英彦山神宮(ひこさん)
豊前 田川 福岡県田川郡添田町大字英彦山1 its-mo


銅の鳥居(かねのとりい) 高さ7m、柱の周囲3m。



交通
JR添田駅または英彦山駅から町営バスで銅の鳥居(500m)神宮下(650m)から登山


祭神
天忍穗耳命 配祀 伊弉諾尊、伊弉冉尊


由緒
 英彦山は頂上が三峰に別れ、中央の中岳が神宮の上宮の鎮座する主峰である。
 明治初年の神仏分離まではは、神仏混淆宗教である修験道の崇拝対象として英彦山大権現を唱え、寺号を霊仙寺と称していた。出羽三山、熊野三山と並ぶ鎮西修験道の一大拠点として平安時代から「日子乃山」「彦山」として文献に登場している。

 英彦山の信仰の発現は原始山岳信仰であろう。当山から放射状に流れ出る河川は豊前、豊後、筑前三国の田畑を潤している。英彦山を仰ぎ見る民人にとっては神霊の籠もる山として水分神の信仰をえていた。奉幣殿のある下宮の広場の上段に清水が流れており、水分神社が祀られている。


中岳頂上の上宮遠景

 英彦山の開山伝説は渡来人がからんでいる。
 継体天皇二十五年(531)、魏の国の僧善正が来日して彦山に入り、岩窟に籠もって修行中に、たまたま山中で猟をしていた豊後国日田郡藤山村の猟師藤原恒雄と遭い、殺生の罪を説き聞かせた。恒雄は善正の戒めも聞かずに猟を続けるうち、一頭の白鹿を射た。そのとき、空中より三羽の鷹が現れ、傷のついた鹿に檜の葉にひたした水をふくませると、鹿は蘇生して逃げ去った。恒雄はそれを見て鷹が神の化身であることを悟り、自らの殺生を恥じて弓矢を捨て、家財をなげうって岩窟の傍らに祠をたて、善正の持ち来った異国の神像を祀って霊山と名づけた。そして自らも善正の弟子となり忍辱(にんにく)と名乗って練行をかさねるうち、山頂の三岳に阿弥陀、釈迦、観音の垂迹をみて上宮三社を建立した。

 この伝承は、@仏教の北部九州への個人的な伝来、A魏の国の僧としているのは道教的な色彩を帯びたものではなかったか、B」恒雄とは朝鮮の檀君神話の恒雄(かんゆう)にその名を借りたのではないかとの見方がある。
 香春岳周辺の田川郡には多くの渡来人が住んでおり、英彦山開山神話に渡来人の伝承が混入したもの。


中宮遠景

 続いて中興伝説がある。この寺は善正・忍辱によって始められたが、継ぐ者がなく久しく荒廃していた。大宝(701〜4)の始めに役行者が歩をしるしたがこの寺を再興するに至らなかった。弘仁十年(819)、法蓮はすでに数百歳の齢を数えていたが、ある日、鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ。」と記してあったのを見て、瑞兆を感じたが、はたして嵯峨天皇より勅喚があり「法蓮は邦家の彦、李朝の仙である。日子を改めて彦とし、霊山を改め霊仙寺と名づけ、九州一円を檀家とし、四方七里を寺領にあて、比叡山に準じ三千の衆徒をおいて天台の学を学ばしめ、勅願寺とせよ。」との詔を賜った。

 また八幡神・香春神と彦山権現とのかかわりの物語も残っており、宇佐系・朝鮮系シャーマニズムの合体という形で徐々に進行していく様相にある。そこに天台が結びつき、天台系の彦山修験道が成立している。

 鎌倉時代に記された『彦山流記』によれば、「権現は天竺の摩訶提国(まがだ)から五剣を投じ、唐の天台山を経て日本に渡来、彦山の般若窟で第一の剣を発見し、そこに八角三尺六寸の水精石となって垂迹した。その後、次々と残りの四剣を求めて熊野に移り、のち再び彦山に戻った。」と、はっきり彦山・熊野同体をうたっている。内容は『熊野権現垂迹縁起』との一致している。しかも熊野と同じく三所権現を唱えて山頂の三岳をそれにあて、南俗躰岳を釈迦垂迹、北法躰岳を阿弥陀垂迹、中央女躰岳を千手(観音)垂迹としている。それぞれの山は東西南北の四至を定め、要所要所には鎮守神大行事社が点在している。現在での福岡県嘉穂郡・京都郡、大分県大野郡・日田市などに九社を数える。

 室町時代には彦山独自の修験を確立していったが、多数の衆徒をかかえることになり、天正九年(1581)の大友氏との争乱に全山が焦土となり果て、さらに豊臣秀吉によってその神領をすべて没収され、これで中世彦山は終焉した。江戸時代になり経済的基盤を回復し、豊前藩主細川忠興、肥前藩主鍋島氏の崇敬が篤く、戦禍に荒れた彦山の復興に務めた。 なかでも寛永十四年(1637)初代藩主鍋島勝茂んぉ奉納した銅華表は有名。


たたずまい
 前日まで雪がふっていたが、登拝した日は暖かい晴天の日であった。日本晴れと云う日。 シャクナゲ荘と云う温泉ホテル(冷泉を暖めている)から神宮下まで添田町営バスで行く。そこから西に歩いて登りが始まる。 大きい鳥居と石段が続く。


下宮へ登る

 奉幣殿のある庭に到着、ここに清水と水分社が鎮座。また下宮への鳥居がたっている。


奉幣殿

 鳥居をくぐり、しばらく行くと下宮の社殿が左側に現れる。


下宮
 

 ここからが長い登り道、雪ですべるし、水たまりは氷っている。アイゼンを着装して足下をかためて黙々と登る。1時間弱の急な登りを歩き、やっと中津宮へ到着、石の祠が並ぶ。宗像三女神を祀っている。


中津宮

 再びの登りだが、勾配は半分程度になったようだ。登りと少しの下りの道を二山ほど越えて最後の頂上の上宮に近づく。その前にむすび神社が鎮座、行者堂とも云うようだ。
 また神領没収後の経済のために関銭(入山料)をとった場所があった。


むすび神社と関所跡
 


 文武天皇の時代、往古高皇産霊尊鎮座の旧知であるという神話があり、聖武天皇の天平十二年勅願によって建立されたと伝えられています。石たたみは護摩壇の跡であり、古代は役行者の木像が安置されていた。

 頂上には上宮の社殿があるが、扉は完全にしまっていた。


上宮の社殿
 



お祭り

9月28日 例大祭並に講社大祭
 上宮 6月 第1日曜日 山開祭

 

平成祭礼データ 英彦山神宮略誌

 英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であるところから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。

 嵯峨天皇の弘仁十年(八一九)詔により「日子」の二字を「彦」に改められ、次で、霊元法皇、享保十四年(一七二九)には、院宣により「英」の一字を賜り「英彦山」と改称され現在に至っています。

 英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和五十年六月二十四日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。

 御神徳
 天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの産業の守護神として崇敬されています。
以上

 

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