋き祀る所神輿遷幸の事も日前宮の神職と共に同く事を執行ひし事皆異神ならさる證とすへし 此御神 皇后を助け給へる事詳に播磨風土記に書せり 今其全文を左に載す。

 播磨風土記曰釈日本紀に引く所息長帯日女命[イキナガタラシヒメノミコト]欲[オモホシテ]平[コトムケント]新羅國[シラキノクニヲ]下坐[クダリマス]之時[トキ][コヒノミタマフ]於衆神[モロカミ]爾時[ソノトキニ]國堅大神之子[クニカタメシオオカミノミコ]伊邪那岐伊邪那美二柱の命漂在國[タゝヨヘルクニ]を修固[ツクリカタメ]給へるによりて國堅ノ大神と稱し奉れるならん

爾保都比賣命[ニホツヒメノミコト]即丹生津比賣命なり保生音通す

著[カムカカリシテ]國造[クニノミヤツコ]石坂比賣命[イハサカヒメノミコト]ニ教[ヲシヘテ]曰[ノリタマハク] 著原本に者と書すは誤なり今改む石坂比賣は播磨國造にて此事播磨にての事なるへし

好治奉[ヨクヲサメマツラ]我前者[ワカミマヘヲ]ハ我爾出善驗[イタサシヨキシルシヲ]驗原本にと書す今一本に從ひて改む

而比比良木[シカラハヒヒラキ]ノ八尋杵根底不[ヤヒロソコヌ]附國[ツカクニ]杵は桙の字にて比比良木八尋杵は則杜谷樹[ヒラキ]ノ八尋矛[ヤヒロホコ]なり

越賣眉引國[チトメノマヨヒキノクニ]仲哀紀に譬如[タトエハナス]美女[ヲトメ]之[トヨヒキ]有向津國[ムカツクニ]とあり

玉甲[タマヨロヒ]賀賀益國[カカヤククニ]苦尻[クシキ]有[アル]寶[タカラ]白衾[タクブスマ]新羅國[シラキノクニ]矣[ヲ]以[モテ]丹浪[]アカキナミヲ而将平伏[コトムケン]賜如[ゴトク]此[カクノ]教賜[ヲシヘタマヒテ]於ニ此[コゝ]出賜[イタシタマヘリ] 赤土[アカツチヲ]其土塗[ソノニヌリ]天之逆桙建[サカホコニタテ]神舟之艫舳[カムフネノトモヘニ]又[マタ]染メ御丹裳[ミアカモ]及[マタ]御軍[ミイクサ]之著衣[ケセルコロモヲ]又[マタ]攬濁[カキニゴシテ]海水[ウシホヲ]渡賜之時[ワタリタマヒシトキ]底潜魚又高飛鳥等[ソコクグルウヲマタタカトブトリモ]不 往来[ユキカヨハ]不遮[サヘギラザリキ]前如是[マエチカク]而平伏新羅[シラギヲコトムケ]巳訖[コトヲヘテ]還上乃[カヘリマシテスナハチ]鎭奉[シヅメマツリ]其神於[ソノカミヲ] 紀伊國管川藤代之峯[キノクニノツヽカハフジシロノミネニ]管川は當郡筒香荘なり 藤代峯は荘中の高峯なり詳に筒香の部に見ゆ
 

此御神かく異国降伏の功あるによりて弘安四年(1281年)蒙古 皇国を浸しヽ時も當社の霊験殊に著[イチシ]るく勲功を顕はし給ふ故に和泉國近木荘を寄附せられし事あり 是故事に遵ひて御祈願ありしなり 當社初筒川藤代峰に鎮まり坐しに夫より處々に遷り給ひ最後此天野の地に遷り給ひ永く此地に鎮り坐せり 其處々に遷らせ給ふ事天野告門[ノリト]の文に詳なるを以て下に其全文を載せたり 天野告門の文古代より傳ふる所にして希世の物といふへし しは々々轉寫を歴し故にや脱誤ありて讀かたし因りて注文を作りて其義を釋き下に載たり
又此御神の功績他に秀させ給へる故にや 應神天皇の御世神地を廣く寄附し給へり 和名抄載する所伊都那賀兩郡に神戸あり即其地なるへし 大抵今の高野寺領の地にして小異あり 其詳なるは高野領総論に論せり


二宮高野明神本國神名帳に正一位丹生高野御子神といふ是なり 祀る神詳ならす 高野山の地主神なるを以て高野明神と稱ふ 神世より高野山上に鎭まり坐して天野祝の齋き祀れる處なり 書記に神功皇后の巻に天野祝と志野祀合葬の事あり是なり  應神天皇の御代に至りて丹生明神今の社地に鎭まり坐せる時此御神をもこゝに遷し奉り此地にて丹生の神と一所に祀るを以て神名帳には丹生高野御子神といふなるへし
今高野山壇上にも丹生の神高野の神を祀りて地主神とす 是大師の時よりかく祀り來りたる由なれとも本より其地に鎭り坐して其社の方本社にや今定めかたし

寺家の説に高野明神は丹生津比第一の其子といひ或は丹生津比と夫婦の神といふ皆稽據なれは信用しかたし 今山上の寺院に多く束帯せる神像の丹生明神と相對する画を蔵む是高野明神の神像なり 又別に狩場明神の神像あり此像は猟師の姿にて白黒二匹の犬を牽けり 是は大師始めて登山の時嚮導せる姿を画きしなり

世人多く是を高野明神化現の像とするは謬なり詳に三谷荘皮張村丹生狩場明神の條下に辮せり
 


三宮四宮祀る神數説あり 正應六年(1293年)太政官牒に當社四社明神之中三大神號蟻通神とあり 然れとも蟻通神如何なる神なる事を知らす 寺家説には丹生明神は母神なり 二宮三宮四宮は丹生明神の御子にして二宮高野明神は男神なり 其餘は女神なりといふ 按するに高野明神は此地の地主神にして神世より此地に鎭り坐る事幾百千年とも知るへからす 丹生明神は播磨風土記に載する如く 神功皇后の御世始めて筒川藤白峯に鎭め奉り其後此地に遷り給ひし御神なれは高野明神と神縁在せる事古文書に見えす 且古は二柱の神に在しゝ事分明なるに
延喜式には丹生都比女神社一社を載せられ本國神名帳には正一位勲八等丹生津比大神あり 又正一位丹生高野御子神あれは此二坐の神に止まれり

三宮四宮まても皆丹生明神の御子神にして四坐相連なりし神といふ最信用しかたし 社家の説に曰三宮四宮は行勝上人總神主と共に同し霊夢を受け尼将軍に請ひて承元二年(1208年)創建する所にして三宮は氣比明神なり 四宮は嚴島明神なりといへり 按するに 鳥羽院の御宇清盛安藝守たりし時彼國を以て高野の大塔を造営すへき由 院宣を賜りて清盛登山せし夜の夢に大師化現して越前の氣比と安藝の嚴島とは西海北陸境異なれとも金剛胎蔵兩界の目出度所なるを氣比の社は繁昌して嚴島は荒廃せり 相搆へて修理し給へと語ると見て夢覺たり 清盛高野下向の後 院参して右の夢想を奏聞して任を延て嚴島を修理せし事盛衰記に詳なり 是に據れは清盛夢想の事大師の意に出るを以て行勝の徒大師の教に従い清盛の意を受て二神の此地に創建せるなるへし 寺家にいふ所の駕空の説に比すれは差理に近し 恐くは其の實を得るなるへし
 


 
丹生大明神告門(ニフタイミヤウシンノノリト)
告門は祝詞の假字なり

懸幕皇大御神(カケマクモカシコキスメオホカミヲ)
○原本毛を 岐を 乎を と書す 今他の祝詞の例に因りて改む 下亦或は改め域は例によりて脱たるは加ふ

歳中月中撰定銀金花佐支開吉日時撰定 (トシノウチニツキヲエラビ ツキノウチニヒヲエラヒサタメテシロカネコカネハナサキヒラクヨキヒトキヲエラヒサタメテ)
○金銀の出る賞(メテ)たき日時をいふなり 然れとも上古の詞とは聞えす

當年(ソノトシ)二月春御門十一月秋御門(キサラキハルノミカド シモツキアキノミカド 奉仕申(ツカヘマツリマヲセク)
○當年は某年といふに同し 十一月を秋御門といふは古く一年を春秋二に分ちて冬の事をも秋といへる例あり

高天原神積坐天石倉押放天石門忍開給八重雲伊豆道別道別給豊葦原美豆毛給止志天 (タカマノハラニカムツマリマスアメノイハクラオシハナシアメノイハトヲオシヒハキタマヒアメノクモヲイツノチワキニチワキタマヒテトヨアシハラノミツホノクニニミツケタマフトシテ)
○大意 皇国を豊年ならしめむといふなり

國郡佐波止母紀伊國伊都郡庵太村石口天降坐 (クニコホリハサハニアレトモキノクニイトコホリアムダムラノイハクチニアモリマシテ)
○庵太村は三谷慈尊院九度山邊の地名なり 天降坐し地は今三谷村榊山酒殿社其所なり石口は麓の意なり

大御名伊佐奈支伊佐奈美御兒天御蔭日御蔭丹生津比大御神太御名顕給比天 (オホミナヲマヲセバカシコシマヲサ子バカシコキイサナギイサナミノミコトノミコアメノミカゲヒノミカゲ ニフツヒメノオホミカミトオホミナヲアラハシタマヒテ)
○天の御蔭の御蔭は御殿をいへるにて此處に隠坐の文なきは御殿を建て隠坐すへき神といふへきを省きて告給ノリへるなるへし さて此神現身の天降ませるにあらす 御霊の天降まして著カムカゝリして御名を顕し給へるなり

川上水分上坐國加加志給 (カハカミミクマリノミネニノボリマシテクニカカシタマヒ)
川上は大和國吉野郡丹生川の川上なり 水分原本は水方と書すは字形の似たるに依りて誤ると見ゆれは今改む 水分は文武紀及萬葉集に見えたり 國加加志は國を曜すにて鏡に俵れる詞なり

下坐十市郡□□忌杖刺給(クダリマシテトホチノコホリ□□ニイムツエサシタマヒ)
品太乃天皇御門代田五百代奉給也(ホムタノスメラミコトノミトシロダイホシロタテマツリタマフナリ)
○原本十市乃郡に品田云云とあり然れとも下文に某郡帽地忌杖刺給と書せるを見れは郡の下に地名を脱し又忌杖刺給の四字を脱するなるへし 按するに高市郡に入谷村あり其地十市郡に近し 疑らくは古十市郡に属し此神の忌杖刺給へる地ならむ 其地に坐し時寄奉れる御門代なれは其處に記し置けるなり 下文皆同し御門代は神田なり

下坐巨勢丹生忌杖刺給(クダリマシテコセニフイムツエサシタマヒ)
巨勢は大和国高市郡の郷名にして和名抄万葉集等に見えたり今越村といふ名遺れり越村の邊に丹生谷村あり是巨勢村【丹脱落か:瀬藤】生なるへし 忌杖刺は神地の四至に杖を刺て標し給へるなり

下坐宇知郡布々支丹生忌杖刺給クダリマシテウチノコホリフフキノニフニイムツエサシタマヒ)
下坐の二字原本に脱す今例に依りて稍ふ 宇知郡は今の大和国宇智郡なり郡中布々支といふ地詳ならす 宇智郡丹原村に丹生川神社あり

下坐伊都郡町梨御門代(クダリマシテイトノコホリマチナシノミトシロ) 十四ノ圖一ノ里一ノ坪同二ノ坪同三ノ坪員八段 御田作給(ミタツクリタマヒテ)
○町梨今詳ならす 疑らくは入郷村なるへし 註ノ十四圖は十四條といふに同し 一里は方六町の地をいふ 一ノ里の中にて一二三の三坪にて神田合せるをいふなり

下坐波多倍家多村乃△字堪梨云(クタリマシテハタベケタノムラノアサナタヘナシトイフ) 十五圖二ノ里四ノ里坪二百五十六歩同里五ノ坪二段六十歩并ニ 天沼田云(アメノヌマタトイフ)十五圖一ノ里二ノ坪三百十八歩同四ノ坪三段七十二歩 御田作給(ミタツクリタマヒ)
波多倍家多村は今の大野村の邊なるへし 又天沼田里も堪梨里に接して大野村領なるへし 今詳ならす

下坐忌垣豆御碓作其田稲太飯太酒作楽豊明奉仕(クダリマシテイカキヅニミウスヲツクリソノタノイネヲオホイヒオキニツクリアソビトヨアカリツカエマツリテ)
○忌垣豆は斎垣内の義にして斎は斎杖の斎に同し 今那賀郡細野荘に垣内村あり 村中丹生社あれは忌垣内は垣内村なるへし

上坐伊勢都美太坐(ノボリマシテイセツミニオホマシ)
伊勢都美の地詳ならす

上坐巨佐布所忌杖刺給(ノボリマシテコサフノトコロイムツエサシタマヒ)
○今伊都郡古佐布荘下古佐布村に明神の坐し地あり 樹を伐り不浄を入るゝ事を禁す

下坐小都知之峯太坐(くたりましてヲヅチノミネニオホマシ)
小都知峯は當社の東八町にありて今訛りて大つゝか峯といふ 古佐布より三十町許に當る

上坐天野原忌杖刺給(ノボリマシテアマノゝハラニイムツエサシタマヒ)
○天野原は今の宮地なり

下坐長谷原忌杖刺給(クタリマシテハツセノゝハラニイムツエサシタマヒ)
○那賀郡長谷荘宮村丹生社ある地ならん

下坐神野麻国忌杖刺給(クタリマシテカムノマクニニイムツエサシタマヒ)
神野真国は那賀郡の荘名なり真国荘宮村に高野明神あり 是忌杖刺給へる地なるへし 按するに下文に那賀郡の名初めて見ゆれは忌垣内長谷原神野麻国告門を書ける頃は皆伊都郡なりしにや

下坐那賀郡松門所太坐(クタリマシテナカノコホリマツトノトコロニオホマシ)
猿河荘田村の艮一里餘友渕荘界の山上猿河谷村の内に古名松戸といふあり

下坐安梨諦夏瀬丹生忌杖刺給(クタリマシテアリタノナツセノニフニイムツエサシタマヒテ)
○安梨諦古くは安諦とありしを後に梨の字を添へたるなるへし 安諦は在田郡の古名なり 夏渕は在田郡田殿荘出村の小名鳥居の中白山の麓に丹生明神の森あり 今猶夏瀬の森といふ 其東に丹生村あり 東南に丹生圖あり

下坐日高郡江川丹生忌杖刺給(クタリマシテヒタカノコホリエカハノニフニイムツエサシタマヒテ)
日高郡川上荘に下江川上江川の二村あり 村中に川あり即江川といふ 其源真妻山の麓の尾続き切目荘松原村に真妻明神の社あり 土人丹生の真妻明神といふ 是江川の丹生社なるへし 今松原村の隣村に丹生村あり

返坐那賀郡赤穂山布気云所太坐(カヘリマシテナカノコホリアカホノヤマノフケトイフトコロニオホマシテ) 品田天皇奉給物淡路国三腹郡白犬一伴紀伊国大黒小黒一伴此犬口白代赤穂村布気田千代美野国乃三津柏又濱木綿奉給(ホムタノスメミコトノタテマツリタマヘルモノアハヂノクニノミハラノコホリノシロイヌヒトトモキノクニノオオグロチグロヒトトモコノイヌノクチシロアカホノムラノフケタチシロミヌノクニノミツカシハマタハハマユフヲタテマツリタマヘリ)
○那賀郡田中荘に赤尾村あり 赤尾村より東南四町許に長田荘上田井村あり 上田井村の東六七町許に深田村あり 是古名の遺れるなり 深田村の坤四町島村領に風森大明神社あり 若一王子丹生明神等を祀れり 是太坐し地なるへし 三腹今三原と書す 此御代に屡狩し給へる地なり 其事詳に日本紀に見えたり 白犬一伴は行宮の辺に飼置給へる田犬一伴なり 美野国は備前郡御野郡なり 此郡古国なりし事は国造本紀に見えたり

遷幸名手村丹生屋夜殿太坐(ウツリイデマシテナテノムラニフヤノトコロニヨドノオホマシ) 品田天皇依奉給御代■■道餘梨千代奉給也(ホムダノスメミコトノヨセタテタマヘルミトシロ破損ミチアマリチシロタテマツリタマヘル)
○名手今の那賀郡の荘名となる名手荘より名手川を隔てゝ西の方に上丹生谷下丹生谷の二村あり 古は名手村の中なりしなるへし 今上村の西に丹生明神の神社あり 是夜殿建給へる地なるへし  品田天皇以下一本に注文とするに従ふ道の上一本に一字空(アケ)たるに従ふ 文意詳らかならす

遷幸伊都郡佐夜久太坐然而則渋田邨御門代御田(ウツリイテマシテイトノコホリサヤヒサノミヤニオホマシシカシテスナハチシフタノムラノミトシロミタ) 廿四ノ圖一ノ里七ノ坪一町八ノ坪一町九ノ坪六段四ノ坪三段五ノ坪三段六坪二段 作給神賀奈渕所楽豊明奉仕給也(ツクリタマヒテカムカナブチトコロニアソヒトヨアリツカエマツリタマヒ)
佐夜久の宮は伊都郡官省符荘に佐野村あり 此地なるへし 然面則の三字此祝詞には似つかはしからぬ詞なり 渋田邨今伊都郡富田荘にありて西志富田東志富田の二村あり 古文書に渋田と書す神賀奈渕は志冨田村の邊紀ノ川の淵の名なるへし

則天野原上坐皇御孫(スナハチアマノハラニノボリマシスメミアマノミコトノ)宇閇湛 於土乎波堀返下土乎波於堀返太宮柱太知立奉給高天知木高知奉朝日奈須輝宮夕日奈須光世長杵常世静坐申 (ウヘノツチハシタニホリカヘシシタノツチヲハウヘニホリカヘシオホミヤハシラフトシリタテマツリタマヒタカマノハラニチキシタカシリマツリアサヒナスカゝヤクミヤユウヒナスヒカルミヤニヨノナガキネニトコヨノミヤニシツマリマセトマヲス)
天野原は今の神地是なり  皇御孫の命は 天皇を称し奉る 字宇閇湛乃任爾六字考ふへからす 朝日奈須夕日奈須の奈須は如くにて宮を称ふる発語なり 世長杵は常世宮に対したれは世長(よなが)の杜の意にて神地を称ふる詞なるへし 杵は木根にて木の生たてる神地をいふなり 常世宮も又称へたる詞なり

皇御孫大御神依奉給大御門代太飯大酒黒黄千取白黄千取御贄千稲引並 (スメミマノオホミカミニヨセマツリタマフオホミトシロオホイヒオホキクロキチトリシロキチトリニミニヘチシネヒキナベテタテマツルトマヲス)
○大御門は大和国千(十の誤植か)市郡に坐し時より以下依せ給へる御門代をいふ 大飯して造れるを後まても奉れるなるへし 黒黄は濁酒 白黄は清酒なり 酒をささといふ事古書に見えたり 今伊都郡三谷荘三谷村に丹生酒殿明神あり 古より當社の末社なれは此社にて造り奉れる古例なるへし 取は秀樽(ホタリ)の樽の転語にて樽をいふなり 引は例の誤にて列並天なるへし

所奉仕大飯大酒者伏香不為取見不為清浄奉仕皇御孫命依奉給太飯田長御世済奉仕 (ツカエマツレルオホイヒオホキハフシテカゝシトモセストリテクミヒミントノセスキヨラカニツカエマツラントマヲス スメミマノミコトノヨセタテマツリタマフオホイトタナカノミヨニオサメツカエマツリキ)
○止はとての意にて 天皇の寄給へる太飯とて最尊ひてなり 田長の田は発語にて田の字を書けるは仮字なり

馬爪至限鹽末至限天雲可皿立限依奉給也 (ウマノツメノイタラシキハミシホナリイタラシキハアマクモノカヘタツキハミヨセタテマツリタマヒ)
末は沫の誤なるへし 可皿立原本可乙立と書せり 今改む 可皿立は壁立にて祈年祭の祝詞に見えたり

遠国乎波千尋田久縄懸依給荒国乎波太御佩以平給白雲退居青雲枯引限物代依奉給也 (トホキクニヲハチヒロタタナワヲモテカケヨセタマヒアラフルクニヲハオホミハカシモテタヒラケタマヒシラクモノソキヰアヲクモノタナビクキハミモノシロヲヨセタテマツリタマフ)
久原本の之と書るは訛なり 今改む 枯は棚の誤なるへし 物代は供物の品をいふ

曳立者天打積者国谷古久佐度限物代依奉給 (ヒキタテバアメトヒトシクウチツメバクニトヒトシクタニコクノサワタルキハミモノシロヲヨセマツリタマフトマヲス)
谷古久は谷苦久の誤か 又苦久を古久ともいへるなるへし ○以上上代の祝詞なり 以下は後世に書きそへるなるへし

 暫くは歴代天皇の 奉給える 物、神階 などが 物語られる (詳細は略する 瀬藤)

又 皇天皇奉賜佛舎利入玉壺
是より以下は上代の祝詞のさまにあらめ

太御佩太御弓杵箭并幣帛明妙照妙海山物者鰭狭物鰭廣物如横山打積 (オホミマカシノオホミユミキヤ シテグラアカルタヘテルタヘウミヤマモノハハタノサヒモノハタノヒロモノゴトクヨコヤマノウチツミ)
海山の物とあるは舊海山物者毛荒物毛和物 鰭狭物鰭廣物とありしを省きたるならん

太酒者瓶於高知瓶腹満済(オホミキハミカノヘタカシリミカノハラミチテトゝノヘ)
原本に迸於高知酒海とあれと決して誤なれは今改つ

爾毛爾毛儲備所奉聞食賜 皇天皇太寳御坐月日共平文武百官諸国々宰等国造七郡乃至干品部神民百姓百壽全保福壽豊稔守給邊止恐恐申 (シルニモカヒニモマケソナヘテレレタテマツヲタヒラケクキコシメシタマナヒテ スメラ  オホタカラノミクラツキヒトトモニタヒラケクモムムノモゝツカサモロモロノクニノミコトモチタチクニノミヤツコナゝコホリ   シナヘシミオホムタカラニ   マモリタマヘトカシコミカシコミモマヲシタマハクトマヲス)
国宰は国司なり 国造は紀国造なるへし 七郡は本国の郡数 品部は雑戸 神民は神戸の民なるへし
 




  神  階
 丹生明神位階
正六位上
文徳実録仁寿元年(851年)(以下略)
正五位下勲八等
三代実録貞観元年(859年)(中略)正五位下勲八等を従四位下(以下略)

中略 

正一位
 本国神名帳伊都郡正一位丹生津比賣大神兼文勘状曰元暦二年(1185年)三月天下諸神被奉増一階
事は盛衰記に見えたり之時當社可為正一位也淳方勘状に同し

  高野明神位階
正六位上
従五位下
 日本紀畧延喜六年(906年)(以下略)

中略 

正一位
 本国神名帳伊都郡正一位丹生高野御子神兼文勘状曰元暦二年(1185年)三月天下諸神被奉増一階
事は盛衰記に見えたり之時當社可為正一位也淳方勘状に同し


造営次第
正応六年(1293年)太政官符に地神第三代天津彦尊始祐天野廟祠
中略社者豊受大神開闢之瑞籬也 豈非日本最初之草創と見えたり 其後造営詳ならす


   神  職 (中略)
    社家十五軒(中略) 
    宮仕六人(中略)
     神楽男 五人
     巫 女 八人
     大工所 一人(中略)
   別 當(中略)
   権別當(中略)
   三味所(中略)
   預 所(中略)
   長床衆
   田楽法師(中略)
   氏長者
嘉祥四年(851年)二月良任検校の状案に見ゆ坂上氏の長者をいふなるへし(中略)
    権神主
    権禰宜
    禰 宜
    所 司  六人
    神 人 十六人
    知節代
    氏 人  七人
    平神人  八人
    職 掌  五人
    勾 當  一人
    仕 丁  二人
    倉 預
以上の職名応永二十三年(1416年)相折帳に見えて其給分を配賦す


   年中行事
  (略)
正 月 二日 総神主詣三谷村酒殿者御影向殿舊跡竈門社格獻御供
  (略)
二 月 十日 総神主以下神参後於紀川垢離於三谷村石口瀧祝言
  (略)
二 月 十六日 遙拝玉津島明神
  (略)
十一月 十六日 夜半総神主於神前祝詞奏神楽 総神主以下奉榊直往於長谷社道途不用燈火有種々之式
  (略)


   神 領
告門曰品田天皇依奉給神堺
東至丹生川 南至阿諦河南横峯 西至星川并神勾 北至吉野河

告門古注曰品田ノ天皇奉給物淡路ノ国三腹郡白犬一伴紀伊国大黒小黒一伴此犬口代赤穂村布気田千代美野国乃三津柏又濱木綿奉給  大師遺輝云吾上登日現人對語曰吾在神道望威福久也方今菩薩到此山弟子幸也昔在人世之晴食国命給家地以萬許町東限大日本国南限南海西限應神山谷北限日本河也云々

 総神主家に蔵むる舊記に自弘仁七(816)年孟夏之頃大師上登之時大明神以彼神領初附屬于大師之以後以六箇七郷為社領 とあり又弘仁年中已後宮領三谷郷小河内郷古佐布郷志賀郷毛原郷星川郷已上七郷年中祭礼之料也とあり

備後国太田荘米十三石(注釈省略 以下同じ)
三谷郷
田畠三處
和泉国近木荘
御供料田一段十歩
山地一所
田地二處合五百歩
和泉国麻生郷
播磨国福田保并六箇郷合土貢一千石
和泉国大泉荘
大河内郷内教良寺三分一
天野郷内字藤谷七十歩
本国本渡郷


   山王院堅義料

名手荘租税五果(注釈省略 以下同じ)
荒川荘内六石二斗
右神領文書に概見する所なり 天正以来は高野山学侶領の内を以て祭祀等の用途に供す 配分左の如し
 省略




  総神主系図第九

丹生祝氏文 総神主珍蔵の古文書なり

丹生津比賣及高野大明神仕丹生氏

始祖天魂(アメムスヒノ)命

次ニ高御魂(タカミムスヒノ)命大伴氏租

次ニ血速魂(チハヤムスヒノ)命中臣氏租

次ニ安速魂(ヤスムスヒノ)命門部連等租

次ニ神魂(カムムスヒノ)命紀伊氏租○天魂命の御名古書に見えす 舊事記神代本紀に六代?生天神別天八十萬魂尊中臣系図に天八萬魂尊とあると同神にて天御中主より後に生ませる神なるへし 高御魂命神魂命は皇統の著明(イチシル)き史に見えたり 血速魂神姓氏録神別に藤原朝臣出自津速魂命三世孫天兒屋根命也又中臣系図に津速魂命大中臣等之租と見えたると同人なるへし 安魂命神魂命並に姓氏録に見えたり

次ニ兄坐之宇遅比古命別豊耳命 ( ホヲエニマシシウチヒコノ ワケトヨミゝノ )兄は大兄なり 宇遅比古命は紀伊国造の祖にして古事記日本紀に見えたり 此書の例次をいふは数代の後をいふ詞にして直に其子にあらす 紀伊国造家の系図によるに神皇産靈尊五世の孫天道根命を第一代とし宇遅比古を第六代とす 別はわかれて始祖となれるをいふ 豊耳命国造系図に依るに宇遅比古命の曾孫にして神功皇后巻に紀直豊耳とある人なり

娶テ国主神女兒阿牟田生兒 ( クズノカミノヲミナコアムダノトシヲウメルコ) 国主は国栖と書けると同しく一區の地を領する人をいふ 當家の遠祖神代より此地を領し居しかは国主神に称へ呼ひしと見ゆ 阿牟田は今の慈尊院邊を古名 は刀自(トシ)二合字 阿牟田は女主人にて豊耳命は名草郡より通へるなり

小牟久君兒等 (コムクノキミガコラ) 小牟久は地名なるへし 今庵田といふ地より川を隔て北に對せる村を神野といふ 其村高野山の古文書に紺野と称す 永承(1,046年〜)の官符高野山蔵に政所の前の荒野とある地の内なり 此地舊は紺口野(コムクノ)といひしを後に久を省きて紺野といふなるへし 然る時は小牟久は紺口の假名にて庵田刀自の子なるを以て其地に住しなるへし 紺口といふ地名は河内国にもありて和名抄等に見えたり 其義は未考へす

紀伊ノ国伊都ノ郡侍丹生眞人大丹生直丹生祝丹生相見神奴等三姓始丹生都比賣ノ大御神高野大御神及百餘大御神達令奉仕神奴了 ( イトノコホリニサモラヘルニフノマヒトノオホニフノアタヒニフノハフリニフアヒミカムヤツコラヲミツノカバネノハシメニフツヒメノオホミカミタカヌノオホミカミヨリハシメテモヽアマリノオホミカミタチヲスマツラツカヘカムヤヅコ) 君眞人直皆称言なり 祝は姓にして麻布ノ首の時賜れる由下に見ゆ 丹生眞人とは下の三姓大丹生直丹生祝丹生相見の三姓の神奴をいふなるへし

小牟久ノ首兒丹生麻呂首 (コムクノオヒトガコニフマロオヒト) 次ニ兒麻布首丹生祝姓賜即子安麻呂始自豊耳至安麿十四世 (コマフラノオヒトニフノハフリカハネヲタマフソノコヤスマロハシメテヨリトヨミヽイタリテヤスマロニ ) 首は称言なり 丹生麻呂首の下次にといふ詞に九世の間をこめて書けり ○以上和銅三年に安麻呂か奉れるまヽなり

安麿兒丹生祝伊賀豆之子石床石垣石清水當川教守速總蓑麿身麿乙国諸国友麿古公 (ヤスマロコニニフノハフリイガツノハツコイハトコイハカキイハシミツアテガハノリモリハヤブサミノマロミマロオトクニモロクニトモマロフルギミ) 安麿兒以下は延暦十九(800)年の籍に書加へたるなるへし 伊賀豆は下に天平十二(740)年籍勘仕奉るとある人なるへし 石床地名なるへし 今詳ならす 石垣は在田郡石垣荘其地にやあらむ 石清水は在田郡清水村ならむ 當川は在田郡山保田荘の古名なり 教守は神戸なとの守り人をいふ名にや 速總以下古公まて何れかいつれの地の守とも今知りかたし

小牟久兒丹生麻呂(コムクノコニフマロ)娶佐夜造乙女古田生兒小佐夜非直子孫麻呂廣椅丹生相見宇胡閇大津古佐布秋麻呂志賀上長谷屋主 (サヤノミマツコガ トムスメフルトジヲウメルココサヒノアタヒガコマコマロヒロハシニフアヒミウサヤノミマツコガ トムスメフルトジヲウメルココサヒノアタヒガコマコマロヒロハシニフアヒミウコヘオホツコサフアキマロシガノカミハツセヤヌシ) 佐夜告門に見えたり 小佐非直麻呂廣椅は二人の名 宇胡閇も人名或は氏なるへし 大津は今の麻生津荘に住し人なとにて氏或は名になれるへし 古佐布秋麻呂は古佐布の神地を掌れる人にや 志賀上長谷今荘名となれり 屋主は神地におきたる今の名主荘屋の類なるへし

美麻貴(ミマキノ)天皇御世天ノ道根ノ命 美麻貴天皇は 崇神天皇なり 此の下脱文ありと見ゆ

国主御神其子座之大阿牟太首並二柱進物紀伊国黒犬一伴阿波遅国三原郡白犬一伴 (クズノオホカミソノコニマシシオホアムダオビトナラヒニフタハシラタテマツルキノクニノクロイヌヒトトモアハヂノクニノミハラコホリシロイヌヒトトモ) 国主御神は上に見えたると同神にて其子阿牟大首は阿牟田刀自の兄なるへし 此黒犬白犬の事は告門に見えたると異なり 此文闕文あれは告門のかたに従ふへし

品田天皇奉寄山地四至東限丹生川上西ハ限応神山星川神ノ勾ヲ南限阿帝川ノ南ノ横峯ヲ北ハ限吉野川 告門に載たる文には応神山の三字なし ここは後に書加へしなるへし

御犬口代奉飯地美乃国美津乃加志波波麻由布飯盛器止寄給 (ミイヌクチシロニタテマツルイヒトコロミノヽクニミツノカシハハマユフイヒモルケトヨセタマヒキ) ○告門の見えたり

又此伴犬甘(コノトモノイヌカヒ)藏吉人三野国在別牟毛津云人兒犬黒比云人此人奉寄此人等者令今丹生人云姓賜奉別 ( ミヌノクニニアルワケムケツトイフヒトノコイヌクロヒトトイフヒトノヒトヲタテマツリヨセコノヒトラハ イマニフヒトトイフカハネヲタマヒタテマツリテワカタ) 甘は飼の仮字にて大飼いなり 蔵吉は氏人は尸にて姓氏録に阿智使主の後藏人と見えたる人にて 応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしを同二十二年の事当社へ寄せるたまへるなるなり 文治建久頃(1185年〜)当社人の連署に坂上氏の多きも此縁によれるなるへし 三野国は備前国三野郡なり 牟毛津は氏なり 記紀姓氏録等に見えたり さて此二氏は後に丹生人といふ姓を賜はりて丹生祝以下と姓氏をわけたるなり

犬黒比云者彼御犬二伴率引弓笶手取持大御神坐阿帝川下長谷川原云名石神在今 (イヌクロヒトイフモノカノミイヌフタトモ井テヒキユミヤヲテニトリモチテオホミカミノマシマスアテカハノシモハツセガハラニイヌカヒノカミトイフナヲエテイシカミトナリテマシマスイマニ) 大御神は毛原荘宮村の氏神丹生大神社をいふ 阿帝川こヽには花園荘をさす 長谷川原とは川筋異なれとも阿帝川は今の郷名の如く大名あり 今花園荘の下に長谷荘あり 其下に毛原荘あり 毛原荘古名下長谷川原といふ 石神は今毛原荘宮村社地の艮三町許長谷川の傍にある立石といふ石なるへし 傍に犬飼石と云うあり 又氏神の側に犬飼明神社あり

彼兒(ソノコノ)花自十三祖時( ヨリトホマリミヨノオヤノトキ)于今大贄人仕奉丹生人召姓賜侍 (イマオホニヘビトトツカヘマツリテニフヒトヽメスカハネヲタマハリテハベリ) 花古本スエと訓り 一本葦と書す 共に誤字なるへし 下に花の字を小書したるは古く寫せる時花の字を疑ひて乎の字を添へしなり 十三乎の乎も同し 又或は十三世の誤なるへし 大意石神の末裔は十三世の遠祖の時より丹生人といふ姓を賜はれりとなり大贄人は獣をとりて神に供するゆえにいへる職名なり

和銅三年十二世祖彼季籍勘仕奉丹生眞人安麻呂 (ワトウミトセトヲマリフタヨノオヤコノトシノフミヲカンカヘツカヘタテマツリニフノマヒトヤスマロ) 始此人の書ける氏文に次第に書続きて奉れるなり 原本丹生人とあれと安麻呂は上に自豊耳至安麿十四世とある安麻呂なれは丹生人とは別姓なり 又下に十三世丹生眞人と見えたれは決て眞の字を脱せるなれは今補ふ さて下に十四世とあるは豊耳命よりかそへ茲に十二世とあるは丹生麻呂よりかそへしなるへし

天平十二(740)年十三世勘仕奉丹生眞人ノ仕奉 仕奉といふ詞二つ重りたるは古言の一格なるへし 眞人の下名を脱せり前文に據に伊賀津なり

此人等子孫今侍仕奉延暦十九(800)年九月十六日 此人等は廣く祝より人まてをいふ 延暦に奉れる人の名闕たり
 



右當家に蔵むる氏文なり 當家上古より今に至るまて血脉相承断絶ある事なし 実に舊家といふへし 正和五(1316)年以下評議して和泉国近木荘地頭職を當家の得分に宛行ふ下知状 當時は高野山學侶方より其領中を分與す 延暦後の暦代は其系譜に譲りて文書に見えたる者を左に擧く

總神主則道
 建暦二(1212)年則道譲状に見はる

友家
 則道の子なり同譲状及元永四(1121?)年の文書に見はる

常家
 友家の子なり建治二(1276)年友家譲状同三年奉書に見はる

恒信
 建武元(1334)年 綸旨に見はる

光俊
 恒信四十二代の孫といふ 光俊以前は丹生を氏とす 光俊初めて藤原を昌す 天授元(1375)年左近将監に任す
天授元年宣旨

光久
 正長元(1428)年左衛門少尉に任す
正長元年宣旨

玉澄
 永禄七(1564)年治部大輔に任す
永禄七年宣旨

秀澄
 元和の初(1615年)改めて丹生氏に復す


  所蔵古文書
譽田天皇勅筆祭文
一帖神殿に秘蔵して總神主の外は見る事を許さす

丹生大明神告門

後三條天皇宸筆詔文二宮に蔵む 還御の祭文又神入の祭文ともいふ

丹生氏氏文

延暦以後系図

 舊安麿相傳祝文伊賀豆天平十二(740)年籍文ありしか今亡失す 其他寄附状古文書数百通を蔵む

丹生四所明神社以上
 




狩場明神像 金剛峯寺 鎌倉時代 13世紀

金剛界大日如来




丹生明神像 金剛峯寺 鎌倉時代 14世紀

胎蔵界大日如来

上図と合わせて両界曼茶羅の如く本来一体とする真言密教の根本哲理を示す。




丹生高野両明神像(問答講本尊像) 金剛峯寺 鎌倉時代 14世紀

参考書
  *1 おおいなる邪馬台国(鳥越憲三郎)
和歌山県の歴史散歩(山川出版社)
日本の神々6(谷川健一編 丸山顕徳氏)白水社
紀伊続風土記
空海と高野山 弘法大師入唐1200年記念 NHK

公式丹生都比売神社

丹生都姫伝承

紀の国 古代史街道

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