(粉河)丹生神社
紀の川市粉河町上丹生谷1050

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→粉河 北北東へ3km mapion



祭神
丹生津比女命、高野明神、生長足姫命、市岐島姫命



由緒
 麓四社明神と言われる。上下の丹生谷の産土神である。 丹生明神はこの付近を遷座されており、名手の夜殿太座として記録されている。境内社が多く、総社であったと思われる。



お姿
 丹生津姫を祀る神社はどことなく美しいが、この神社もよい雰囲気である。
 鎌倉時代の作品の国の重要文化財の金銅鳥頸太刀拵付(こんどうとりくびたちこしらえつき)を所蔵している。




お祭り
10月15日 例祭

紀伊續風土記 巻之三十三 那賀郡 粉河荘下 上丹生谷村から
○丹生明神社  境内周十五町

祀神  丹生明神 高野明神 気比明神 厳島明神
    相殿 面二間一尺 横一間五尺
末 社 大神宮 愛宕社 熊野権現社 荒神社 八幡宮 摩利支天社
    住吉社 恵美須社 弁財天社
    蟲除大神宮 稲荷明神 天日鷲命   相 殿 面六尺 横四尺

 村の西にあり 麓四社明神とも又本山大神宮とも称ふ 上下丹生ノ谷村の産土神なり 天野ノ社ノ祝祠に遷幸い名手ノ村の丹生屋乃所夜殿太坐とあるは即此地をいへり 然れは丹生明神いまた天野に鎮坐し給はさる以前に茲に來りまし 夜殿太坐とあれは御止宿ありし地なり 地名丹生ノ屋もこれに因りて起り天野に鎮座し給へとも此地にも又丹生明神を祀り奉れるなり 今四社明神と号し四坐の神となしたるは天野にならひたるなれはやゝ後ノ世の事なり 古は社殿雑舎宏壮なりしに天正の兵火に罹りて悉烏有となり 古文書舊記等此時皆焼失して古の事今詳ならす 延暦年中大伴ノ孔子古の子船主当社を粉河寺の内に勧請しで一山の鎮守とす 因りて此地を本山大明神ど称し又奥ノ院と称す祭禮は六月十八日粉河と同日なり 因りて粉河祭礼の時当社の神輿粉河村に渡御するを例とす 古は大鳥居に 勅願ありしに天正に焼失して今の額は近世近衛前ノ摂政殿下の筆跡なり 享保年中賜へる所にて額文字正一位勲八等丹生大明神とあり天野丹生ノ社の額と同じ

 毎年六月粉河寺祭礼の時騎馬并に渡る者七日の間 十一日より十七日まて十八日は祭礼なり 精菜にて毎夜丑の時白衣にて当社に拝参す これを丑の時参と称す 郷中の老若は此時奥ノ院参と号して羣参す 
 神宝太刀三振并に尖刀寛文中 南龍公より御寄附の品葵の御紋附湯立釜鉾并に御紋附鋒絹 有徳公より勧寄附御太刀の類尚多し 古筆の大般若経六百巻あり 
 神主藤井氏禰宣三人あり

 古社殿雑舎の数左の如し
本 社  拝 殿 二間六間  神楽殿 三間四間半  舞 台 三間四間
御供所 六間四間  祝 殿 二間四間  廳 二間九間  宝 蔵 三間四間
神輿蔵 二間三間  末 社 四社  大日堂 二間四間  護摩堂 三間四間
一ノ鳥居  二ノ鳥居 共に一丈二尺  三ノ鳥居   鐘 楼

別当光明院 九間五間
 右皆天正の兵火に焼亡すといふ
 別当  光明院 金山寺  天台宗比叡山延暦寺末
 庚申堂 三間四間 光明院の上数歩にあり
  本尊青面金剛役ノ行者作といひ伝ふ 叉四天の像を安す
  弘法大師の作といひ伝ふ 何れも古物なり
 奥四社明神  光明院の上敷歩にあり
  これを上の宮ともいふ 庚申堂及奥四社明神舊今の社地より乾五町許山ノ上にあり 寛政年中今の地に移す 右山上は古丹生明神鎮座の舊地なり 中普これを麓に遷し奉りしより麓四社明神の称あり 舊地にもその形を遺して小祠を営み麓に対して奥ともいひ上ともいふ 粉河寺より奥ノ院といひ本山といふは麓の宮をいふなり 此社をいふには非す

右別当光明院は丹生明神の北三町許にあり院内蔵むる所五大尊画像一幅弘法大師ノ筆或はいふ宅間ノ筆又天海僧正ノ正真筆の寺社規則一幅あり



丹生都姫伝承
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