底本 『住吉大社神代記の研究』田中卓著作集7 図書刊行会

摂津職に座す住吉大社の司、解(げ)し申す。言上(ごんじょう)神代記の事。

合す。

 從三位住吉大明神(おほあきつかみ)大社神代記

 住吉現神(すみのえのあらみかみの)大神顕座(あれます)神縁記

  玉野國、渟名椋の長岡の玉出の峡(を)の墨江の御峡(みを)に座す大神。

         (今謂ふ。住吉郡神戸郷墨江にいます住吉の大神なり。)

御神殿  四宮

第一宮  表筒男(うはつつのを)

第二宮  中筒男(なかつつのを)

第三宮  底筒男(そこつつのを)

 右の三前(みまへ)は、三軍(みたむろのいくさ)に令(のりご)ちたまふ大明神(おおあきつかみ)。
(亦の御名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰(むかひつのをききそおほふいつのみたまはやさかりの)尊。
又、速逆尊騰。)

第四宮 姫神の宮。
御名、氣息帶長足姫(おき△△ながたらしひめ)皇后の宮。
(奉齋祀(いつきつかえまつる)る神主(かむぬし)。
津守宿禰(つもりのすくね)氏人は、元、手搓見足尼(たもみの△すくね)の後なり。)


 神戸(かむべ) 二百十四烟(當國に四十烟。
播磨國に八十二烟、長門國に九十五烟。
■■■■烟。

齋垣(いみかき)の内の四至(しし)(東を限る、■■道。
南を限る、墨江。
西を限る、海棹(うみさを)の及ぶ限(かぎり)。
北を限る。
住道郷(すむちのさと)。)

凡そ大神の宮。
九箇處に所在(ませ)り。

當國住吉大社四前  

西成郡座摩(いがしりの)社二前  

原郡社三前  元住吉神社

播磨國賀茂郡住吉酒見社三前 戸三烟  加西市北条町 住吉神社

長門國豐浦郡住吉忌宮(いむみや)一前  山口県下関市 住吉坐荒御魂神社

筑前國那珂郡往吉社三前 福岡市博多区 住吉神社

紀伊國伊都郡丹生川上天手力男意氣(おけ)績ゞ流(つづくる)住吉大神 和歌山県橋本市 相賀八幡神社

大唐國一處 住吉大神社三前

新羅國一處 住吉荒魂三前

部類神

當國廣田大神 兵庫県西宮市廣田神社 

筑前國橿日廟宮  福岡市東区 香椎宮

糟屋郡阿曇社三前 福岡市東区 志賀海神社

播磨国明石郡垂水明神 神戸市垂水区 海神社  

紀伊国名草郡丹生「」姫神 和歌山県伊都郡 丹生都比賣神社

子神

座摩(ゐがしりの)神二前、一名、爲婆照神  大阪市中央区坐摩神社 

中臣住道神 須牟地 大阪市東住吉区 中臣須牟地神社

住道神  大阪市住吉区 神須牟地神社 

須牟地曾禰神  堺市北区 須牟地曽根神社

住道神 大阪市東住吉区 住吉神社(須牟地神社)

  件の住道神達は八前なり。
天平元年十一月七日 託宣に依り移徒(うつ)りて、河内國丹治比郡の楯原里に坐す。故住道里の住道神と号(なづ)く。)

赤留比賣命神 (中臣須牟地神 草津神)   大阪市平野区 赤留比売命神社

船玉神 (今謂う。齋祀は紀国の紀氏神で、志麻神。静火神。伊達神の本社なり。) 大阪市住吉区 船玉神社

紀伊三所神
  和歌山市中之島 志磨神社、和歌山市和田 静火神社、和歌山市園部 伊達神社

多米神   大阪市住吉区 多米神社

須牟道曾禰神  

止櫛侶伎比賣命神  大阪市住吉区 止止呂支比売命神社 

天水分豐浦命神   大阪市住之江区 天水分豊浦命神社 

奴能太〔比〕賣命神  大阪市住吉区 努能太比売神社跡

津守安必登神 (二前。海(わたつみの)神と号(なづ)く。) 大阪市住吉区 大海神社

難破生國魂神二前  大阪市天王寺区 生国魂神社

下照〔比〕賣神  大阪市東成区 比売許曽神社

味早雄神   大阪市鶴見区 阿遅速雄神社 

萱津神

長岡神   住吉大社境内摂社 貴船社 

大歳神   大阪市住吉区 草津大歳神社跡

忍海神  

伎人(くれひとの)神

片縣神  

阿閇神   兵庫県加古郡播磨町 阿閇神社 

魚次神   兵庫県明石市魚住町 住吉神社 

田蓑嶋神 大阪市西淀川区佃 田蓑神社


開速口姫神   
大阪府堺市堺区 開口神社

錦刀嶋神  

長柄神      大阪府八尾市 長柄神社跡  

武雄命〔神〕

神財流代長財

神世草薙釼一柄 (驗あり。 日月五星 左青竜 右白虎 前朱雀 後玄武。)     

形俾文彫着なり (長さ三尺 金銀螺鈿(らでん)の上作 唐錦の袋に納む。)

唐鏡一尺四面  白銅鏡八面八寸  

鐵鏡八面(八寸) 黒漆のに納む。

濱鐵小刀四柄 犀角の鞘に納む。
  

大刀 四十柄  弓胡録(ゆみやなくひ)四十具  各々油絹の袋に納む。

靹八枚  楯四十枚  桙四十本  

鈴四十口 大二十口 小二十口

御神殿

三間の絹斑幄(まだらまく)一條 (御鮮除の料)  

玉縵(たまきぬ)一枚 (金銅並びに餝居玉(かざりすえのたまなど)

■頭二枚 金銅  

麻桶笥(をけ)一口 (金薄を押す)

(たたり)、一基 平文(ひゃうもん)  

盖(きぬかさの)骨四具 胡粉繪(こふんゑ)

(かせひ)、二枚  金剛  鏡八面 四面銅 四面鐵  

鈴三十二口 金銅八口 中 二十四口


鏡筥八合 
平文(ひゃうもん)ならびに白綾縫立  

大刀 平文ならびに金銅金物  

桙三十二本 胡粉繪

弓四張 赤漆  

鞆四枚 黒漆  

胡録(やなくひ)四面 金銅の金物あり

箭二百枚  几帳(きちょうの)骨四基 金銅金物  

几帳帷四條 紫頬纈

呉床(あぐら)四脚 平文(ひょうもん)、金銅の金物ならびに色革の敷物  

敷床四脚 黒漆  絹盖四條 

弓袋四條 緋油衣  胡録袋四條 緋油衣  

大刀袋四條 錦  緋綱八條  白馬一疋 色採餝  

衣韓三合 赤漆 筥形に加ふ ならびに鐵(かなほだし)

唐餝鞍(かざりくら)一具 雲蘂(うす)一茎 銀面一枚  

髪袋一枚  尾袋一枚

鐙(あぶみ) 懸泥繪(でいゑ)  手綱一條   

泥障(あふり)一懸  唐(くつばみ)一懸 金銅  

頸總 (紫漆 大鈴一口を加ふ)  鞦(しりかき)一具 杏葉(ひら)を付す

     已上。神寶二具なり 内装束一具料 表束一具料  

生絹壁代(すずしのきぬのかべしろ)四條 長さ各々六丈三尺、五幅  生

絹幌(きぬのとばり)八條 長さ各々七尺 四幅裏あり  

帛絹天上上覆(うはおほひ) 長「さ各々一丈四尺

紫絹御帳帷(みちょうかたびら)四條 長さ各々七尺 十八幅  

細布御床土敷(ほそいぬののみゆかのつちしき)四條 長さ一丈四幅  

緋絹御床上覆四條

坂枕四枚 端を錦で裏(つつ)む  

疊四枚 端を雲繝(うんげん)で裏(つつ)む  

八重疊四枚 長さ一丈四尺 八幅 端を錦で裏(つつ)む

住吉大神顕現次第 神代

 四至 東に限り、驛路。
南に限り、朴津(えのつ)の水門(みなと)。
西に限り、海棹の及ぶ限り。
北に限り、住道郷。

右。大明神(おほあきつかみ)の顕(うつし)く現れませるゆゑは、古昔(いにしへ)、天地未だ割れず。
陰陽分れざるとき、混沌(まろがれ)たること、

鶏子のごとく、溟(くくもり)りて、牙(きざし)を含めり。
其の清み陽なるものは、薄靡(たなび)きて天となり、重く濁れる者は、淹滞(たなび)きて地となる。
精しく妙なるが合へるは摶(あおぎ)易く。
重く濁れるが凝れるは(かたまり)難し。
故、天先づ成りて、地後に定まる。
然して後、神聖(かみ)そのなかに坐します。
故く曰。
開闢(あめつちのわか)るる初め、洲壤(くにつち)の浮び漂へること。
(たとへば)猶、游ぶ魚の水の上に浮けるがごとし。
時に天地の中に一の物生まれり。
状(かたち)葦牙のごとし。
便(すなわち)神となる。
天御中主尊。
一書に曰く。
国常立尊。
次に国狭槌尊。
次豐斟渟尊。
凡(すべ)て三神(みはしらの)ます。
乾(あめ)の道獨りなる。  
乾の道とは天の道
このゆえに此の純男(をとこのかぎり)をなせり。
次有
神。尊。
次に沙土尊。
次に神ます。大戸之道尊。
次に大苫邊尊。
次に神ます、面足尊。
次に惶根尊。
次に神ます、伊装諾尊。伊装冉尊。
凡て八神ます。
乾坤の道相参りてなる、このゆゑに此の男女をなす。
国常立尊より伊装諾尊・伊装冉尊に至るまで是を神世七代と謂ふなり。
爰に天の神、伊装諾尊・伊装冉尊に謂りて曰わく。
「豊葦原千五百秋瑞穂の地あり。
宜しく汝(いまし)往いて循(しら)すべし」とのたまひて。
廻(すなはち)天の瓊戈を賜う。
ここに二神、天上(あめ)の浮橋に立たして、戈を投(さしおろ)して地を求む。
因りて滄海(あおうなばら)を画(かきな)して引擧ぐるとき之。
即ち戈の鋒(さき)より垂落(したたりお)つる之潮(うしお)(こ)結りて嶋となる。
名づけて馭廬嶋(をのころしま)と曰ふ。
二神かの嶋に降居(あまくだり)し、八尋の殿を化作(みた)つ。
また天の柱(みはしら)を化堅(みた)つ。
陽神、陰神に問うひて曰わく、「汝が身の成れるところ有るや。」

対へて曰く、「吾が身に具成(なりな)りて陰元(めのはじめ)と称ふもの一処あり。」

陽神曰はく、「吾が身に亦具成て陽元と称ふもの一処あり、吾が身の陽元のところを以て汝が身の陰元のところに合わせむと思欲(おも)ふ。」

と爾(しか)云うふて、即ちまさに天柱を巡らんとして約束(ちぎ)りて曰はく、〔妹〕は左より巡れ、吾は当に右より巡らむ。」

既にして分れ巡りて相遇ひたまひぬ。
陰神乃(すなは)ち先唱(とな)へて曰はく、「妍哉(あなにゑや)、可美少男歟(えをとこ)を。」。
陽神後に和(こた)へて曰はく、「妍哉(あなにゑや)、可愛少女(えをとめ)を。」

逐に夫婦(みとのまぐはひ)して、先ず蛭兒(ひるこ)を生む。

便(すなは)ち葦の船に載せて流(はなちや)りき。
次に淡「路」洲(あはのしま)を生む。
此また以て兒の敷に充れず。
故、還復(かへ)りて天の神に上り詣でて
具(つぶさ)にその状を奉(まを)したまふ。
時に天の神、太占(ふとまに)を以て卜合(うら)ふ。
乃ち教(あじは)ひて曰く。
婦人(たをやめ)の辞(こと)其れ已(すで)〔先〕に揚たれば乎。
宣(むべ)更に還り去(い)ね。」

乃ち時日を卜定(うら)へて降ります。
故(かれ)二神改(あらた)めて復柱を巡りたまふ。
陽神は左よりし、陰神は右よりして、既に遇ひたまひぬ。
陽神先づ唱へて曰く、「妍哉(あなにゑや)。
可愛小女(えをとめ)を。」

陰神後に和(こた)へて曰く、「妍哉、可愛小童(えをとこ)を。」

然して後に〔宮〕を同じうして共に住(すまひ)して兒を生む。
大日本豊秋津洲と号く。
次に淡路洲。
次に伊豫の二名洲。
次に筑紫洲。
次に億岐二子洲。
次に佐度洲。
次に越洲。
次に吉備洲。
此によりて之を大八洲国と謂う。
然して後に悉(ことごと)に万物を生みましき。
火の神軻遇突智の生まるゝに至りて。
其の母伊装冉尊焦(や)かれて化去(かむさ)りましぬ。
時に伊装諾尊恨みて曰く、「唯この一兒を以て我が愛(うるは)しき妹(なにものみこと)に替えへるとかも。
則ち頭邊に匍匐(はらば)ひ、哭泣(なきいさ)ち流涕(かなしみ)たまふ。
其の涙堕ちて神となりき。
是即ち畝(うね)丘(を)の樹下(このもと)にます神なり。
啼澤女(なきさわめの)命と号(まを)す。
遂に帯び(みは)かせる十握釼を抜き、軻遇突智を斬りて三段に爲したまひつ。
此の各々神と化成(な)りき。
爰に伊装諾尊、伊装冉尊を追ひて、黄泉(よみのくに)に入るりまして及きて、〔共に語らひたまふ時に、伊弉冉尊曰く、〕吾夫君尊(あがなせのみこと)、何で晩(おそ)く来(いでま)しつる、吾は既に泉之竈(よもつへぐひ)せり。
然れども吾当に寝息(ねやす)まむ。
請ふ、な視ましそ。」とまをしたまひき。
伊装諾尊聴(き)きたまはず、陰(ひそかに)に湯津抓櫛(ゆつつまぐし)を取りたまひ、その雄柱を牽折(ひきか)き、以秉炬(たび)となして見たまへば、則ち膿沸(うじゅわ)き虫流りき。
今世(いま)人、夜に
片之火(ひとつび)とぼすことを忌む。
〔又〕夜に擲櫛(なげぐし)を忌む。
これ其の縁(ことのもと)なり。
時に伊装諾尊大(いた)く驚きて曰く、「吾は意(おも)へず、不須也凶目汚穢之國(いなしこめきたなきくに)に到(き)にけり。」と

のたまひて、乃ち急(すみやか)に走り廻帰(かへ)りましぬ。
時に伊装冉尊みて恨曰はく、何ぞ要(ちぎ)りし言を用ひたまはずして
吾に恥辱(はじ)みせたまひつ。
乃ち泉津醜女(よもつしこめ)八人、一に云ふ泉津日狭女(よもつひさめ)、を遣して〔追ひ〕留めまつりき。
故、伊装諾尊釼を抜きて、背(しりひて)揮(し)きつゝ逃げたまひぬ。
因(かれ)黒鬘(みかづら)を投げうちたまひしかば
これ即ち蒲陶(ゑび)山葡萄と化成(な)りき。
醜女見て採り、(は)む。
み了(をは)りて〔即〕更(また)追ふ。
〔伊弉諾尊〕又湯津抓櫛を投げたまふ。
これ即筍(たかむな)と化成りき。
醜女また〔似て〕抜きむ。
み了りて即ち更追ふ。
後に則ち伊装冉尊亦自らも追ひ来ましぬ。
是の時、伊装諾尊已(すで)に泉津平坂に至りましき。
[一に云く、伊弉諾尊]乃ち大樹に向ひて放(ゆまり)したまふ。
[これ]即ち巨川(おほかわ)と化成りぬ。
泉津日狭女その水(かわ)を渡らむとする間に、伊装〔諾〕尊已に泉津平坂に至りましき。
故、便(すなは)ち千人所引(ちびき)の磐石を以てその坂路を塞ぎ
伊装冉尊と相向き立たして、遂に絶妻之誓(ことと)を建(わた)す。
時に伊装冉尊曰はく、「愛(うるは)しき吾夫君(あがせのみこと)し、かく言(のたま)はゝ、吾まさに汝の治(し)らす国の民(ひとくさ)日に千頭(ちひと)縊り殺さな。」とまをしたまひき。
伊装諾尊乃ち報(こた)へて曰はく、「愛(うるは)しき吾妹(なにものみこと)し、かく言(のたま)はゝ、吾は則ち、まさに日に千五百頭(ちいとひと)産まな。」とのりたまひき。
因(かれ)曰はく、「此よりな過(き)ましそ。」とのりたまひて、即ち其の杖を投げたまふ。
是を岐(ふなと)神と謂ふ。
又その帯びを投げたまふ。
是を長道磐(ながちはの)神といふ。
又その衣を投げたまふ。
是煩(わずらひ)の神と謂う。
又その褌(みはかま)を投げたまふ。
是を開囓(あきぐひ)の神と謂ふ。
又履(みくつ)を投げたまふ。
是を道敷(ちしき)の神と謂ふ。
その泉[津平坂〕、あるいは所謂泉津平坂とは復別に処〔所〕にあるにあらず、但(ただ)死(まか)るに臨びて気(いき)絶ゆる際、是を謂ふか。」

に塞(さや)れり磐石(いは)は、是を泉門塞之(よみとにさやります)大神と謂ふ。
亦の名は道返(ちかへしの)大神。
又追
ひくる黄泉津醜女・五百神(いほがみ)・八雷(やくさのいかづち)等に桃子(もものみ)を採りて投げうちたまひしかば、皆還去(にげかへ)りき。
仍(かれ)、末(のち)の世に青人草の爲に便(すなは)ち投げて、生魂(いくたま)死魂を滅(しづ)むるは此の縁(ことのもと)なり。」 伊装諾尊一に曰はく。
伊耶奈岐尊悔いて曰はく。
「吾、伊装冉尊、一に曰はく、伊耶奈媚尊」〔前(さき)に〕不須也凶目汚穢(いなしこめきたな)〔之(き) 処に到る。
故まさに吾が身の蝕穢(けがれ)を滌(あら)ひ去(す)てむ。」

とのたまひて、則往(いで)まして筑紫の日向の橘の小戸の檍原而に至りて祓除(みそぎはら)ひたまひき。
遂に身の所汚(けがれ)を盪滌(すぐぎきよめ)たまはぬとして
仍(すなはち)興〔(こと)言(あげ)〕して曰はく、「上瀬(かみつせ)は是太(はなはだ)疾(はや)し。
下瀬(しもつせ)是太弱(ゆる)し」。
とのたまひて、便ちこの中瀬(なかつせ)に濯(すす)ぎたまふ。
これに因りて生)な)りませる神の号を(みな)を八十枉津日(やそまがつひ)の神と日す。
次にその枉(まがごと)を
矯(なほ)さむとして生りませる神の号を神直日(かむなほび)の神と曰す。
次に生りませるは大直日神。
又海(わた)の底に沈み濯ぎたまふ。
これに因りて生りませる神の号を底津少童(そこつわたつみ)命と曰す。
次に底筒男(そこつつつのを)命。
又潮のなかに潜(かつ)き濯(すす)ぎたまふ。
これに因りて生りませる神の号を中津少童命と曰す。
次に中筒男命。
又潮の上に〔浮き〕濯ぎたまふ。
これに因りて生りませる神の号を表津少童命。
次に表筒男命。
凡て九神ます。
其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、三所の大神、
今墨江御峽(すみのえのみをの)大神と謂ひ、号へて住吉大明神(のおほあきつかみ)と称すなり。)

り祓除(はらへ)する縁發(ことのもと) 因fりて此の時に始まるなり 底津少童命・中津少重命・表津少童命、これ安曇連等が祭る神これなり。
然して後、左の眼を洗ひたまへり。
これに因りて生りませる神の号は天照大神と曰す。
復(また)右の眼を洗ひたます。
これに因りて生りませる神の号は月讀尊と曰す。
復鼻を洗ひたまふ。
これに因りて生りませる神の号を素戔嗚尊と曰す。
凡(すべ)て三神なりましき。

住吉大神顕現次第 仲哀天皇

十四代、足仲彦天皇、穴門の豊浦宮に御宇(あめのしたしろしめ)す。
長門国豊浦郡北樹社にあり。
今住吉齋宮(いむみや)と謂ふ
山口県下関市 忌宮神社

父(かぞのきみ)を日本武尊と曰し、第二子なり。
異母弟(はらことのいろと)に蘆髪(あしかみの)浦見王あり。
仲哀天皇、穴門の豊浦宮と筑紫の橿日宮の兩宮に御宇(あめのしたしろしめ)す。
是より先、叔父彦人大兄の女大中姫を娶りて妃(みめ)としたまひ、子(みこ)坂王・忍熊王を生みます。
次に來熊田造(くくまたのみやつこ)が祖の大酒主の女、弟媛(おとひめ)を娶りて譽屋別(ほむやわけの)皇子を生みます。
次に気「帶」長足姫皇后、譽田(ほむたの)天皇をうみます。
合せて四王なり。
父(かぞのきみ)を日本武尊と曰す。
又の名を日本小童尊と号す。
天皇崩(かみき)たまひ、白鳥となりて天に上りたまふ。
浦見王、父天皇の為に至(はなは)だ不尊(ゐやな)し。
仍りて討殺し了りぬ。
母(いるはの)皇后(きさき)を両道入姫(ふたじいりひめ)と曰す。
活目入彦五十狭茅天皇の女なり。
天皇容姿(みかほ)端正(きらきらし)身長(みのたけ)十尺(ひとつゑ)。
祖父稚足彦天皇の即位之後四十八年に立ちて太子となりたまふ。
時太子三十一歳。
〔稚足彦〕天皇ひ、男子(ひこみこ)ましまさず。
故、孫を立てて嗣(ひつぎ)となしたまふ。
即位は元年
(壬申)春正月庚寅朔(庚子)二年(葵酉)春正月(甲寅)(甲子)季帯長足姫〔尊〕を立てて皇后としたまふ。
父、気長宿禰王の女にして、母は葛城高媛なり。
天皇橿日宮に居す。
秋九月
乙亥己卯群臣に詔(みことのり)して以て熊襲を討つことを議(はか)らしめたまふ。
時に神まして皇后に託(かか)りて誨(をし)へまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂ひたまふ。
これ(そしし)の空国(むなしくに)ぞ。
豈(あに)兵を挙げて伐つに足らむや。
茲(こ)の国に愈(まさ)りて宝の国あり。
へば処女(をとめ)の(まよひき)の如くて向津国(むかつくに)あり。
眼の炎(かがや)く金銀彩色(うるはしきいろ)多(さは)にその国にあり。
是を拷衾新羅’たくぶすましらぎの)国と謂ふ。
若し能く吾を祭りたまはゝ、則ち曽て刃に血ぬらずして、其の國必(ふつ)に自服(まつろ)ひなむ。
また熊襲も服ひなむ。
その祭には天皇の御船及び穴門直踐立(あなとのむらじほむたち)の献(たてまつ)れる水田十萬代(しろ)、名は大田といふ。
是物等を以て太幣(ふとみてぐら)となしたまへ。」 

天皇、神の言(みこと)を聞きて疑の情(みこころ)まします。
便(すなは)ち高き丘に登りて遙に望(おせ)りたまふに、大海曠(ひろ)く遠くして国も見えず。
是(ここ)に天皇、神に対(こた)へまつりて曰はく、「朕(あれ)周望(みめぐ)らすに、海のみありて国なし。
豈(あに)大虚(おほぞら)に國あらむや。
誰(なに)の神の徒(いたづら)に朕(あれ)を誘(あさむ)きたまふ。
また皇祖(みおや)諸々(もろもろ)の天皇等(たち)尽(まま)に神祇(あまつやしろくにつやしろ)を祭(いは)ひたてまつりたまふ。
豈遺(のこ)れる神まさむや。」 

時に神また皇后に託(かか)りて曰はく、「天津水影の如く、押伏(おしふ)して我が見る所の國を、何ぞ無しと謂(のたま)ひて、以て我が言を誹謗(そし)りたまふ。
其れ汝王(いましみこ)、かく言(のたま)ひて遂に信(う)けたまはずは、必ずその国を得たまはじ。
唯今、皇后初めて有胎(はらみ)ませり。
その子(みこ)獲たまふことあらむ。」

然れども天皇猶信けたまはずして、以て強(あなが)ちに熊襲を撃ちたまふ。
え勝ちたまはで還ります。
九年(
庚辰)春二月(癸卯)朔(丁未)
天皇〔忽に痛身(なやみ)たまふことありて、〕 明日崩(かむさ)りたまう。
時に年(みとし)五十二。
即ち知る、神の言(ことば)を用ひずして早く崩fりたまふ。
に云ふ。
天皇親しく熊襲を伐ちちて賊}(あだの)矢(やぐし)に中(あた)りて崩りたまふ。)或記に曰はく。)

[足仲彦]天皇、熊襲の二國を撃ち化平(たひらげ)むと思(おぼし)めせり。
是の時に神あり。
沙麼縣主(さばのあがたぬし)の祖、内避國避高松屋種(うちさるくにさるたかまつやたね)に託(かか)りて、以て天皇に誨へて曰はく。
御孫尊(みまごのみこと)や、若し宝を得まく欲(おぼ)さば、まさに現(うつつ)に授けまつらむ。」 

便(すなわ)ちまた曰はく。
「琴(こと)将(もて)來(き)以て皇后に進(まつ)れ。」 

則ち神の言(みこと)の随)まにま)に皇后琴を授(さづか)りたまふ。
是において神、皇后に託(かか)りて以て誨へて日はく。
「今御孫尊の所望(ねがひ)の国は、寶へば鹿の角のごとく、以て無實國(うつけたるくに)なり。
其れ今御孫尊の御(いたま)へる船、及び穴戸直踐立が貢(たてまつ)れる水田(こなた)、名は大田を幣(まひなひ)として、能く我を祭(いは)はゝ、則ち處女の(まよひき)の如くて、金銀多(さは)なる眼(ま)炎(かがや)く國を以て御孫尊に授けまつらむ。
時に天皇、神に對へて曰はく、「其れ神と雖も何ぞ謾語(あざむき)きたまはぬ。
何處に將に国〔有らむ〕。
且(また)朕が乗る所の船を既に神に奉りて、朕曷(いづ)れの船に乗らむ。
然れども誰未だ誰(いづ)れの神と知らず、願はくは其の名を欲知(うけたまは)らむ。」 

時に神、その名を称(なの)りて〔曰はく〕。
「表筒雄・中筒男・底筒雄。」

かく三軍神(みはしらのいくさのかみ)と名を称りて、且重ねて曰はく。
「吾が名は向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(むかひつのをききそおはふいつのみたまはやさかりのみこと)なり。」 

時に天皇、皇后に謂(の)りて曰はく。
「聞き悪(にく)き事言(のたま)ひます婦女(たをやめ)か。
何ぞ速狭騰(はやさかり)と言(もうさ)く。
是(ここに)神、天皇に謂(の)りて曰はく、 「汝王(いましみこと)、かくの如く信(う)けたまはずは、必ず其の国を得じ。
唯今、皇后懐姙(はらま)せる子(みこ)。
盖し得ることあらんか。」 

この夜に天皇忽に病發(やみおこ)りて以て崩(かむ)さりましぬ。

住吉大神顕現次第 神功皇后

ここに皇后大神と密事あり。
俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。) 

時に皇后、天果の神の教に従はずして早く崩ましゝことを傷みたまふ。
是に皇后及び大臣武内宿禰、天皇の喪(みものおもひ)匿(しな)めて、天下に知らしめず。
則ち皇后、大臣[及び]中臣烏賊津連(いかつむらじ)・大三輪大友主君・物部膽咋連・大件武以連(たけつものむらじ)に詔して曰はく、「今、天下未だ天皇の崩りましゝことを知らず。
若し百姓(おほむたから)知らば、懈怠(おこた)る者あらむか。」 

則ち四(よたり)の大夫(まちきみ)に命(おほ)せて、百寮(もののつかさ)を領ゐて宮の中を守らしめ、竊(ひそか)に天皇の屍(みかばね)を収めて、武内宿禰に付(さづ)けて、以て海路より穴門に遷りて、豊浦宮に殯(もがり)し無火殯(ほなしあがり)をなす(甲子)大臣武内宿禰、穴門より還りて、皇后に復奏(かへりごとまお)す。
是の年、新羅の役(えだち)に由りて、以て天皇を葬(かく)しまつることを得ず。
是に氣「息」長〔足〕姫の皇后、天皇の神の教に従はずして早く崩りまししことを哀傷(いた)みたまひて、(
氣「息」長〔足〕姫天皇。
諱(いみな)は神功。
天皇第十五代。
初め橿日宮に居ます。
後に磐余稚櫻宮、大和國十市郡磐余里に在り。)
以爲(おもほ)さく、「崇りたまふ所の神を知りて、財寶の國を求めむと欲す。」 

是を以て、群臣及び百寮(つかさつかさ)、(みことおほせ)て以て罪を解(はら)へ過を改めて、更(また)齋宮(いつきのみや)を小山田邑に造らしめたまふ。
三月(
壬申)朔、皇后吉日(よきひ)を選びて齋宮に入り、親(みずか)ら神主となりたまふ。
則ち武内宿禰に命(おほ)せて撫琴(みことひ)かしめ、中臣鳥賊津使主を喚(め)して、審神者(さには)となす。
因りて千繪高繪(ちはたたかはた)を以て、琴頭尾(ことかみことしり)に置きて請(ね)ぎまをして曰はく、「先の日に天皇に教へたまひしは誰れの神ぞ。
願はくば其の名を知りたてまつらむと欲(おも)ふ。」 

七日〔七〕夜に逮(いた)りて乃ち答へて曰はく、「神風の伊勢國の百傳(ももつた)ふ渡逢縣(わたらひのあがた)の。
拆鈴(さくすず)の五十鈴(いすず)の宮に居る神の名は、撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかひつひめのみこと)」
天照大神の荒御魂また間ひたまはく、「是の神を除きて復(また)神有(いま)すか。」

答へて曰はく、「幡荻穂(はたすすき)に出し吾(あれ)や、尾田吾節(おだあふし)の淡郡(あはのこほり)に居る神あり。」と。
 問ひたまはく、「また有いま)すや。」 

答へて曰はく、「天に事代 虚に事代、玉籤入彦(たまくしいりひこ)、嚴(いつ)の事代神あり。」 

問ひたまはく、「また有すや。」 

答へて曰はく、「有無(あることなきこと)え知らず。」 

是に審神者の曰はく。
「今答へたまはずして、更に後に言(のたま)ふことありや。」 

則ち封へて曰はく、「日向の國の橘の小門(をと)の水底に居て、水葉も稚(わかやか)に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男の神います。」と。
 問ひたまはく、「またいますや。」 

答へて曰はく、「有無(あるなしのこと)え知らず。」 

遂に且神有すとも言はず。
時に神の語(みこと)を得て、教への随(まま)に祭りて、然して後に吉備臣の祖の鴨別(かものわけ)を遣(また)して、熊襲國を撃つたしむ。
未た浹辰(しばらく)も経ずして、自らに服(まつろ)ひぬ。
また荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲(はしろくまわし)といふ者あり。
その人となり強(こは)く健(つよ)し。
また身に翼ありて、能く飛びて以て高く翔)あが)る。
是を以て皇命に従はずして毎(つね)に人民(おほみたから)を略盗(かす)む。
戊子、皇后、熊鷲を撃たむと欲(おほ)して
橿日宮より松峽(まつのを)の宮に遷りたまふ。
時に飄風(つむじかぜ)忽に起りて、御笠風き堕されぬ。
故、〔時人〕その所号づけて御笠と曰ふ。
辛卯)層増岐野(そそきの)に至り、即ち兵を挙げて羽白熊鷲を撃ちて滅(ころ)しつ。
左右(もとこひと)に謂りて曰はく、「熊鷲を得取りて、我が心則ち安し。」

故、その処を号けて安と曰ふ。
丙申)山門縣(やまとのあがた)に転至(うつ)りまして、則ち土蜘蛛田油津媛(たふらつひめ)を誅(つみ)なふ。
時に田油津媛の兄(いろね)夏羽、軍(いくさ)を興して迎來(まゐ)く。
然るに其の妹誅さると聞きて逃げぬ。
夏四月(
壬寅)朔(甲辰)、北のかた火前國(ひのみちのくに)松浦縣(まつうらのあがた)に到りて、玉嶋里の小河の側に進食(みけ)す。
是に皇后針を勾げて鈎(ち)をなし、飯粒を取りて餌にし、裳の糸を抽き(取りて)緡(つりのを)にして、河の中の石の上に
登りて、鈎を投げて祈(うけ)ひて曰はく、「朕、西のかたを征ちて財國を求めむと欲す。
若し事を成すことあらば、河の魚飲鈎(つくりく)へ。」 

因りて以て竿を挙げて乃ち細鱗魚(あゆ)を獲つ。
時に皇后曰はく。
「希見(めづら)しき物なり。」と。
故、時人其の処を号けて梅豆邏國}(めづらのくに)と曰ふ。
今松浦と謂ふは訛(よこなま)れるなり。
是を見て其の國の女人。
、四月(うづき)の上旬(かむのとをか)に(当る)毎に鈎(ち)を以て河中に投げ、年魚(あゆ)を捕らふること今に絶えず。
唯男夫(をのこ)釣ると雖も、以て魚を獲ること能はず。
既にして皇后則ち神の教の驗(しるし)あることを識(しろ)しめして、更の神祇を祭祀(いはひまつ)る。
躬(みずか)ら西を征ちたまふと欲(おぼ)して
爰(ここ)に神田(みとしろ)を定めて佃(つく)る。
時に儺河(なのかは)の水を引かせて神田を潤(つ)けむと欲ひて溝(うなで)を掘り、迹驚崗(とどろきのをか)
に及びて、大磐塞(ふさが)るを以て溝を穿(ほ)ることを得ず。
皇后、武内宿禰を召して、釼鏡を捧げて、神祇を祷祈(いのりの)み。
溝を通さしむことを求めしむ。
則ち雷電霹靂(かむとき)して、その磐を蹴裂(くえさき)て水を通さしむ。
故、時人その溝を号けて裂田(さくた)の溝と曰はく。
皇后還りて橿日浦に詣りまして、髪(みくし)を解き海に臨みて曰はく、「吾、神祇の教を被(う)け、皇祖の靈(みたまのふゆ)を頼り、滄海を浮渉(わた)りて躬ら西を征たむと欲ふ。
是を以て、今頭を海水に滌(すす)ぐ。
若し驗あらば、髪自(おのずか)ら分れて兩(ふた)つになれ。」 

即ち海に入れて洗(すす)ぎたまふ。髪自らに分れぬ。
皇后便(すなわ)ち髪を結分(あ)げたまひて、鬢(みづら)にしたまふ。
因りて以て群臣に謂りて曰はく、 「夫れ師(いくさ)を興し衆(もろもろ)を動かすことは國の大事なり。
安危成敗(やすさもあやふさもなりやぶれること)必(ふつ)に斯にあり。
今征伐(ゆきう)つ所のあらむ。
事を以て群臣に付(さづ)く。
若し事成らずば、罪、群臣にあらむ。
これ甚だ傷(いたきこと)なり。
吾、婦女(たをやめ)にして加以不肖(またおさなし)、然れども暫く男(ますらを)の貌を仮りて、強(あなが)ちに雄(をを)しき略(はかりごと)を起こし、上は神祇の靈を蒙り、下は群臣の助に蒙(よ)りて、兵甲(つはもの)を振(おこ)して嶮浪(たかなみ)を渡り、艫船(ふね)を整へて以て財(たから)の土(くに)を求めむ。
若し事就(な)らば群臣共に功(いさおし)あり。
事就らずば吾濁り罪あらむ。
既に此の意(こころ)あり。
其れ共に議へ。」 

群臣皆曰はさく、「皇后、天下の為に宗廟社稷(くにいへ)を安くせむ所以を計ります。
且、罪臣下(おのれら)に及ばず。
頓首(つつしみて)詔を奉(うけたまは)る。
秋九月(
庚午)朔(己卯)、諸國に令(みことのり)して、船舶(ふね)を集め(つど)へて兵甲を練るらむ。
時に軍卒(いくさびと)集い難し。
皇后曰はく、「必ず神の心(みこころ)ならむ。」と。
則ち大三輸(おほみは)の社
筑前国夜須郡於保奈牟智神社を立て、〔以て〕刀矛(たちほこ)を奉りたまふ。
軍衆自らに聚(あつ)まる。
是に吾瓮海人烏摩呂(あへのあまをまろ)をして、酉海に出でて、国ありやと察(み)せしめたまふに、還りて曰さく、「國も見えず。」 また磯鹿海人名草を遣して視せしめたまふ。
數日(ひをへて)還りて曰さく。
「西のかなたに山あり。
帶雲(くもい)横(よこしま)に(わた)れり。
盖し國あるか。」 

爰に吉日を卜(うら)へて、臨發(たち)たまはむとすること日あり。

新羅攻略

時に皇后親(みずから)斧鉞(まさかり)を執(と)りたまひて、三軍(みたむろのいくさ)に令(のりご)ちて曰はく、「金鼓節無(かねつづみわいため)く、旌旗錯亂(はたまがひみだ)るゝとき、則ち士卒(いくさのひとども)整はず。
財(たから)を貧(むさぼ)りて多欲(ものほし)み、私を懐きて内に顧みせば、必(ふつく)に敵(あだ)の為に虜(と)れなむ。
その敵少くとも、な軽(あなづ)りそ。

敵強(おほ)くとも、な屈(おじ)そ。
則ち暴(おかししのがむ)をば、な聴(ゆる)しそ。
自(みずか)らに服(まつろ)はむを、な殺しそ。
逐に戦勝たば必ず、賞(たまもの)あらむ。
背走げば、自ら罪あらむ。」

既にして神誨ふることありて曰はく、「和魂は王身(みみ)に(した)ひて、寿命を守らむ。
荒魂は先鋒(みいくさのさき)としての、師船(いくさふね)を導かむ。」 

即ち神の教を得て拝禮(ゐやま)ひたまふ。
因りて依網吾彦男垂見(よさみのあひこを たりみ)を以て祭の神主となす。
時に適(たまたま)、皇后の開胎(うむがつき)に当たれり。
皇后則ち石を二枚取りて御裳腰に挿(さしはさ)みて祈(いは)ひて曰さく、「事(をは)竟りて還らむ日に茲土(ここ)に産れたまへ。」 宣り賜ふこと驗(しるし)あり。
『(
一に云ふ。田裳見足尼(たもみのすくね)、を取りて、御裳(みも)を搓(たも)み御裳腰に挿(さしはさ)みて祈(うけ)ひ曰さく。
「産(はら)みませる吾に、廣國美土(ひろしうましきみくに)を賜はれ。」と。
 爰に
脱落(ぬけおち)たり。
因りて耶波多佐波奈良波佐志(やはたさはならはさと)と白して、強(しひ)て挾挿(さしはさ)みき。
仍(かれ)、八幡(やはた)の皇子と白す。
八幡神が応神天皇であることの傍証
祈(うけひ)の随(まにま)に賜ふと、譽田天皇と
号け申す。
故、名を改め手搓宿禰と詔(みことのり)し賜ふ。』


 其の石、今も伊都縣の道の側に在り。
一枚は長さ一尺一寸、重さ四十九斤、一枚は長さ一尺一寸、重さ四十九斤。) 

既にして則ち荒魂を(おきを)ぎて軍の先鋒となし、和魂を請(ね)ぎて王船(みふね)の鎭となす。
冬十月(
己亥)朔(辛丑)、和珥津(わにつ)より發ちたまふ。
時、飛廉風(かぜのかみ)を起し、陽侯浪(うみのかみ)を挙げ、海中(うみ)の大魚(おおち)悉(ふつく)に浮びて、〔船〕を挾(さしはさ)む。
則ち大風順(おひかぜ)に吹きて、帆船(ほつむ)波の随(まにま)に櫨(かいかじ)を労(いと)はず、便ち新羅に到る。
時に随船潮浪(ふななみ)遠く國の中に逮(およ)ぶ。
即ち知る、天神地祇の悉(ふつ)に助けたまふ。
新羅の王(こきし)是に戦々栗々(おじわななきて)、則ち諸人を集めて曰はく、「新羅の国を建てし以來、未だかって海水(うしほ)の国に凌(のぼ)ることを聞かず。
若し天運(よのかぎり)尽きて、國海となるか。
この言(こと)未だ訖(をは)らざる間に、船師(ふないくさ)海に満ちて、旌旗(みはた)日に輝き、鼓吹(つづみふえ)声を起して山川悉(ふつ)に振ふ。
新羅王遙かに望みて以爲(おも)へらく、「非常(おもひのほか)兵(つはもの)まさに已が國を滅ぼさんとす。」 

(おじ)て失志(こころまど)ひぬ。
乃今(いまし)醒めて曰はく。
「吾聞く、東に神の国〔有〕り。
日本(やまと)と謂ふ。
また聖王(ひじりのきみ)あり、天皇と謂ふ。
必ずその國の神兵(みいくさ)ならむ。
豈、兵を挙げて以て拒(ふせ)ぐべけむや。」

といひて、即ち素旆(しろきはた)あげて自(みずか)ら服(したが)ひぬ。
素組(しろきつな)して以て面縛(みずからとら)はる。
〔圖〕籍(しるしへふむた)を封(ゆひかた)め、王船(みふね)の前に降りて、因りて以て叩頭(の)みて曰さく、「今より以後(ゆくさき)、長く乾坤(あめつち)と与(とも)に伏(したが)ひて飼部(みむまかひ)とならむ。
其れ船(ふなかじ)を乾さずして春秋に馬琉(むまくし)及び馬鞭(むまむち)を献らむ。
また海の遠きに煩(いたつ)かずして、以て年毎に男女の調を貢(あが)らむ。」 

則ち重ねて誓ひて曰はく、「東にいずる日、更に西より出づるにあらずして、且(また)、阿「利〕那禮河(あれなりかは)の返(かへ)りて以て、逆(さかさま)に流れ、及、河の石の昇りて星辰(あまつみかほし)になるに除(あら)ずして、殊に春秋の朝(まゐで)を闕(か)き、怠(おこた)りて琉鞭)くしむち)の貢を廃(や)めれば、天神地祇共に討(つみな)へたまへ。」とまおす。
時にある人の曰はく、「新羅王を誌さむと欲ふ。」 

是に皇后の曰はく、「初め神の教を承けて、將に金銀の國を授からむとして、また、重寶(たから)の府庫を封(ゆひかた)め、圖籍(しるしのふみ)を収む。
自服(まつろ)はむを、な殺しそ。」 

或記に曰はく、皇后男の束(よそひ)して新羅を征ちたまふ。
時に神導きたまふ。
是に由りて随船浪(ふななみ)遠く新羅國の中に及(み)ちぬ。
是に新羅王、宇流助富利知干(うるそほりちかむ)参り迎へて跪(ひざまづ)き、王船(みふね)を取らへて、則ち叩頭(の)みて曰さく。
「臣(やっこ)今より以後(ゆくさき)、日本國に居(ましま)す神の御子に、内官家(うちつみやけ)と{して}朝貢(みつぎもの)を絶つこと無けむ。
一に云ふ)新羅王を禽獲(とりこにえ)て海邊に詣(いた)りて、王の肋(あはたこ)を抜きて石の上に匍匐(はらばい)はしめ、俄にして斬りて沙中(すななか)に埋む。
則ち一人を留めて新羅の宰(みこともち)として還りたまふ。
然る後、新羅王の妻、夫の屍を埋めし地を知らず。
独り宰を誘(おこ)づる情(こころ)あり。
乃ち宰を誂(あとら)へて曰はく、「汝(いまし)まさに王の屍を埋めし処を識(し)らせば、必ず篤(あつ)く報いむ。
また吾、汝が妻とならむ。」 

是に宰、誘言(あざむくことば)を信けて、密に屍を埋めし処を告ぐ。
則ち王の妻、國人と共に議(はか)りて宰を殺す。
更に王の屍を出して他處に葬(はふ)る。
時に宰の屍を取りて王の墓の土の底に埋め、以て王の(ひつぎ)を挙げてその上に(おろし)ゐて曰はく。
「尊き卑しき次第(ついで)、國も當に此の如くなるべし。」 

是に天朝聞(天皇か)、聞きて重發震忿(またいかり)たまひて、大いに軍衆(いくさ)を起こして頓(ひたぶる)に新羅を滅ぼさむと欲す。
是を以て軍の船、海に満ちて詣(うた)る。
是の時、新羅國の人悉(ふつ)に懼戦恐(おそれおのの)く。
即ち相集ひて共に議(はか)りて王の妻を殺して以て罪を謝(うべな)ひき。
又三軍に号令して曰はく、「自服(まつろ)はむを、な殺しそ。
今既に財國を獲つ。
亦人自服降(まつろひしたが)ゐぬ。
之を殺すのは不祥(さがなし)。」

とのたまひて、乃ち縛(ゆはいつな)を解きて飼部となし、遂に其國中に入りまして、重寶の府庫(くら)を封(ゆひかた)め、圖籍文書(しるしのふみ)を収(とりおさ)めたまふ。
即ち皇后の杖(つ)ける矛(みほこ)を以て新羅王の門に樹(た)て、後葉(のちのち)の印と為したまふなり。
爰に新羅王波沙寐錦(はさむきむ)、即ち微叱己知波珍干岐
爲(みしとちはとりかむき)を以て質(むかはり)として、仍りて金銀彩色(うるはしきいろ)及綾羅絹(あやうすはかたとりのきぬ)(もたら)し八十艘(やそかはら)[船]に載せいれて、官軍(みいくさ)に従い(もたら)し来らしむ。
これを以て新羅王、常に八十船の調(みつぎ)を以て日本[國]に貢(おく)る。
其れ是の縁(ことのもと)なる。
是に高麗・百済二國の王、新羅の圖籍(しるしへらむた)を収(とりおさ)め、日本國に(いおり)の外に{来りて}降りぬと聞き、密に其の軍勢(みいくさ)を伺はしむ。
則ち不可勝得(えかつまじきこと)を知りて、[自ら]叩頭(の)みて(まを)して曰さく、「今より以後、永く西蕃と称ひつゝ春秋の調貢(みつぎ)を絶たじ。」 

{故〕因りて以て内宮家を定む。
是所謂三韓(みつのからくに)なり。

誉田皇子の誕生


『然(しか)して、新羅國を服(したが)へ給ひ、三宅を定め、また大神の社を定め奉(まつ)る。
而して祝(はふり)は志加乃奈具佐(しかのなくさ)なり。而然(しか)して皇后、新羅より還り渡り坐(ま)して。
筑紫の橿比宮に御坐(ましま)し時、』。
 庚辰の年十二月戊戌朔辛亥、譽田皇子を生みます。
故時人その産處(うみぶところ)を号けて宇瀰(うみ)と曰ふ。
筑紫の大神、社を定め奉らむとして皇后に誨へて曰はく、「我が荒魂をば穴門の山田邑に祭らしめよ。」

時に穴門直(あたひ)の祖(おや)踐立(ほむたち)、津守連(むらじ)の祖手搓足尼(たもみのすくね)、皇后に啓(まお)して曰さく、「軍(みいくさ)の三神(みはしらのかみ)居(ま)さ欲(まほ)しくしたまふ地をば、必ず(よろ)しく、定め{奉る}べし。」 

則ち踐立を以て荒魂を祭るのを主(ぬし)となし、仍りて祠(ほこら)を穴門の山田邑に立つ。長門国豊浦郡住吉坐荒御魂神社
爰に[新羅を伐ちたまひし〕明年(
辛巳)の春二月、皇后、大神の教へ賜ふに随ひて群卿(まうちきみたち)及び百寮を領ゐて穴門の豊浦宮に移ります。
即ち天皇の喪(みもかり)を収めて、海路より京(みやこ)に向(いで)ます。
時に坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)、天皇崩(かみさ)りまして、亦、皇后西を征(う)ちたまひ、并に皇子新(あらた)に生れませりと聞きて曰はく、「今皇后子(みこ)ましまし、群臣皆從へり。
必ず共に議(はか)りて幼主(わかきみ)を立てむ。
吾等何ぞ兄たるを以て弟に從はむや。」 

と密に謀(はかりごと)為して、乃ち天皇の爲に陵(みささぎ)を作ると詳(いつわ)り、播磨に詣りて山陵(みささぎ)を赤石に興つ。
仍りて船を編みて淡路嶋に(わた)して、その島の石を運びて造る。
則ち人毎に兵(つはもの)を取らしめて皇后を待つ。
是に犬上君(いぬかみのきみ)の祖倉見別(くらみわけ)、吉師(きし)の祖五十狭茅宿彌(いさちのすくね)と共に坂王に隷(つ)きぬ。
因りて以て〔将(いくさの)〕軍(きみ)として東國の兵を興さしむ。
時に坂王・忍熊王、共に餓野(とがぬ)
摂津国矢田部郡福原荘夢野村に出でて
祈狩(うけひがり)して曰はく、「若し事を成すことあらば、必ず良獣を得む。」 

二王各ゝ仮(さずき)に居(ましま)す。
赤き猪忽に出でて假に登り、坂王を咋ひて殺しつ。
軍士(いくさひと)悉に慄(お)づ。
忍熊王
倉見別に謂りて曰はく、「是の事大なる恠(しるまし)なり。
此に於いて吾、適を待つべからず。」 

則ち軍を引きて更に返りて住吉に屯(いは)み、『乃ち亦曰はく「二所有(ましま)せば、こそ、論(あげつらひ)もあるべし。
今、吾こそ獨り天下(あめがした)に可(きみたる)べし。
相闘はむと欲す。」 

時に大神、皇后に誨へ賜はく、「忍熊王、師(いくさ)を起こして待てり。」と。
皇后、〔忍熊王〕師以を起こし待つと聞きて、武内宿禰に命(おほ)せて、皇子を壊きて横さまに南海(みなみにみち)より出て、木の水門に泊まらしめ、皇后[之]船は大神の船とともに直に難波を指して登る。
時に皇后の船、海中に廻り、以て進むことを能はず。
更に務古(むこ)の水門に還りまして卜ふ。
是に天照大神誨へまつりて曰はく。
「我が荒魂をば皇后(きさき)に近づくべからず。
当(まさ)に御心の廣田國(ひろたのくに)に居(まゐ)らしむべし。」 

即ち山背根子(やましろねこ)の女(むすめ)葉山媛を以て祭はしむ。
亦、稚(わか)日(ひ)[女(め)〕尊誨へまつりて曰はく。
「吾、御心の活田長峡(いくたながお)の國に居らむと欲す。」 

因りて海上五十狭茅(うみかみのいさち)を以て祭はしむ。
 〔亦〕事代主尊誨へまつりて曰はく。
「吾を御心の長田(ながたの)國に祠(まつ)れ。」 

則ち[葉山媛]の弟(いろと)長媛を以て祭はしむ。

住吉大神の摂津国鎮座

亦、表筒男、中筒男、底筒男の三軍神、誨へて曰はく、「吾が和魂(にぎみたま)は宣く大御榮(おほみさかえ)の大津の渟中倉(ぬなくら)の長岡(ながおかの)峡(を)の國に居さしむべし。
便(すなは)ち往來(ゆきかふ)船を看護(みそなは)さむ。」 

因(かれ)則ち手槎足尼(たもみのすくね)を以て祭拝(いはひまつ)らしむ。
難破(なには)の長柄(ながら)に泊(とまり)賜ふ。
膽駒山の嶺に登り座(いま)す時、甘南備山
奈良県平群郡三室山を寄さし奉る。
大神、重(また)宣(の)りたまはく、「吾の住居(すま)はむと欲(おも)ふ地は、渟名椋の長岡の玉出の峡(を)ぞと。
時に皇后勅(の)りたまはく、「誰人かこの地を知れるや。」と。
今問はしめ賜ふ地は、手槎足尼の居住地(すむところ)なり。」とまをす。
「然かあれば替地(かはりのところ)を手槎足尼に賜ひて、大神に寄さし奉るべし。」と宣り賜ふ。
時に進みて手槎足尼の啓(まを)さく、「今須(しらま)く替地を
賜はらずとも、大神の願ひ賜ふ随(まにま)に己が家舎地(いへところ)等を以て、大神に寄さし奉らむ。」

とまをして已(こと)了(をへ)き。
即、大神の住み賜ふこと御意(みこころ)の如くなるに因りて、住吉(すみのえ)の國と名を改め号し、大社を定めたまひき。
即ち悦び賜ひて宣(おたま)はく、「吾は皇后の神主となりたまひ太襁褓(ふとつむき)を懸(か)けて、齋祀たまふは享け賜はし。
手槎足尼に拝戴(いつ)かれて
天皇君(すめらみこと)を夜の護り、晝の護り奉り、同じく天下の國家人民(みかどとおほみたから)を護り奉らむ。」と宣り賜ふ。
時に皇后、神主となりたまふことを止め賜ひ、「吾に代りて齋祀奉(いつきいはひまつ)らしむるに、手槎足尼を神主となせ。」と勅(のら)し賜ふ。
仍、神主を奉ること已了(を)へき。
亦、大神宣(のたま)はく、「若し手槎足尼等の子孫(うみのこ)の過罪(つみとが)ありと雖も、見決(つみなへ)たまはざれ。
若し当罪(あつべきつみ)を勘(かむか)へ見決(さだむ)可きこと在らむ時は、替りて吾その其の罪を受けなむ。
曾(ゆめ)な勘決(つみさだめ)しめたまひそ。」と。
爰に皇后、「免奉(ゆるしまつ)りて、自今以後(いまよりのち)犯せる罪も見決(さだめ)まつらず。」と勅答(こたへまを)して亦了(を)へき。
時に大神曰はく、「此の勅旨(みことのり)に誤(たが)ひて、若し見決(つみさだめ)らるれば、天下の宗廟社稷(くにいへ)に難(わざわひ)・病患(えやみ)・兵亂(みだれ)、口舌(くちあへ)、諸悪難疾疫(もろもろのあしきこと)の起る在らむ。」と盟宣(うけひ)賜ひき。
仍(かれ)件(そ)の宅地(いへところ)に御社を定めて、齋主(いはひぬし)を奉りて奉鎭祭(しずめまつ)りき。
亦、皇后の御手物(みてつもの)、金絲(くがねのいと)・利(たたり)・麻桶笥(をけ)・(かせ)・一尺鏡四枚・剱・桙・魚鹽地(なしほのところ)を寄さし奉(まつ)りて賜ひ、「吾は御大神と共に相往まむ。」

と詔り賜ひて、御宮を定め賜ひき。
是を以て渟中椋(ぬなくら)の長岡の玉出の峡を改めて住吉(すみのえ)と号(まお)す。
これより大神の座(まし)賜ふ処処(ところどころ)を住吉と称(まお)しき。
亦、大神宣り賜はく、「吾、天野
高野山の近く・錦織(にしこり)・石川・高尾張・膽駒・甘南備山等の榊(さかきの)黒木・土毛土産(くにつもの)・菓(このみくさのみ)并に荷前(のさき)、及錦刀の嶋物(しまつもの)・海藻(め)等の物を以て齋祀(いはひまつ)れ。」と。
神の教の随(まにま)に以て鎭祭(しずめまつ)りぬ。
則ち平(ひら)に海を渡ることを得賜ふ。

忍熊王の戦死

爰に忍熊王、復軍を引きて退き、道(うじ)に到りて軍(いくさだち)す。
皇后、南のかた紀伊國に詣(いた)りまして、太子に日高
和歌山県日高郡に会ひたまひぬ。
議(はかりごと)を以て皇后及び群臣、遽(すみやか)に忍熊王を攻めむと欲ひて、更に小竹宮(しぬのみや)に遷る。
是の時に適(あた)りて、昼暗きこと夜の如くにて、已に多くの日を経たり。
時人、「常夜(とこやみ)行く。」と曰ふ。
皇后、紀直の祖豊耳に問ひて曰はく、「是の恠(しるまし)は何の由_(ゆえ)ぞ。
須(しばら)く旧老に問ふべし」。

時に一老父(おきな)ありて曰さく、「傳へ聞く、かかる恠(しるし)をば、阿豆那比(あつなひ)の罪と謂ふ。」

問ふ、「何の謂ぞ。」 

對へて曰さく、「二社の祝者(はふりら)共に穴を同じくして合葬(あはせをさ)むるか。」 

因りて推問(と)はしむ。
巷里(むら)に一人有りて曰さく。
小竹祝と天野祝は共に善(うるはしき)友なり。
小竹祝逢病(やまひ)して死(みまか)りぬ。
天野祝血泣(いさ)ちて曰さく。
「吾生ける時に交友(うるはしきとも)たりき。
何ぞ死して穴を同じくすること無ならむや。
則ち屍の側に伏して自ら死(みまか)りぬ。
仍りて合せ葬(をさ)む。
蓋し是か。」

乃ち墓を開きて視るに實なり。
故更に棺(ひつぎ)を改めて、各ゝ処を異にして以て埋む。
則ち日の暉炳(ひかり)〔(て)〕りて、日夜の別あり。
三月丙申朔庚子、三軍大神の教に依り、武内宿禰・和珥臣の祖武振熊{に命(おほ)せて}數萬の衆(いくさ)を率ゐて忍熊王を撃たしむ。
爰に武内宿禰等、精兵(ときつはもの)を選て山背(やまし)ゆ出て、道に至りて以て河の北に屯(いは)む。
忍熊王営(いほり)を出でて戦はむと欲す。
時に熊之凝(くまのこり)といふ者ありて、忍熊王の軍の先鋒(さき)となる。
則ち己が衆(いくさ)を勤めむと欲(おぼ)し、因りて以て高唱(おとたか)く歌ひて曰さく。
時に武内宿禰、三軍に令(のりご)ちて〔悉(ことごと)〕に椎結(かみゆい)せしむ。
因りて以て號令(のりご)ちて曰はく、「各ゝ(おのおの)儲弦(おさゆずる)を髪の中に蔵め、且木刀を佩け。」 

既にして乃ち皇后の命(みこと)を挙げて、忍熊王を誘う(おこづ)りて曰はく、「吾、天下を貧(むさぼ)らず。
唯劣(おさな)き王を懐きて君王に従はむ。
豈距

ぎ戦ふことあらむや。
願はくば共に弦(ゆずる)を絶ち兵(つはもの)を捨て与に連和((うるはし)。
然らば則ち君王は登天業(あまつひつぎしら)して、以て席(みまし)に安く枕を高くして專(たうめ)に萬機(よろずのまつりごと)を制(すら)せ。」 

則ち顯(あきらか)に軍の中に令(のりご)ちて、悉(ことごと)に弦を断ち刀を解きて河水に投げいる。
忍熊王その誘言(おこづりごと)を信けて、悉に軍衆に令(のりご)ちて、兵を解きて河〔水〕に投げて弦を断たしむ。
つ。
爰に武内宿禰、三軍に令ちて儲弦(をさゆずる)を出し更に張りて、以て真刀を〔を佩き〕河を渡りて進む。
忍熊王、欺かれたることを知りて、倉見別・五十狭茅宿禰に曰さく、「吾既に欺からぬ。
今、儲(まうけ)の兵なし。
豈戦ひ得べけむや。」

といひて、兵を曳きて稍(やや)に退く。
武内宿禰、精兵を出して追ふ。
適(たまたま)に逢坂(あふさか)に遇ひて以て破る。
故、其の処を号けて逢坂と曰ふ。
軍衆(いくさびとに)走ぐ。
挾狭浪(ささなみ)の栗林に及(おひつ)きて、多(さわ)に斬りつ。
是に血流れて栗林(くるす)に溢(つ)く。
故、是の事を悪(にく)みて、今に至るまで、其の栗林の菓(このみ)を御所(おもの)に進(たてまつ)らず。
忍熊[王]逃げて入るゝ所なし。
則ち五十挾茅宿禰を喚びて歌ひて曰さく、「伊装阿藝(いざあぎ)、伊佐智須區禰(いさちすくね)、多摩枳波(たまきはる)、于知能阿曾(うちのあそが)、。
勾夫智能(くぶつちの)、伊多弖於〔破〕孺破(いたでおはずは)、珥倍廼利能(にほどりの)、介豆岐齋奈(かつきせな)。」 

則ち共に瀬田済(せたのわたり)に沈みて死(みまか)りぬ。
時に武内宿禰その屍を探(ま)けども、得ず。
然して後敷日(ひへて)道河に出たり。
武内宿禰、歌ひて曰さく、「阿布瀰能瀰(あふみのみ)
淡海の海、済多能和多利珥(せたのわたりに)、介豆區苔利(かつくとり)、多那伽瀰須疑弖(たなかみすぎて)、于泥珥等瀰倍(うじにとらへつ)。」 

攝政元年

冬十月癸亥朔甲子、群臣、皇后を尊ひて皇太后(おほきさき)と曰す。
是年、太歳辛巳、即ち攝政元年となす。
二年壬午冬十一月丁亥朔甲午、天皇を河内國長野陵に葬(かく)しまつる。
亦、新羅百濟の兩國、貢物の貴賤を争ふことあり。
皇后、大神に祈(の)りて曰はく、「誰人を百済に遣して、将に事の虚実を(かむが)へむ。
誰人を新羅に遣して将に其の罪を問はむ。」 

便(すなは)ち大神、具にその人を指して誨へ賜ふ。
之に因りて千熊長彦を新羅に遣して責む。
荒田別・鹿我別を以て将軍となし、百済國に遣して二國の貢物の貴賤を推問(かむがへと)ひ、虚実を弁定(はかりさだ)めしむ。
即ち兵を勒へ、亦兵衆を増さむと請ひ、新羅國を襲い伐つ。
即ち百濟國王、辟支山(へきのむれ)に登りて盟(ちか)ふ。
復、古沙山(こさのむれ)に登りて、磐石の上に居り、亦盟ひて曰はく、「若し草を敷きて坐(ゐしき)とせば、恐(おそる)らくは火に焼かれむことを。
且(また)木を取りて坐(ゐしき)とせば、恐らくは水の為に流れむことを。
磐石(いは)に居るは、長く遠きことを示す。
今より以後、于秋萬蔵(よろずよ)、絶ゆることなく、常に西蕃と称(い)ひつゝ、春秋に朝貢(みつぎたてまつ)らむ。
五十年春二月。
荒田別、大神と共に還り賜ひて上奏(かへりごとまお)す。
即ち皇太后、太子及び武内宿禰に語りて曰はく、「朕が交親(むつま)しむ百済國は、是大神の授けたまふ所の賜なり。

人に由りての故に非ず。」 

大神の大社を定めて所奉齋祀(いつきまつり)き。
或記に曰はく、住吉大神と廣田大神と交親(むつみ)を成したまふ。
故、御風俗(みくにぶり)の和歌(こたへうた)ありて灼然(いやちこ)なり。
「墨江伊賀太
浮渡末世住吉夫古(すみのえに いかだわたりませ  すみのえがせこ)。」 

是即ち廣田社の御祭の時の神宴歌(かみあそびのうた)なり。

一。御封(みふ)寄さし奉る初

明石郡の封は元、寄さし進(まつ)れるところなり。


 船木の村。
船木連宇麻呂(うまろ)が戸を頭(はじめ)と為し五烟進依(よさしまる)りき。
田二百代。

 

黒田の村。
船木連鼠緒(ねずを)が戸を頭と為し十烟進依りき。
田百代。

 

辟田(ひけた)の村。
船木連弓手(ゆみて)が戸を頭と為し十烟進依りき。
田四百代。

穴戸の豊浦宮に御宇(あめのしたしろしめ)しし天皇(すめらみこと) 仲哀天皇

 神戸百廿九烟充(あ)て奉る。

石余の栗(みかくりの)宮に御宇しし天皇  清寧天皇

 神戸五十烟充て奉る。

池邊の烈槻(なみつきの)宮に御宇天皇  用明天皇 

 神戸廿烟充て奉る。

 御田二町二百十歩充て奉る。
 (
凡田(おほした)二町、忍海(おしうみ)二百十歩。)

右、大神宣はく、「我が田我が山に、潔浄水)きよらけきみず)を錦織・石川・針魚(はりを)川より引き(かよ)はせて、榊の黒木を以て能く吾を齋祀(いはひまつ)れ。
覬覦(みかどかたぶ)けむとする謀(はかりごと)あらむ時には、斯くの如く齋(いは)ひまつれ。」

と詔宣(みことのり)したまひき。

亦、山預(やまあづかり)の石川錦織許呂志(いしかはのにしごりのころし)が仕へ奉る山名(やまな)は所所に在り。

 兄(せの)山・天野・

 横山・錦織・

 石川・葛城・

 音穗(おとほ)・高向・ 華林・二上山等と号曰す。
葛城山は元高尾張なり。)

四至

    (東を限る。大倭國の季道・葛木高小道・忍海刀自(おしみのとじの)家・宇智道。

      南を限る、木伊國伊都縣の道側、并び大河。

      西を限る、河内泉の上鈴鹿・下鈴鹿・雄濱(をはま)・日禰野公田・宮處珍努宮・志努田公田・三輪和泉国大鳥郡上神道。

      北を限る、大坂・音穂野公田・那波多乃(たなばたの)男神女神・吾嬬坂(あづまさか)・川合・挾山・槇田・大村・斑・熊野谷)

右、山河寄さし奉る本記とは、昔、巻向の玉木宮に御宇しし天皇、癸酉年春二月庚寅[朔]、大神の願(ね)ぎたまふ随(まにま)に、屋主忍男武雄心(やぬしおしをたけをこころの)命(一に云ふ、武猪心(たけゐこころ)を遣(つかは)して、寄さし奉るところなり。
爰に武雄心命、此山を以用(もつ)て幣(みてぐら)となし、阿備(あび)の柏原(かしはばらの)
和歌山市安原村社に居て齋祀(いはひまつ)る。県
九年の内に即(かれ)難破の道龍住山の一岳を申し賜ひき。
 (
武猪心命とは武内足尼の父なり。臣八腹(おみやはら)等が祖なり。) 

御宇天皇の御世、熊襲二國・新羅國等を誅ち平(ことむ)け賜ひ、西蕃(にしのやっこ)の屯倉(みやけ)と成す。
丙申年二月丙巾申、山門縣に至り賜ひ、土蜘蛛夏羽・田油津女を誅殺(つみ)し、亦、大八嶋内、國國縣縣(くにあがた)の皇命に随はざる八十梟魁帥(やそたける)の類(ともがら)を誅伏(ことむけ)しめ賜ふ。
大神詔宣賜はく、「大國は天皇(すめら)が御意(みこころ)の任(まま)に、大山は己(おの)が意の任に、願乞(ねぎまを)す随(まにま)に寄さし奉(まつ)り賜ふ所なり。」 

亦、誓宣(うけひ)賜はく、「雲懸(かか)り霰(あられ)ふり霞(かすみ)たつを橿(さかひ)とせむ。」

と宣り了へて、「此の潔浄操嚴(きよきいつ)坂木黒(の)木・土毛土産・(くさのみ)等を持(とりも)ちて吾を斎祀(いつきまつ)らば、朝霧夕霧の起つが如(ごと)、天皇君の離主影を離れず、我が和魂を称へて夜の〔護り昼の護りと〕護り奉り、天の下の國家(みかど)も同じく平安(やすら)けく、守護(まもり)まつらむ。
覬覦(みかどかたぶく)る謀(はかりごと)謀(うかがひ)叛(おか)す時にも、斯くの如く好(よ)く吾を齋祀(いつきまつ)らば、刃に血ぬらずして必ず擧足誅(けこし)てむ」とまをす。
時に八咫烏申して云く、「雲懸り霰ふり霞たつを春秋定めず七廻飛巡(ななたびとびめぐ)り、地地(ところところ)の名を問い定め申さむ。」 

と申して点定(しめおき)奉る。
爰に御神兒(みこかみ)集(つど)ひて、佃(みた)を墾開(は)り、饗嘗(みあへ)したまふ。
其の地を墾田原(はりたはら)と謂ひ、小山田
大阪府河内長野市と謂ひ、坂本内墾田と謂ふ。
「亦、大神誓約宣(うけ)て詔宣(のりたま)はく、「我が山に後代(のちのよ)の驗(しるし)をなさむ。」

と、宣りたまひて、吾瓮海人烏麻呂(あへのあまをまろ)・礒鹿海人名草を差し遣はし、海潮を汲み運びて山中に置き、(いはやま)に石壷を調(しつら)へ、潮を入れて石の盖を覆はしむ。
是を以て後の公驗(しるし)となす。
其の地を鹽谷(しはや)の國と云ひ、吾瓮海人烏麻呂が潮潰(も)れ落ちし地を鹽小谷と云ふひ、多く漏れ落ちし地は既に潮灌(そそ)ぐまでに成り、其の地を鹽渕(しほふち)と云ふ。
神兒等(みこがみたち)、皷谷より雷の鳴る出づる如く集ひて、墾田原・小山田・宇智の墾田(はりた)を開墾佃(はりひら)く。
羽曰熊鷲を誅伏(ことむけ)て得たる地を熊取
和泉国熊取と云ひ、日晩(く)れ御宿賜ひし地を日寝と云ひ、横なはれる中山あるに依りて故に横山と云ふ。
横なはれる嶺ある故に横嶺と云ふ。
嶺の東の方頭(かた)に杖立(つえたち)二處あり。
石川錦織許呂志・忍海刀自等、水別(わけ)を争(いさか)ひ、論(あげつ)らふ。
故、俗に杖立と謂ひて論義をなす。
亦、西國見の丘あり、東國見の丘あり、皆大神、天皇に誨へ賜ひて、鹽筒老人(しほづつのをぢ)に登りて国見せしめたまひし岳なり。
亦、横岑の冷水(さむきみもひ)潔清(きよ)く漲(みちあふ)れる地あり、吉野の萱野沼(かやのぬま)。
智原(ちはら)の萱野沼といふ。
此の水(みもひ)を食聞(きこしめ)すに甚(いと)(さむ)く清き水なり。
仍りて御田に引漑(そそ)がむと欲(おぼ)し、針魚(はりを)をして溝谷(うなで)を掘り作らしめむと思召す。
大石小石を針魚、掘返して水を流し出でしむ。
亦、天野水あり、同じく掘り流す。
水の流れ合う地を川合と云ふ。
此れ山堺の地なり。
大神誓約(うけ)ひて詔宣(のりたま)はく。
「我が溝の水を以て引漑(ひきそそ)がしめ、我が田に潤(つ)けてて其の稻實(いね)を獲得(う)ること石川の河沙瀝(すないし)の如く、其の穎(ほ)を得て春秋の相嘗祭(あひなめのまつり)の料(しろ)に充てなむ。
天の下の君民の作つ佃にも同じく引漑(そそ)がしめ、其の田の実も我が田の実と同じきが如く、谷谷にある水を源より颯颯(さつさつ)として全國(くにぐに)に決下(さだめくだ)らしめむ。」

と誓約(うけ)ひ賜ひ、高向堤(たかむくのつつみ)に樋を通はして流し灌(そそ)ぐ。
其の樋ある地二百代(
河内志紀の屯倉の高向堤の地に在り。樋の尻に住吉と謂ふ俾文穿ち彫付く。)

墨江の堰(ゐせき)あり。
同屯倉の沙古田(さことの)里十五坪、堰(ゐせき)ある地五十代。)

時に倭の忍海刀自、并びに親族等(うからやから)を率ゐて大神に白(まを)して曰はく、「此の水を別分ちて給へ」と乞ひ申す。
仍りて智原の萱野の水を分けて小少(いささか)賜へり。
悦びて其の賜へる水を持ち行きて
溝を穿ち造るに溢るゝなし。
末地(あしきところ)を侘(わ)ぶ。
大神誨へ賜ひて「保木と上木(まき)と葉(はさかき)を集め、土樋(つちひ)を造作(つくりな)して水を越せ。」と詔り賜ふ。
御誨(みをしへ)の随(まにま)に遂に水を通はして田に澗(つ)く。
因(かれ)、其の地を水分(みくまり)・水越(みこし)と云ふ。
亦、三輪に住む人をして水分を鎮め守らしむ。
時に八咫烏子等、「吾が住む嶺の斯より此の内に寄さし奉らむ。」

と鳴き、「東は倭岑金剛山か、南は美曾道・竹川、西は公田、北は玉井・倭川・比太岑道。」

と鳴きて差(さ)し申す。
(この
此の内と云ふ字より下の鳥の鳴音は訛(よこまな)れる如し。)

亦、難破の高津の宮に御字しし天皇仁徳天皇に誨(さと)して大神の詔(のり)宣(たま)はく、「大嶋守を以て紺口溝(こむくのうなで)を堀らしめよ。」と。
 同じく水を流して上鈴鹿・下鈴鹿・上豐浦・下豐浦四処の郊原(はら)に四万頃(よよろづしろあまり)の田を開墾(つく)る。
既にして農田膏油(つくりたるこえうるほ)す。
故(かれ)、其の地の百姓、作(つくり)喰(くら)ふ寛饒(にぎはひ)の賀(よろこび)ありて凶年の(としえぬ)の患(うれひ)なし。
是、大神の本願(みうけひ)なり。
石川・針魚河の水を大神の御田に引漑(そそ)ぐ縁(ことのもと)は此なり。
 (
針魚、此の河を通はし、今に絶えず。住來となす。)

膽駒・神南備山の本記

四至 

  東を限る。膽駒川・龍田公田。
  南を限る。賀志支利坂・山門川
大和川・白木坂・江比墓。
  西を限る。母木里公田
枚岡神社近辺・鳥坂河内国大県郡に至る。
  北を限る。饒速日山
生駒山頂の北側にそばだっている山

右、山の本記とは、昔、大神の本誓(みうけひ)に依り寄(よ)さし奉る所、巻向の玉木の宮に御宇(あめのしたしろしめ)す天皐垂仁天皇・橿日宮に御宇しし天皇仲哀天皇なり。
熊襲國・新羅國・辛嶋を服(まつろ)はしめ賜ひ、長柄泊より膽駒嶺に登り賜ひて宣(の)り賜はく。
「我が山の木實・土毛土産(くにつもの)等をもて齋祀らば、天皇が天の下を平けく守り奉らむ

若し荒振る梟者(ものども)あらば、に血・ぬらずして挙足(けころし)てむ。」と宣り賜ふ。

大八嶋國の天の下に日神を出し奉るは船木の遠祖(とほつみおや)大田田神なり。遠祖は天手力男命とされる
この神の造作(つく)れる竺船二艘(
一艘は木作り。一艘は石作り。)

を以て、後代の驗の為に、膽駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝(さきくさの)墓に木船を納め置く。

唐國に大神の通ひ渡り賜ふ時、乎理波足尼(をりはのすくね)命この山の坂木を以て迹驚岡(とどろきのをか)の神福岡市博多区の住吉神社を岡に降ろし坐(まさ)して齋祀る。
時に恩智(おむちの)神
大阪府八尾市恩智神社地遅、参り坐(ましま)す。
仍(かれ)毎年の春秋に墨江(すみのゑ)に通ひ参ります。
これに因り、猿の往來絶えざるは、此れ其の驗なり。
母木里と高安國との堺に諍石(いさめいし)在置り。大神、此の山に久く誓ひ賜ひて、「草焼く火あり、木は朽ちるとも、石は久遠(とは)に期(ちぎ)らむ。」とのたまひき。

長柄(ながらの)船瀬(ふなせ)の本記

四至 

東を限る、高瀬河内国茨田郡・大庭河内国茨田郡

南を限る、大江上町台地北側

西を限る、鞆渕(ともがふち)摂津国東生郡友淵。 

北を限る、川摂津国西生郡長柄川

右の船瀬泊は、遣唐貢調使の調物(みつぎ)を積む船舫(ふね)の泊を造らむ欲(もの)と、天皇の念行(おもほ)へる時に、大神の訓(をし)へ賜はく、「我、長柄船瀬を造りて進(たてまつ)らむ。」

と造り■なり。

一。六月御解除\(みなつきのみはらへ)。
開口(あぐち)水門姫神社 (
和泉監にあり。

  四至 

東を限る、大路。
 南を限る神崎。
 西を限る、海棹_(うみさお)の乃(および)限り。
 北を限る、堺の大路。)

九月御解除(ながつきのみはらへ)。
田蓑嶋(たみのしま)姫神社  (
西成郡に在り。) 大阪市西淀川区 田蓑神社


豐嶋郡の城邊山(きのへやま)

 四至

 (東を限る能勢國(のせの)摂津国能勢郡公田。
  南を限る、我孫(あびこ)并びに公田。
 西を限る、為奈(いな)河
猪名川・公田。
  北を限る、河邉郡の公田。)

右の杣(そま)山河の元(はじめ)は、昔、橿日宮に御宇しし皇后神功皇后、供神料(みそなへのしろ)に寄さし奉りし所の杣山河なり。
元、偽賊土蛛(にしものつちぐも)、斯の山の上に城(き)と(ほり)を造作(つく)り居住(すまひ)して、人民’ひと)を略盗(とりこ)にす。
軍(いくさ)大神、悉く誅伏(つみな)はしめ、吾が杣地(そまtごころ)と領掌(しろしめ)賜ふ。
山の南に廣大なる野あり。
意保呂野(おぼろの)と号く。
山の北に別に長尾山あり。
池田市の北側
山の岑長く遠し。
長尾(ながお)と号す。
山中に澗水(からきみず)あり。
塩川
久安寺川と名づく。
河中に塩泉涌出る。
箕面温泉
豊嶋郡と能勢國との中間にこの山あり。
 (
城邉(きのへ)山と号く由は、土蜘蛛の城(とりで)の界に在るに因りてなり。) 

山中に直道(ひたみち)あり、天皇、丹波國に行幸(みゆき)して還り上(たま)へる道なり。
頗(ひろ)き郊原(はら)あり。
百姓開耕(たにひら)き、田田邑と号く。
河辺郡多田村

一。河邊郡の爲奈(いな)山 (別名(またのな)は坂根山)

 四至 

東を限る、爲奈川并に公田。
 南を限る、公田。
 西を限る、御子代(みこしろ)國の堺の山。
 北を限る、公田并びに羽束(はつかし)の國の堺。)
摂津国有馬郡

右の杣山河を領掌(しし)由は、上の解(げ)に同じ。
但し、河邊・豊嶋兩郡の内の山を惣(すべ)為奈山と号く。
 
別号(またのな)は坂根山。) 

昔、大神、土蛛を誅(う)ちて、坂の上に宿寝(みね)ませり。
仍りて坂寝山と号く。
川西市
山の内に宇禰野(うねの)あり。
天皇、采女(うねめ)を遣して柏の葉を採らしむ。
因(かれ)采女山と号く。(
今、宇禰野(うねの)と謂ふは訛(よこなま)れるなり。) 

御子代の國。(今、武庫の國と謂ふ。訛れるなり。)

一。爲奈(いな)河・木津(きづ)河

右の河等を領掌(しろしめ)しし縁(ことのもと)は、上の解(げ)に同じ。
但し、源流(みなもと)は有馬郡・能勢國の北方深山の中より出で、東西の兩河なり。
東の川は久佐佐(くささ)川
能勢川と名づけ、山中を多く抜けて流れ通ふ。
西の河は美度奴(みとぬ)川と名け、美奴売(みぬめ)の山中
能勢郡を流れ通ふ。
両河ともに南に流れ、宇禰野(うねの)に逮(およ)び、西南に同じく流れて合ひ。
名(なづ)けて為奈河と号(とな)ふ。
西の邊に小さき野あり。
城邊山の西方に当る。
名づけて軍野(いくの)と曰ふ。
昔、大神、軍衆(いくさびと)を率いて土蛛を撃たむが為に御坐(ましま)しし地なり。
因(かれ)伊久佐野(いくさの)と号く。
河の邊に昔、山直阿我奈賀(やまのあたひあがなが)居りき。
因(かれ)、阿我奈賀(あがなが)川と号く。
今、爲奈川と謂ふのは訛れるなり。
大神、靈男神人(くすしきえをとこ)に現れ賜ひ、宮城(おほみや)造作(つく)るべき料(しろ)の材木を流し運ばんと爲行事(おこな)はしめ賜ふ。
時、斯の川に居る女神、妻に成らむと欲し(ねが)ふ。
亦、西方近くにある武庫川に居る女神も、亦、同じ思を欲(いだ)き、兩女神、寵愛之情(かなしみのかぎり)をなす。
而して爲奈川の女神、嫡妻(むかひめ)の心を懐きて嫉妬(うはなりねたみ)を発し、大石を取りて武庫川の妾神(をむなめのかみ)に擲打(なげう)ち、并にその川の芹(せり)草を引取る。
故、爲奈川に大石なくして、芹草生え、武庫川には大石あり芹草なし。
兩河一つに流れ合ひて海に注ぐ。
神威によりて爲奈川に不浄物(きたなきもの)を入れず、木津川等を領掌(しろしめ)す
のは此の縁なり。

一。荷前(のさき)二処。幣吊濱(みではま)等本縁

 一処。料戸嶋山上(はじめ)となし、それより錦刀嶋の南に至るを堺となす。

 一処。宇治川をなし針間(はりま)の宇刀(うと)川にるを堺となす。

 一処。三國川尻より吾君(あぎ)川長柄河の尻に至る難破浦。

右の荷前并幣帛濱等は昔氣長帶姫皇后の寄さし奉るところなり。
爰に三韓の國の調貢は此の川より運び進(たてまつ)る。
而るに此の川に漂没(おぼ)れ、仍りて制あり。
運漕(こぎはこ)ばず。
吾君川より運漕ぶ。
茲に因りて幣帛濱となす。
姫神の坐す縁は是なり。
社一前。
四至

東を限る、頭无江。
南を限る、海。
西を限る、郡の堺。
北を限る、公田。

一。神前(かむさき)審神濱(さにはのはま) (今、鯖濱(さばのはま)と云ふは訛れるなり。

  四至 

東を限る、東江尻。
南を限る、川  

西をる、爲奈河。
北を限る、北公田。

右は昔、氣「息」[長]帶「長」姫皇后の御宇しし世(みよ)、角鹿より発ちて穴門を征ち熊襲二國を討伏(ことむ)けたまはむ時、諸神に祈り賜ふに、集ひ遅し。
茲に因りて諸神の集はむことを祈る。
故、神前審神濱に寄さし奉るなり。

一。木小(きのこ)嶋・辛嶋・粟嶋・錦刀嶋を御厨(みくりや)に寄さし奉る本縁起

右は昔、氣長帶姫皇后の御宇しし世、大神の御願(こひ)に依り、朝食夕食(あしたゆうべのみけ)御所御厨(たてまつるところのみくりや)に寄さし奉るところなり。

周芳(すはう)の沙麼(さば)の魚鹽地(なしほのところ)を領(しろしめ)す本縁


右の地、大神に寄さし奉られし本紀は、氣「帶」長足姫皇后の寄さし奉るところなり。
昔、日本武尊年五十二年に崩(かみさ)ります。
秋九月壬辰朔酉、倭國の狭城盾列陵(さきたたなみのみささぎ)に葬(かく)しまつる。
元年壬申春正月庚寅朔庚子、皇太子、天皇位
仲哀天皇を即(しろしめ)す。
秋九月丙戌朔、母の皇后
両道入姫命を尊びて、皇太后(おおきさきのみや)と曰す。
冬十一月乙酉朔、群臣に詔して曰はく、「朕、未だ弱冠(かかふり)に逮(いた)らずして父王
日本武尊既に崩りたまふ。
乃ち神靈(みたま)白鳥に化(な)りて天に上りたまふ。
仰望(しの)びます情(こころ)、一日も息(や)むことなし。
是を以て冀はくは白鳥を獲て陵の域(めぐり)の池に養はむ。
因りて以てその〔鳥〕覩て、顧(しの)びまつる情を慰めむと欲ほ。」 

爰に越國(こしのくに)白鳥四隻(よつ)を貢(おく)る。
使人(つかひ)道(うぢ)河の邊(ほとり)に宿る。
時に蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)、その〔白〕鳥を視て、事の由を問ひ、奪ひて曰はく、「白鳥と雖も焼けば則ち黒鳥になりなむ。」 奪ひて去る。
先王(さきのきみ)に礼無し。
乃ち兵卒を遣して誅(ころ)さしめたまふ。
蒲見別[王]は則ち天皇の異母弟なり。
二月癸未朔戊子、角鹿に幸(いでま)す。
即ち行宮(かりみや)を興(た)てゝ居(ましま)す。
是を笥飯宮(けひのみや)と謂ふ。
気比神宮
即月(そのつき)に淡路屯倉を定む。
三月、天皇、南國を巡狩(めぐりみそな)はす。
是は皇后及び百寮を留めたまひて、駕(みとも)に従へる二三の卿大夫(まへつきみたち)〔及び官人敷百ありて〕軽行(とくいで)ます。
紀伊國に至りて、徳勒津(ところつの)宮に居す。
和歌山市新在家
是の時、熊襲叛きて朝(みつぎ)貢’たてま)つらず。
天皇、是に於いて将(まさ)に熊襲國を討たむとす。
則ち徳勒津より發ちたまひて、浮海(みふねより)して穴門に幸す。
 (
即日(そのひ)、角鹿(つぬが)に遣ひて皇后に勅して曰はく、「便(すなは)ち其の津より発ちて穴門に逢ひたまへ。」  夏六月辛巳朔庚寅の日に、天皇、豊浦津に泊ります。

且、皇后鹿より發ちて行_(いで)まして、渟田(ぬた)の門(と)に到り、〔船〕の上に食(みを)す。
時に海魚(たひ)多く船の傍に聚(あつま)る。
皇后、酒(おほきみ)を以て[海]魚(たひ)に灑(そそ)ぎたまふ。
[海〕魚、酒を喰(くら)ひ、即ち酔(ゑ)ひて悉(ふつ)に浮きぬ。
時に海人(あま)多く其の魚を獲り歓びて曰はく、「聖王(ひじりのきみ)の賞ふ魚」と。
故、其の處の魚、六月(みなつき)に至る毎に常に傾(あぎと)浮ふこと、酔へるが如し。
是(これ)其の縁なり。
也。
秋七月辛亥朔乙卯、皇后、豊浦津に泊ります。
〔是日、皇后〕如意の珠を海中に得たまふ。
九月、宮室(おほみや)を穴門に興て居す。
是を穴門の豊浦(とよら)の宮と云ふ。
八年春正月已卯朔壬午、築紫に幸す。
時に崗縣主(をかのあがたぬし)が祖熊鰐(くまわに)、天皇の車駕(みゆき)すると聞(うけたまは)りて、豫(かね)て五百枝(いほえ)の賢木を抜取(こじと)り、以て、九尋(ここのひろの)船の舳(へ)に立てゝ、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、中枝には十握釼を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼之浦に参迎(まゐむか)へて、魚鹽地(なしほのところ)を献る。
因りて以て奏して言(まを)さく、「穴門より向津(むかつ)野の大濟(おほわたり)に至るを東の門(みと)となし、名籠屋(なごや)
北九州市若松と戸畑の間の大濟(おほわたり)を以て西門となし、没利(もとり)嶋六連島・阿閇(あべ)嶋を限りて御筥(みはこ)となし、柴嶋を割(さ)きて御(みなへ)となし、逆見(さかみの)海を以て魚塩地(なしほのところ)となさむ。」 

既にして海路を導きまつりて山鹿岬(やまかのさき)筑前国遠賀郡山鹿郷より廻りて二崗浦(をかのうら)に入ります。
水門
遠賀川に到りて御船進(ゆ)くことを得ず。
則ち熊鰐に問ひて曰はく、「朕)あれ)聞く、汝熊鰐は明き心ありて〔以て〕参來(まひ)けり。
何ぞ船の進かざる。」 

熊鰐奏して曰はく、「御船進くことを得ざるは所以は、臣が罪にあらず。
是の浦の口
(ほとり)に、男女二神あり。
男神をば大倉主と曰ひ、女神を夫羅媛(つぶたひめ)と曰ふ。
必(ふつ)に是の神の心か。」とまをす。
天皇則ち祈祷(の)みたまひしかば、[船]進くことを得賜へり。
新羅國より還り賜へる時、吾物(みてつもの)の魚塩地并びに御櫛笥(みくしげ)物等を寄さし奉る。
奉寄(よさし)賜ふ物色目(ものしな)は上の注(しる)し已了(をへ)ぬ。
茲に因りて、毎年彼の海に入鹿(いるか)参(まゐ)來て游(およ)ぎ游び奉るは是の縁なり。

 


一。播磨國の賀茂郡、椅鹿(はしか)山の領地田畠

 合す。
    

 四至 (東を限る、阿知萬(あちま)西岑・心坂・油位(あぶらひ)・

              比介(ひげ)坂・阿井(おゐ)大路・布久呂布山。

       南を限る、奈波・加佐・小童寺・

              五山大道。布久呂布山登跡。

       西を限る、猪子坂。牛屋坂・辛國太乎利:

             須須保利道播磨国加茂郡酒見郷・多可・木庭姫路市大場・乎布埼。

       北を限る、阿知萬西岑・堀越・栗造・

             瀧河篠山川・粟作・子奈位播磨国多可郡。)

右の杣山地等は、元船木連宇麻〔呂〕(うまろ)・鼠緒(ねずを)・弓手等の遠祖、大田田命の兒、神田田命等が所領九萬八干餘町なり。
而して氣「息帶」長足姫皇后御宇しし世、大明神(おほあきつのかみ)に寄さし所奉(まつ)り已了(をは)りぬ。
自爾以降(それよりこのかた)、大神社の造宮料(みやつくりのしろ)を領掌(つかさど)ること年尚(ひさ)し。
爰に宇麻〔呂〕等、皇后に船を造りて貢献(たてまつ)る。
新羅國を征(ことむ)けたまふ時、好く船を造れるに依りて、船木・鳥取(ととり)の二姓を定めひて已了りぬ。
即ち乙丑年十二月五日、宰頭(みこともち)伎田臣麻(くれたのおもあさ)・助道守臣(すけちもりのおみ)壹夫・御目代(さくわんだい)大件の田連(そそぎたのむらじ)麻呂等を率いて大神の御跡を尋ね、寄さし定め奉る。
是に於て、船木宇麻〔呂〕・同鼠緒・同弓手等、御神の山を斎護る。
時に闌(みだ)れ入れる公民(たみくさ)等神山の木を切り取り、山地を歩み穢す。
時に大神、「穢らはし。」

と宣り賜ひて、神火を放ちて杣山を焼き亡ばし賜ふ。
三箇年の内に木と土と共に焼燃(やけ)て火滅(き)えず。
燃へる時に騰(た)ち登る烟・炎・灰・塵、國家に満ちて、炎姻炭甚盛(もえさか)り闇塞(くらくふさが)り、人民侘(わびくるし)み、公家(みかど)を驚かし賜ふ。
天皇、卜占(うらな)はしめ賜ふに、「大神の御崇(たたり)なり。」と占(うら)へ申す。
之に因りて、「公家人民)おほみたから)等、自爾(これより)以後、大神の杣山地等を歩み穢(けが)し切り犯す可からず。」

と宣詔し賜ひ、重ねて大神の旧跡の如く、大神の道歩(みちふみ)を尋ね、四至の堺を定めて寄さし奉るなり。

船木等本記

右は昔、日神を出し奉る宇麻〔呂〕・鼠緒・弓手等が遠祖大田田命の兒、神田田命が日神を出し奉りて、即ち此の杣山を領(しろ)すところなり。
而して氣「息帶」長足姫皇后の時、熊襲二國并びに新羅國を誅伏(つみな)へ征ちたまふ。
時に大田田命・神田田命、己が領す所の山の岑の樹を伐り取りて、船三艘を造る。
本にて造れる船は皇后并びに大神臣八腹を乗せ、次の中腹には赤にて造れる船は日の御子等を乗せ、次の末にて造れる船は御子等并びに大田田命・神田田命を共に乗せて渡り征(ゆ)きます。
即ち大幸(いでまさむ)と有(す)るときに天神地祇に祈祷(こひまつ)りて驗あり。
大幸(みゆき)還り上り賜ひて、其の御船を武内宿禰をして奉齋祀(いつきまつ)らしめたまふ。
志麻社・静火社・伊達社と此の三前(みまへの)神なり。
即と〔大〕田田命の子、神田田命の子、神背都比古命(かみせつひこのみこと)。
此の神、天賣移(あめのみや)乃命の兒冨止比女乃(ほとひめの)命を娶(め)して生める兒、先なるは伊瀬川比古乃(いせつひこの)命、この神、此神者。
伊瀬玉移比古女乃(いせたまやいこひめの)命を娶し坐して此の伊西(いせの)國の舩木
『古事記』祖は神八井耳命に在す。
又次の子に坐すは木西川比古(きせつひこの)命、此の神、葛城の阿佐川麻(あさつま)
御所市朝妻の伊刀比女乃(いとひめの)命を娶り坐して生める兒、田田根足尼(たたねすくねの)命、此の神、古斯國(こしのくに)の君に坐す兒の止移奈比女乃(とやなひめの)命を娶し坐して生める兒、乎川女乃(をつめの)命、又次に馬手乃(うまての)命、又次に口以乃(くちもちの)命、此三柱は古斯乃國君等に在せり。
牟賀足尼(むがのすくねの)命、此の神、嶋東乃片加加奈比女(しまひがしのかたかかなひめの)を娶し坐して、生める兒、先の兒は女郎女(をみなのいらつめ)、次に田乃古乃連(たのこのむらじ)、次に野乃古連(ののこのむらじ)、次に尾乃連(をのむらじ)、次に草古乃連(くさこのむらじ)なり。
兄在(いろねな)る兒の女郎女(をみなのいらつめ)、神直(みわのあたへの)腹に娶入(みあひ)せり。
次の田乃古連、和加倭根子意保比比乃(わかやまとねこおほひひの)命
開化天皇の王子(みこ)彦太忍信(ひこふとおしまことの)命の兒、葛木の志志見の興利木田(よりきた)の忍海部の刀自を娶し坐して生める兒、古利比女(こりひめ)、次に久比古(くひこ)、次に野乃古連、此の者、高乃小道奈比女(たかのをじなひめ)を娶りき。
更(また)、田田根足尼乃命の時に大波冨不利相久波利(おほはふふりあひくばり)
大祝相配き。
息長帶比女の御時に大八嶋國を事定了る。
彼の時、大禰宜と奉齋(つかへまつ)るは、。
麻比止内足尼(うまひとうちのすくねの)命、又津守の遠祖折羽足尼(をりはのすくね)の子手瑳足尼命、又船木遠祖田田〔根]足尼命、此三柱相交(あひまじ)はる。
巻向の玉木の宮に大八嶋知食(しろしめ)しし御世
垂仁天皇より、巻向の日代の宮に大八嶋食知景行天皇氣「帶」長足姫比古の御世に至るまでの二世は、意彌那宜多(おみながたの)命の兒、意富彌多足尼(おほみたのすくね)仕へ奉る。
 (
津守宿禰の遠祖なり。) 是に於いて舩司(ふねのつかさ)・津司(つのつかさ)に任(ま)け賜ひ、又、處處の船木連を被(かがふ)らせ賜ふ。
 (
但波國・粟國・伊勢國・針間國・周芳國 ) 右の五箇國、。
爾時より、船津の官(つかさ)の名を負ひて仕へ奉る。
穴戸の豊浦宮に大八嶋國所知食(しろしめ)しし氣長帶比古皇后
仲哀天皇のことかの御世、熊襲二國を平(ことむ)け賜ひき。
斯の時に、。
筑紫の國の橿日宮に天皇と坐(いま)して水彼方國(うみのかなたのくに)を平げ賜ふは、氣「帶」長足比女乃命なり。
此の二所の天皇の御世に、折羽足尼の兒、多毛彌足尼仕へ奉りき。
是を於いて住吉に坐す大御神の前(みまへ)を任(ま)けて祭治(いはひまつ)り來在(きた)りき。
其の時より、大神の前を、神の御願(こはし)の随(まにま)に忌(いは)はしむ。
一(大?)帶須比女の命、住吉大神を船邊に坐奉(ましまし)て辛國に渡り坐して、方定進退(くさぐさにたまかり)鎭め給ひて、辛嶋(からしまの)恵我(えがの)須須己里(すすこり)を召して、即、還行幸(みゆきかへ)りて坐す。
筑紫より難波の長柄に依り坐して、大神、御言を以て宣たまはく、「吾は玉野國なる大垂海(おおたるみ)・小垂海(等(こたるみたち)に祀所拝(いつきまつ)られむ。」

と宣りたまひて、膽駒の嶺に結行(いでま)しき。
即、是の人等(たち)を奉仕(つかへまつ)らしめ給ひて、大御社に奉れるなり。
此の者、彌麻帰入〔日〕子之(みまきいりひこの)命
崇神天皇とは、大日日(おほひひの)命開化天皇の御子なり。
志貴御豆垣(しきみつかきの)宮に御宇しし天皇なり。
 (
六十八年、戊寅年を以て崩(かむさ)ります。山邊上陵(やまべのかみつみささぎ)に葬(かく)しまつる。) 

此の御時、天都社(あまつやしろ)・國都社(くにつやしろ)を定め始め賜ひ、山の石門開香東は日縦(ひのたたし)以東西、南は日横(ひのよこし)以南北とし、男の[弓弭(ゆはずの)〕御調(みつぎ)・女の手末(たたすゑの)御調を定め賜ひて、初國所知食(はつくにしろしめ)しし天皇なり。
活目入彦命は彌麻帰天皇の子、巻向の玉木の宮に大八嶋國御宇しし五十三年辛未崩ります。
菅原伏美野中の陵に[葬]しまつる。
天社とは伊勢大神・住吉大神をいふ。

一。明石郡魚吹濱(なすきのはま)一處

四至 

東を限る、大久保明石市尻の限(かぎり)。
南を限る、海棹(うみさを)の乃ぶ際(きは)。
西を限る、歌見江尻
明石市二見の限。
北を限る、大路。)
 

右、巻向の玉木の宮に大八嶋國所知食(しろしめ)しし活目天皇より橿日宮の氣「帶」長足姫皇后の御世、此の二御世(ふたはしらのみよ)、熊襲并びに新羅國を平伏(ことむ)け訖(を)へ賜ひ、還り上り賜ひて、大神を木國の藤代嶺和歌山市伊都郡富貴村に鎮め奉る。
時に荒振神を誅服(つみな)はしめ賜ひ、宍背の鳴矢を射立てて堺となす。
「我が居住はむと欲(ほ)りする処は大屋に向ふが如(ごと)、針間國に渡り住はむ。」と。
即ち大藤を切りて海に浮かべ、盟(うけひ)して宣り賜はく、「斯(こ)の藤の流れ着かむ処に、將に我を鎮祀れ。」と宣りたまふ時に、此の濱浦に流れ着けり。
故、藤江
播磨国明石郡葛江郷と号く。
明石川内の上神手(かみかみで)山・下神手山
神戸市西区神出町より、大見(おふみの)小岸播磨国明石郡邑美郷に至るまで、悉く神地となして寄さし定め奉る。
其の時、意彌那宜多(おみながたの)命の兒、大御田足尼(おほみたのすくね) 『津守宿禰の遠祖、』仕へ奉り、是の時に船司(ふねのつかさ)・津司を初めて任け賜ひき。
又、処処の船木の姓を賜ふき。

一。賀胡(かこ)郡阿閇津(あべのつの)濱一處

 四至 (東を限る、餘郷(あまりべのさと)賀古郡余戸郷  南を限る、海樟の及ぶ際 西を限る、大湖尻。北を限る、大路。)

右、同じ皇后の御世、大神、熊襲二國を平伏(ことむけ)、新羅國より還り上り賜ふ時、鹿兒(かこ)に似たるもの海上(うみ)に満ちて浮び漕來(きた)れり。
見る人皆奇異(あやし)み、「彼れ何物ぞ。」と云ひて鹿兒に似たる物を問ふ。

近くに寄りて筑志(つくし)の埼に來り着きて見れば、藪十餘人(あまたのひと)たち、角ある鹿の皮を着て衣袴(いころも)と着(な)す梶取(かじとり)・水手(かこ)人の大神の舟を漕ぎ持ちて來るなり。
故、其の地を鹿兒(かこの)濱と号く。
皇后、大神に饗を奉らむと、酒塩を以て魚に入(そ)へて奉り賜ふ。
號に阿閇濱(あへのはま)と号けて寄さし定め奉り賜ひき。
其の時同じく津守宿禰の遠祖を奉仕(つかへまつ)らしめ賜ひき。
皇后、合掌(みてをあは)せて誓(うけ)ひ宣(のたま)はく、「寄さし奉る吾が山河海の種種(くさぐさ)の物等を、若し妨げ誤る人あらば、天地の(わざはひ)を蒙り痛患(くるしみ)に遭ひ、子孫(うみのこ)絶滅(た)へて天下凶亂(あめのしたみだ)れむ。」と。

一。八神男(やをとこ)。
八神女(やをとめ)供(つか)へ奉(まつ)る本記

右、巻向の玉木宮に御宇しし天皇の御世、筑紫後國(つくしのみちのしりのくに)に僵(たふ)れたる樹あり、長さ九百七十丈。
此の木を踏むて往來(かよ)ふ。
時の人歌ひて曰はく、「安佐志毛乃(あさしもの)、彌乃佐遠麼志(みけのさをはし)、魔幣木彌(まへつきみ)、。
伊和多良秀暮(いわたらすも)、彌開能佐遠麼志(みけのさをはし)、云々。」 

仍、天皇、木の名を問ひ賜ふに、「歴木(くぬぎ)と申す。
昔立てる時、朝日の暉(ひかり)には杵嶋(きしまの)山を隠し、。
夕〔日〕の暉には阿蘇山を覆(かく)しき。」と奏す。
時に天皇宣(の)たまはく、「神(あやしき)木なり。
しく御木國(みけのくに)
筑後国三毛郡と号(なづ)くべし。」と。
八女縣(やめのあがた)の藤山に水沼縣主猿大海(みぬまあがたぬしさるおほあま)あり、奏(まを)して言(まを)さく、「女神あり、名を八神女津媛(やをとめつひめ)と曰ふ。
常に山中に居り、大神に奉齋(つかへまつ)る。
此に由りて、皇后、八大夫(やをとこ)・八美女(やをとめ)を以て奉齋(つかへまつ)り、自ら神主となりき。
仍りて相傳ふるなり。
又、膳夫(かしはで)等盞(うき)を遺(わす)る。
其の盞を忘れし処を浮羽と曰ふ。
今、的(いくは)と謂ふは訛なり。
筑後国生葉郡
筑紫の俗(ひと)、盞を浮羽と曰ふなり。
仍、手搓宿禰の子孫、八神男・八神女と供(つか)へ奉(まつ)る。

一。天平瓮(あめのふらか)を奉る本記

右、大神、昔皇后に誨へ奉りて詔(の)り賜はく、「我をば、天香个山(あめのかごやま)の社の中の埴土(はに)を取り、天平瓮八十瓮(あめのひらかやそき)を造作りて奉齋祀(いはひまつ)れ。
又、覬覦みかどかたぶく)謀あらむ時にも、此(かく)の如く齋祀らば、必ず服(まつろ)へむ。」と詔り賜ふ。
古海人の老父(おきな)に田の蓑・笠・簸(み)を着せ、醜き者として遣して土を取り、斯を以て大神を奉齋祀(いはひまつ)る。
此れ即ち爲賀悉利(いがしりの)
座摩神社祝(はふり)、古海人等なり。
斯に天平瓮を造る。

幣(みてぐら)奉る時の御歌の本記

坂木葉仁(さかきばに)、余布止里志弖弖(よふとりしてて)、多賀余仁賀(たがよにか)、賀彌乃美賀保遠(かみのみかほを)、伊波比曾〔米〕藝牟(いはひそめけむ)。

右の御歌は太幣(ふとみてぐら)を奉る軽皇子(かるのみこ)孝徳天皇の賜ひし御歌なり。
時に東の一の大殿より扉(みと)を押開ひて、大神、美麗貌人(うるはしきひと)に表(あら)はれたまひ、白き笏を取り、閾(しきみ)を叩き和へませる歌、

倍麼佐仁(うべまさに)、岐美波志良末世(きみはしらませ)、賀美呂岐乃(かみろぎの)、比佐志岐余余里(ひさしきよより)、伊波比曾女弖岐(いはひそめてき)。

縦容(みこころのまま)に交親(むつみ)して具に在(ま)しましき。
「吾が和魂
常に皇身(おほみみ)に(つ)き、常磐に堅磐(かきは)に守り奉り。
一切衆望(おほみたから)の望願(のぞみ)を成就圓満(なしとげ)てむ。
故、吾、万世(ながく)この地に住まむ。」と{のりたまふ。

  長門國豐浦郡 齋宮(いむみや)

右の社、氣「帶」長足[姫]皇后祈りたまひし宮なり。

 筑前國那珂郡往吉荒魂社 (三前)  福岡市博多区 住吉神社

右の社は、熊襲二國と新羅國を撃ちたまひし時、[齋祀(いつきまつ)れる社なり] 唐に使を遣さむとすること、御社にて祭(かみまつり)し、大宰府、供(そなへものす)るを例とするなり。
并(また)、能護嶋(のこのしま)
博多湾の残島と御厨所領(みくりやのところ)とし、長門國より西方九國の内の別小嶋(わかれこじま)を皆(ことごと)に御厨と所領(しろしめ)し已了(をは)りぬ。

志賀社。 福岡市東区 志賀海神社

新羅〔を撃ちたまふ〕時、御船の挾抄(かぢとり)なり。

大唐御社 新羅社

鎭服(ことむけ)たまへる社なり。

紀伊國伊都郡 丹生川上社 (天手力男意氣續流(あめのたちからをおけつづくる)住吉大神)

右は毒(あしもの)、九の國領(くにぐに)に満ち、貢調(みつぎたてまつ)らしめざる時、文忌寸(ふみのいみき)材満、調伏(しずま)らむことを祈請(こひの)みて御神社を祭り、子孫(うみのこ)へて傳へて氏神となす。

一。猪加志利乃神ゐかしりの)神。二前。一名婆天利(ゐばてりの)神、(元、大神居坐(ましまし)て。唐飯所聞食(からいひきこしめ)しける地(ところ)なり

右大神は、難波の高津の宮に御宇天皇之の御世、天皇の子波多若郎女(はたびのわかいらつめ)の御夢に喩覺(さと)し奉らく、「吾は住吉大神の御魂ぞ。」と爲婆天利神または猪加志利之神と号(まお)す。
」託り給ひき。
仍(かれ)、神主に津守宿禰を齋祀いつきまつ)らしめ、祝’はふり)に爲加志利の津守連等を奉仕(つかへまつ)らしむ。
充(あ)て奉る神戸二烟。
神田七段百四十四歩。
即ち西成郡に在り。

以前、大神、所顕坐(あれまし)処、并(なら)びに御名を注顕(しる)すこと右の如し。

右、大神、飛鳥の板盖(いたぶきの)宮に御宇(あめのしたしろしめ)しし天皇の御世の始に夏五月庚午、宣り賜はく。
「吾が山を巡検(めぐりみ)賜む。」と宣り賜ひて、即ち御馬に乗り賜ひ、油笠を着賜ひて、兄乃山より葛城嶺・膽駒山に馳せ到り賜ひて、午時を以て住吉に馳せ還り御坐(いま)して、御飯酒を聞食(きこしめ)す。
即(かれ)、阿閇(あべ)・魚次(なすき)・椅鹿(はしかの)山を御覧(み)たまひて還り御座(ましま)しき。
仍りて件(か)の山に神の道あるなり。

『以前、神代記、己未年秋七月朔丙子注進、大山下右大辨津守連吉祥、大宝二年壬寅八月廿七日壬戌を以て定め給ふを引勘(ひきかむが)むふ。』

充て奉る御田、三町四段百四十歩。

凡田二町。
忍海二百十歩。

原郡、一町三段二百九十歩。
元の名、雄伴(をもとの)國)

御封寄させらること、三百四十四戸。
 (
但し、一百戸と田一百五十町は筑前國にあり。)
右御封は穴戸の豊浦の宮に御宇しし天皇
仲哀天皇、并に石寸(いはれ)の栗(みかくり)の富清寧天皇・池辺の並槻(なみつき)の宮用明天皇・奈良の宮元明天皇等に御宇しし天皇の御世、寄さし奉られしところなり。
以前、御大神願坐(あれます)神代記なり。
引己未年七月朔丙子、大山下右大辨津守連吉祥(きちざう)の注進するところ、去る大宝二年壬寅八月廿七日壬戌を以て定め給ふ本縁起等を引勘(ひきかむが)へ、宣旨によりて具(つぶさ)に勘注し、言上する所件の如し。
謹みて以て解(げ)す。



    天平三年七月五日  神主從八位下津守宿禰「嶋麻呂」

               遣唐使神主正六位上津守宿禰「客人」

件の神代記、肆(し)通の中、官に進むる一通、社に納むる一通、氏に納むる一門一通、二門一通。
後胤(うみのこ)各々秘藏して妄りに伝へ見る可からず。
努力(ゆめなおかしそ)。
前の如く、起請す。

        但し客人の家料なり。
                    「嶋麻呂」

                                           「客人」

                   

   後代の驗の為に判を請ふ。
                 津守宿禰「屋主」

郡判、請(こひ)に依る。

擬大領外正六位下勲十一等津守宿禰「和麿」        擬主帳土師「豐継」

少領外従八位上津守宿禰「浄山」

職判、郡判に依る。

                           從五位下行大進小野朝臣「澤守」

                           正六位上行少進 葛木 「氷魚麿」

                           正六位下行少屬勲十一等物部首

                           従七位上行少屬  堅部使主

                        廷暦八年八月廿七日

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system