隅田八幡神社(すだ)
橋本市隅田町垂井622

交通案内
和歌山線 隅田 
徒歩     北西へ20分 its-mo

祭神
譽田別尊、足仲彦尊、息長足姫尊、丹生都比賣命、瀬織津比女命

由緒

 さほど古くはない文献の隅田八幡宮由来略記によれば、当社は応神天皇が武内宿禰に供奉されて、筑前国から紀伊日高の衣奈浦を経て大和へ赴く途中、 この地に長く滞留されたことにちなんで、第29代欽明天皇の詔によりその遺蹟に八幡宮が勧請されたと言う。また貞観年中(859年以降)に創建されたとも伝わる。
 中世の隅田荘は石清水八幡宮領であった。当社を隅田の別宮と称した。12世紀初頭、中世の武士団隅田一族(隅田党)の祖、長(藤原)忠延が当社の社務を司る俗別当職に補任せられ、 さらに隅田荘の荘官である公文職を兼ね、代々藤原氏が両職に任じられて、鎌倉時代以降は隅田一族の氏神として発展。 江戸時代に隅田荘16ケ村の氏神として、また藩主徳川氏からも厚く崇敬された。 明治43年丹生都比売命、瀬織津比女命を合祀した。
 当社の名が有名になったのは、現在は東京国立博物館にある「国宝人物画像鏡」を所蔵していたことによる。付近の古墳からの出土物とされる。 鏡は直径19.9cmの円形、やや凸型で、わか国最古と言われる金石文の48字の銘と騎馬・歌舞の人物9人が鋳出されている。 人間界から離れ不老長寿の世界を示した神仙思想を表すものとされる。銘文は
癸未八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遺開中費穢人今州利二人等取白上同二百旱作庫此鏡
である。多くの解釈があるようだ。癸未の年で383年、443年(意柴沙加=忍坂=允恭皇后)、503年(男弟王=継体天皇説) などである。


お姿
 鳥居からの参道は200m以上はあろう。往時の勢力を偲ばせる。
 社殿は壮麗である。本殿背後には多くの摂社が鎮座し、神社合祀のすざましさを見せている。
 この付近には弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が見られる。また大和と紀伊を隔てる真土山があり、万葉集に多く詠われている。 また中将姫伝説、高野聖の足跡も見られる。

山門


本殿 七五三で賑わう



お祭り
管占い  1月15日 
例大祭 10月14日宵宮 15日本祭

紀伊国名所図会から

古代史街道 紀の国編
丹生都比売伝承
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