牛頭天王

[11205] 牛頭天王1  神奈備 2012/08/08(Wed) 11:33 [Reply]
明治元年三月二十八日 神仏分離の通達

一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号二相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細二書付、早々早可申出給候事、但勅祭之神社御翰等有之候向ハ、是又可伺出其上ニテ御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主支配頭等へ可申出候事
一、仏像ヲ以神体卜致候神社ハ、以来相改可申候事

附本地杯卜唱へ仏像ヲ社前二掛、或ハ、鰐口、梵鐘、仏具等置候分ハ、早々取除キ可申事
右之通被仰出候事

 分離令のターゲットは牛頭天王であったようです。この頃までは、「テンノウ」と聞けば、牛頭天王を指すものでした。天皇は禁裏様、内裏様と呼んでいたようです。これを天皇を中心とした新政府としては、テンノウは天皇であるべき、牛頭天王は消してしまえとなったのです。
 どう消すのか。
京都の祇園社は地名を取って八坂神社と改称しました。全国的にこれに倣えとなったようです。さらに、これに関して、「今般一新、皇礎弥以晶栄ヲ表シ、八坂弥坂之文字相用ヒ、以来者、弥栄神社と被称度事」とご親切な提案がありました。

神社本庁所属(平七年)の神社名(本社摂社)
八坂 2636  八阪も含む。
弥栄   34
祇園  191
須賀  510
八雲  411
素盞烏 212
須佐之男 84
となっています。全てが牛頭天王社からの改名とは限りません。

大阪市生野区桃谷に彌栄神社が鎮座、ここは出雲の熊野大社からの勧請社で、京都祇園系ではなかったのでしょう、彌栄神社としています。他地域の神社にもそれぞれ由緒事情がいろいろあるのでしょう。

[11206] 牛頭天王2  神奈備 2012/08/10(Fri) 11:37 [Reply]

 京都の八坂神社は明治維新までは祇園感神院と称していました。寺院と神社の合わせたようなものでした。どのようなきっかけで牛頭天王が祀られるようになったのでしょうか。

 八坂神社の宝殿の下に深い穴があいていたとのことです。
『釈日本紀』「祇園神殿下有通龍宮穴之由、古来申伝之。」とあります。
『続古事談』によりますと、祇園社は延久二年(1070)焼亡のとき、宝殿の下の龍穴の深さを計測しようとしたが、五十丈以上あってまだ底知れずだったと云う。
 500尺、165m以上。現在も深い池があるとのことです。往古から、龍神・水神が祀られていたと思われます。御旅所に少将井、大政井があるのもむべなるかなです。

御所宗像神社の摂社 少将井神社



 『新選姓氏録』山城諸蕃に、八坂造の名が見えます。「出自狛人之留川麻(るつま)乃意利佐(いりさ)也。」とあります。『日本書記』斉明天皇二年(656)高句麗の使伊利之(いりし)等が来朝(81人)とあるのに符合します。山城八坂郷に、彼らが住み着いて共に祭祀を行ったのでしょう。

 韓国の江原道春川に牛頭山なる小山があり、この辺りに狛人が住んでおり、高句麗の南下に押し出されて日本にやってきたのが上記の『日本書記』の記事になっているとも見方があります。
 また素戔嗚尊・五十猛尊が天降った場所を曽尸茂梨(ソシモリ)と云う『日本書紀』(神代紀)にあります。曽尸茂梨をこの牛頭山とする説があります。一方、ソシモリとは「高い柱の上」のことであって、法住寺に残っている幡竿のような場所との説があります。

春川の牛頭山の土墳

俗離山法住寺の柱



 元の宮司の真弓常忠氏は、八坂神社が祭神をスサノヲ尊にしている根拠は、突き詰めれば、『備後国風土記』(逸文)によるものと語ってくれました。
 内容をざっくりまとめますと。

 昔、北海に住む武塔神が、南海の神の女を妻問うたが、途中日が暮れたので、蘇民将来と巨旦将来の兄弟の家に宿を乞うた。弟は富んでいたが宿をかさず、兄は貧しかったが、快く宿をかし、粟柄で座を設け。粟飯を供した。
 数年の後、神は八柱の御子をつれて、再び来訪し、兄の蘇民の家人に茅輪を腰につけさせ、他を疫病でみなごろしにした。そこで、神は「われはハヤスサノヲノ神なり」と名のり、後世、疫病流行の時、「蘇民将来の子孫」といい、茅輪を腰につけるなら、難を免れるだろうと教えたという。

となります。武塔神=ハヤスサノヲノ神 ということです。


[11207] 牛頭天王3  神奈備 2012/08/11(Sat) 21:58 [Reply]
 延喜式内社の備後国深津郡に須佐能袁能神社[スサノヲノ]が鎮座、先の『備後国風土記』の疫隅の国社に比定されています。現在の広島県芦品郡新市町大字戸手天王に鎮座する素盞嗚神社のこととされています。10世紀初めの頃には武塔天神=素戔嗚尊は周知の事だったようです。

 牛頭天王の登場はいつのことでしょうか。

 山城の祇園感神院と播磨の広峰神社が牛頭天王を祀った本家争いがありました。広峰神社由緒には、「聖武天皇の御代天平五年(733)吉備真備公に勅して、廣峯山に大社殿を造営、新羅国明神と稱し、牛頭天王と名付けられた。」とありますが、さてどこまで信用していいのかいな。播磨の広峰社は鎌倉時代は祇園本社を名のったのですが、室町時代には祇園社の末社に列しています。

『三代実録』に、「播磨国無位素戔嗚神に従五位下を授く」とあります。貞観八年(866)のことで、これは広峰大神のこととされています。

 12世紀半ばの『伊呂波字類抄』によりますと、「昔、貞観十八年(876)に、常住寺の十禅寺円如という僧が、牛頭天王の神託により、広峰から八坂郷の樹下に移し、祀ったといい、後に藤原基経が、精舎を建立したという。」記事があります。どうやらこれが、牛頭天王は広峰にも祇園にも関係する初出でしょう。

 『日本紀略』(延長四年926)6月26日の条で、「祇園天神堂を供養す。修行僧建立す。」とある。

 この頃には、武塔天神=素戔嗚尊=牛頭天王 が成立していたようです。


[11208] 牛頭天王4  神奈備 2012/08/13(Mon) 13:00 [Reply]
 平安末期に出来た『伊呂波字類抄』に牛頭天王についての記述があります。
 自天竺北方有国。其名曰九相。其中有圓。名曰吉祥。其圓中有城。其城有王、牛頭天王。又名曰武塔天神。
 インドの北の国ですからヒマラヤ付近でしょうか、九相と云う国があり、そこに吉祥圓があり、そこの王城に牛頭天王と云う王様がいて、別名を武塔天神と云うとのこと。

 播磨広峰と山城祇園とどちらが本家なのか、本家とは牛頭天王を祭神とした時期の早いほうを云いますが、少し考えてみます。

 祇園はそのお祭りもあわせてよく知られています。一方、広峰は殆ど知られていない神社です。姫路市街から北側に見える山頂に鎮座しています。
 火の無い所に煙は立たずです。広峰にはそれだけの由緒が語られていたのでしょう。

 時代は降って、15世紀半ばの『二十二社註式』に以下のことが書いてあります。
 この神(牛頭天王のこと)は、はじめ播磨国の明石浦に垂迹し、ついで同国の広峰に移り、後に北白川の東光寺に、最後に陽成院の元慶年間(877〜884)に、現在の八坂に移されたという。

 播磨国明石郡(神戸市西区岩岡町字岩岡山)に鎮座する岩岡神社は江戸時代創建の神社ですが、ここの由緒に、「その由来を尋ねると、遠き神代の昔、素盞嗚命(牛頭天王ともいう)が降臨後、当氏子地に、神幸せられた由緒がある。」とあります。

 広峰神社につては、山頂の寺院風の大きい神社で由緒を感じる神域を形成しています。ここから山城へ牛頭天王の御魂が遷座したと云われています。(山城の八坂神社では否定しているようです。)

 摂津国八部郡(神戸市兵庫区上祇園町)の祇園神社の由緒
 創祀の年代ははっきりわからないが、神社にある天明八年の古い書類によると、第五十六代清和天皇の御代、貞観十一年(西暦八六九年)に姫路市城北にある広峰神社より素盞嗚尊の御分霊を京都(今の八坂神社)におうつしする時に、その平野に徳城坊と云う坊さんが居り、この坊さんが広峰神社と関係があったので、その神輿を此処に一晩お泊めした。以上

 大阪には牛頭天王社が多く鎮座していました。連歌で有名な杭全神社など。また多くは八坂神社と改称しています。大阪市内で33社と云われています。大獅子殿で目を引く大阪難波神社では、「姫路の広峯神社より京都の八坂神社へ勧請する際、神々がこの地に到着されたのでお祀りをしていると。」との口伝が残っています。

 また、寝屋川市八坂町に鎮座の八坂神社には、「広峰神社の分霊を播州より勧請し池の辺りに小社を建立し、これを祇園社と称え里の守神として斎き奉る。」との伝承が伝わっています。広峰から八坂へ遷座の途中とはなっていませんが、広峰からの勧請社と称しています。

 京都では、元祇園梛神社が中京区壬生梛ノ宮町に鎮座、下記のような由緒を持っています。
 貞観十一年(876)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(素盞嗚尊)の神霊を播磨国広峰から勧請して鎮疫祭を行ったが、この時その御輿を梛の林中に置いて、祀ったことがこの神社の始まりであるという。
 後に神霊を八坂に遷祀したとき当地の住民は花を飾った風流傘を立て、鉾を振り、音楽を奏して御神を八坂に送った。これがのちの祇園会の起源といわれる。また当社は八坂神社の古址にあたるので元祇園社と呼ばれる。以上。

 左京区岡崎東天王町に岡崎神社が鎮座、これは『二十二社註式』の北白川の東光寺の後裔社で、山城八坂に鎮座する前にも、都の中でウロウロしていたようです。

 さて、広峰から八坂への遷座について、各地に伝承が残っています。これらを全て否定してしまうことが出来るのでしょうか。

[11210] 牛頭天王5 完  神奈備 2012/08/14(Tue) 09:52 [Reply]
 御霊会 貞観五年(859) 神泉苑で行われています。無実の罪に課せられた人々の御霊の祟りを鎮めるために行われた。

 祇園御霊会 貞観十一年(865) 六十六本の矛を立て、神輿を神泉苑に送る行事がなされましたが、牛頭天王とは無関係の行事のようです。

 このような御霊会の流行の中で祇園は行疫神の神格を獲得していき、武塔天神や素戔嗚尊信仰を取り入れていったのでしょう。

 松前健氏は、「備後から播磨に分布していた海人系のスサノヲ信仰を渡来系巫祝の徒が取り込み、巫覡の守護神武塔神と同一視して、これを平安になって広峰辺りにいた仏僧達が播磨から山城に移し、仏典の牛頭天王と同一視した。」と推測されていますが、こういうことが広峰から山城祇園への勧請の物語を形成した。」とされています。
 さて「物語を形成した」とは、気が付いたら祇園に牛頭天王が祭られていて、誰かが、広峰からの勧請の物語を言い始めたと云うことでしょうか。それに呼応して途中の神社に立ち寄ったとの物語が語られたというのでしょうか。ちがうように思います。
 伝承から考えますと、祇園の檀家と云うのか氏子らが、広峰社の牛頭天王の話を聞きつけて、これは強力な疫神であると思い、招聘したものと思われます。

 山鉾の鈴鹿山は鈴鹿山で悪鬼を退治したとされる瀬織津姫神が祭神です。とんでもない神がおられるものです。

 織田信長が信仰した津島の牛頭天王社は、対馬から勧請されたとの由緒を持っています。対馬の国魂神は島大国魂神社に祭られている神様で、現在は素戔嗚尊となっています。素戔嗚尊を祭る神社の神主さんで作る清清会という会合があるようで、会長神社が京都の八坂神社、副会長神社が津島神社となっています。

 東日本の牛頭天王社は津島系なのかも知れませんが、神社名に現れるのは東海は津島系、それ以外は八坂系となっているようです。

 しかし津島神社は日本総社・日本総鎮守として最大級の信仰を得ていたようです。またお伊勢参りの際、津島に寄らないと片参りとされたようです。

地域別に神社名で分布数を調べてみました。

県     津島神社     やさか神社
愛知    395       14
岐阜    241       18
静岡    201       50
長野     72       38
神奈川     5       59
東京      5       38
福島     14      133
秋田      0       14
新潟      5       23

                  完

[] 牛頭天王6 追記  神奈備 2012/10

 保立道久著『歴史の中の大地動乱』から。
 平安時代に入ってから日本列島は火山噴火と大地震が多くなった。858年、清和天皇は9才で就任した。
862  京都有感地震19回 翌年も多い。年末からインフルエンザ全国で猛威。
863  5月 京都神泉苑で御霊会 効果なし
863  6月 越中・越後地震 M7.0以上
864  5月 富士山噴火 史上最大の噴火
864 10月 阿蘇神霊池噴火
866  3月 応天門の炎上 京都有感地震10回
867  1月 豊後鶴見岳噴火 人庶、飢えに苦しむ 京都有感地震 9回
867  5月 阿蘇山噴火
868  7月 播磨地震M70.以上 京都群発地震21回 
播磨山崎断層の地震波が六甲山地にぶつかり、淀川地帯を走る断層を通じて京都の揺れを増幅。人々は地震の精霊が京都にやってきたと想像した。
869  5月 陸奥海溝地震・津波 M8.3以上
869  7月 肥後国地震・大和地震
870     陸奥清水峯神社に牛頭天王移座の伝承
871  4月 出羽鳥海山噴火
872  6月 御霊会復活か? 
京都祇園社の伝承によれば、播磨国広峰神社の牛頭天王を京都に迎え、御霊会が行われた。牛頭天皇とは、猛威をふるっていた疫病の神、疫神であったが、逆にこの神を迎え、歓待して疫病の停止を祈ろうというのである。牛頭天王が播磨から京都へやってきたというのは、ほぼ確実に地震神の播磨からの移座を意味する。
874  3月 薩摩開聞岳噴火
876 11月 清和譲位 陽成即位 
878  9月 南関東地震
880     出雲地震・京都群発地震
880  年末 清和死去
884     陽成退位 光孝即位
885  8月 薩摩開聞岳噴火
886  5月 伊豆新島噴火
887  7月 南海・東海連動地震

『歴史の中の大地動乱』引用終わり



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