京都の八坂神社は明治維新までは祇園感神院と称していました。寺院と神社の合わせたようなものでした。どのようなきっかけで牛頭天王が祀られるようになったのでしょうか。
八坂神社の宝殿の下に深い穴があいていたとのことです。
『釈日本紀』「祇園神殿下有通龍宮穴之由、古来申伝之。」とあります。
『続古事談』によりますと、祇園社は延久二年(1070)焼亡のとき、宝殿の下の龍穴の深さを計測しようとしたが、五十丈以上あってまだ底知れずだったと云う。
500尺、165m以上。現在も深い池があるとのことです。往古から、龍神・水神が祀られていたと思われます。御旅所に少将井、大政井があるのもむべなるかなです。
御所宗像神社の摂社 少将井神社
『新選姓氏録』山城諸蕃に、八坂造の名が見えます。「出自狛人之留川麻(るつま)乃意利佐(いりさ)也。」とあります。『日本書記』斉明天皇二年(656)高句麗の使伊利之(いりし)等が来朝(81人)とあるのに符合します。山城八坂郷に、彼らが住み着いて共に祭祀を行ったのでしょう。
韓国の江原道春川に牛頭山なる小山があり、この辺りに狛人が住んでおり、高句麗の南下に押し出されて日本にやってきたのが上記の『日本書記』の記事になっているとも見方があります。
また素戔嗚尊・五十猛尊が天降った場所を曽尸茂梨(ソシモリ)と云う『日本書紀』(神代紀)にあります。曽尸茂梨をこの牛頭山とする説があります。一方、ソシモリとは「高い柱の上」のことであって、法住寺に残っている幡竿のような場所との説があります。
春川の牛頭山の土墳
俗離山法住寺の柱
元の宮司の真弓常忠氏は、八坂神社が祭神をスサノヲ尊にしている根拠は、突き詰めれば、『備後国風土記』(逸文)によるものと語ってくれました。
内容をざっくりまとめますと。
昔、北海に住む武塔神が、南海の神の女を妻問うたが、途中日が暮れたので、蘇民将来と巨旦将来の兄弟の家に宿を乞うた。弟は富んでいたが宿をかさず、兄は貧しかったが、快く宿をかし、粟柄で座を設け。粟飯を供した。
数年の後、神は八柱の御子をつれて、再び来訪し、兄の蘇民の家人に茅輪を腰につけさせ、他を疫病でみなごろしにした。そこで、神は「われはハヤスサノヲノ神なり」と名のり、後世、疫病流行の時、「蘇民将来の子孫」といい、茅輪を腰につけるなら、難を免れるだろうと教えたという。
となります。武塔神=ハヤスサノヲノ神 ということです。
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