紀ノ川(吉野川)の古代 partT

  
[1760] 紀ノ川(吉野川)の古代  1 九頭  神奈備 2006/02/08(Wed) 18:09 [Reply]
 国栖奏は宮中に奉納されていました。吉野に隠れた大海人皇子(天武天皇)に当地の民人が支援を行った縁があったからでしょう。
 神話的には応神天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
 さらに古くは神武天皇が熊野から吉野へ入った際現れた国津神である贅持の子(阿陀の鵜飼の祖)、井氷鹿(吉野首の祖)、石押分の子(吉野国巣の祖)が現れて迎えています。
 国巣は国栖、葛、九頭、屑、国津、国主などの書き方があります。縄文的雰囲気の山と川を生活基盤とする民人なのでしょう。

 さて、彼らはどのようにして、吉野の山中にやって来たのか?
 吉野川の下流に阿陀の鵜飼、かれらは隼人で、南九州からやって来たのです。紀ノ川から上って来たのでしょう。和歌山ではすこし南の有田川には鵜飼があります。
 
 国巣の民はそのルーツは判りませんが、クズの神を祀る九頭明神が紀ノ川沿いに点々とあるのです。

 紀ノ川の南側
 海南市多田 国主神社
 和歌山市内 刺田比古神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
 和歌山市内 志摩神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
 和歌山市内 朝椋神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
 紀の川市貴志川町 国主神社
 紀ノ川市粉河町 九頭神社
 紀ノ川市粉河町 九頭東屋神社
 紀ノ川市那賀町 九頭神社
 
 吉野川の北側
 吉野郡大淀町鉾立 葛神社
 吉野郡大淀町岩壺 葛上神社
 吉野町千股 葛上白石神社
 吉野町志賀 久斯神社
 吉野町入野 上宮神社・國樔神社
 吉野町南大野 國樔八坂神社
 吉野町窪垣内 御靈神社
 下市町阿知賀 國栖神社
 宇陀や天理市などの続いています。

 縄文時代の民の流れをくんでいるとしますと、人口分布から見ますと、北から東から大和や紀の国にやって来たのかも知れません。いずれにしても、川の浅瀬などを通って人々は移動したのでしょう。

[1765] 紀ノ川(吉野川)の古代  2 中央構造線 T  神奈備 2006/02/10(Fri) 07:58 [Reply]
 根来寺が丁度中央構造線の真上に建っているそうです。紀ノ川の北側です。中央構造線は遥か東シナ海から信州経由関東に延びていますが、近畿では和歌山市から伊勢市につながっています。吉野山や吉野川の北に接する妹背の山麓に鎮座している大名持神社が畿内陸地の中央にあたります。和歌山市の日前国縣神宮、伊勢市の皇太神宮の中央に大名持神社が鎮座しているのも面白いことです。

 さて、紀ノ川下流域の南側は和歌山市の市街地ですが、名草平野と呼ばれており、古代各年代の遺跡が点在しています。JR和歌山駅の南側に太田黒田遺跡があり、銅鐸の欠片が出土、また祭祀跡と思われる場所も見つかっています。丹沙を幾層にも重ねて突き固めた場所があったのです。ここで祭祀を司っていたのは名草戸畔と呼ばれた女王だったのでしょう。この名は『紀』の神武東征譚に出てくる名で賊として誅(ころ)されているのです。
 
 『紀』の話は神話に近いのでしょうが、名草平野では、紀元3世紀の後半にこの太田黒田遺跡の住人の姿がぷっつり途絶えているのです。しかしながら名草郡全体の住人数は徐々に増えているそうです。洪水の跡もないようです。

 この時期は邪馬台国では台与の消息が途絶えた頃ですし、朝鮮半島からの移住者は「牛のよだれのごとく」と形容される大変動のあった時期にあたります。また大和では箸墓古墳が築かれます。『記紀』では三輪山の麓に展開した崇神天皇の頃に当たります。

 紀ノ川を遡って行くと、昔の郡の名で言いますと、海部郡、名草郡、那賀郡、伊都郡と続きます。それから大和国になり、宇智郡、吉野郡と続きます。海部郡は後に設けられたのです。名草の名は『神功皇后紀』に、磯鹿海人名草と言う人物の名に出てくるのですが、筑紫の安曇系の人がやって来ている郡なのかも知れません。
 次ぎに那賀郡があります。根来寺や粉河寺のある郡です。筑紫の川に那珂川と言うのがありました。更に伊都郡は『魏志倭人伝』にも登場する伊都国と同じ名です。筑紫辺りからの移住があったのかも知れません。

[1768] 紀ノ川(吉野川)の古代  3 中央構造線U  神奈備 2006/02/11(Sat) 11:12 [Reply]
 筑紫からの移住と云うことでは、昨年逝去された丹生良広氏はその著書『丹生神社と丹生氏』で、丹生一族の第一歩は筑前の伊都の地とされています。この地は邪馬台国の伊都国ですがここには水銀鉱床は出ていません。紀の国の主な水銀産地は伊都郡内であり、筑紫伊都国から丹生一族と共に地名が運ばれたとの想定されています。

 丹生一族は当然のことですが、水銀鉱床の豊富な中央構造線を発見、豊後から四国に渡り、紀の国へやってきたのでしょう。

 神武東征譚に南紀に回って丹敷戸畔を討つ話が出てきます。この丹敷はニシキと読まれていますが、一部にはニフと読み、紀ノ川を遡ったのではと推測されています。『古事記』では、神武軍は先ず吉野川の河尻に着き、阿陀の鵜飼の祖に出会います。五條市であり、一応つじつまは合いそうです。

 紀の国魂である五十猛神は、やはり築後の荒穂神社の神奈備山である基山から植樹を始められたとの伝承があり、九州から紀の国へやって来たと考えられます。肥前国基肄郡となるのですが、この基肄の名も元々は基であり、これが紀氏の紀となり、地名が遷された可能性もあるのかも。

 逆に言えば、紀氏や丹生氏の紀の川沿いへの登場と言うことでしょう。

 丹生一族は伊都郡から更に大和へ入り、吉野、宇陀、伊勢と鉱床を求めて展開していったのでしょう。紀の国にも各地に散らばっています。「丹生」の名を持つ神社が多く残されています。

 鉄製の馬冑が、紀ノ川尻の大谷古墳から出土しています。また五條市の北部の猫塚古墳からは蒙古鉢形冑などの鉄製の武器が出土しており、神武軍なり紀氏なりの紀の川沿いでの移動の跡を偲ばせています。

[1771] 紀ノ川(吉野川)の古代  4 難読地名  神奈備 2006/02/12(Sun) 09:55 [Reply]
 紀ノ川沿いの和語らしくない地名

 橋本市
 隅田 スダ 亦打山 夕越え行きて 廬前の 隅田河原に ひとりかも寝む 3−298 隅田八幡神社には最古の金石文とされる人物画像の銅鏡が保管されていた。「男弟王在意柴沙加宮時」の文言があり、允恭天皇か継体天皇との係わりが議論されています。
 学文路 元は禿 カムロ 天神さんを勧請すれば繁昌するかも。
 神野々 コノノ 阿知使主の子都如使主が住み、豊内丸、田村麻呂の祖となった。天野明神の最高の役人として、地域の実権を握り、寺院建立の実権をも握っていたと云う。高野山以前には神野野寺が栄えていた。
 河瀬 コウゼ
 向副 ムカソイ
 胡麻生 ゴモウ 住吉大社神代記に記されている丹生川上に天手力男意気続々流住吉大神を鎮めたとある社の後裔とされる相賀八幡神社が鎮座。

 大我野 オオガノ 大和には 聞こえも行くか 大我野の 竹葉刈り敷き 廬りせりとは 9−1677
 
 かつらぎ町
 兄井 アニイ 丹生酒殿神社の本殿後の鎌八幡宮の元社が鎮座。

 御所 ゴセ
 中飯降、西飯降 イブリ 御所市にもあった。樋野坂村と飯降村を合併させて、樋野村としたが、樋野を「イブリ」と読むことにした。('.';)
 笠田中、笠田東 カセダ
 佐野 サヤ 佐野廃寺 奈良時代に法起寺式。
 
 九度山町
 九度山 クドやま クドは竈のこと。
 丹生川、入郷 ニュウ

 高野口町
 名古曽 ナコソ 名古曽廃寺、奈良時代に法起寺式の伽藍。

 応其 オウゴ 16世紀の人、高野山中興の祖・応其(おうご)上人に由来すると云う。

 粉河町
 東毛 トウゲ 東家もある。 粉河寺の北

 那賀町
 麻生津中 オウツなか 九頭神社


 岩出町
 野上野 ノジョノ 丹波ではノコノ 根来寺の南
 波分 ハブ 根来寺の南西

[1786] 紀ノ川(吉野川)の古代  5 神功皇后の足跡  神奈備 2006/02/14(Tue) 19:27 [Reply]
紀ノ川沿いには神功皇后の足跡の伝承が、『日本書紀』や「各神社由緒」などで語られています。

『日本書紀』には、仲哀天皇が南海道を巡幸されて、紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)に居られた。その時熊襲が背いた云々と知らせがはいり、ここから九州へ出発したとあります。新在家に得津(トクツ)という字があったようで、この付近と見られています。太田黒田遺跡の近くです。

 続いて、『日本書紀』の記事。 帰還後、皇后は紀伊国においでになって、太子(後の応神天)と日高でお会いになった。群臣とはかって忍熊王を攻めようとして、更に小竹宮に移られた。この時、ちょうど夜のような暗さになって、何日も経った。時の人は「常夜行く」といったそうだ。皇后は紀直の先祖、豊耳に問われて、「この変事は何のせいだろう」と。一人の翁が云うのに、「聞くところでは、阿豆那比の罪というそうです。」。「二人の祝者を一緒に葬ってあるからでしょう。」村人がいうのに、「小竹の祝と天野の祝は、仲の良い友人であって、小竹の祝が死ぬと、天野の祝は「仲の良い友人であった。どうして死後穴を同じくすることが避けられようか。」と屍のそばで死んだ。それで合葬したが、思うにこれだろうか。」と穴を開いて、棺を改めて別の所に埋めた。すると日の光が輝いて、昼と夜の区別が出来た。

「神社由緒」から

淡島神社 和歌山市加太116
 遠い昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの折、激しい嵐に出合い、神のお告げの通り船を進めて辿り着いたのが友ケ島であった。


射箭頭八幡神社
息長足姫尊が三韓より帰国され加太浦に御着船の際、御弓を携えかぶら矢を射られ紀水門飽浦の下地尾の崎に止まった。


木本八幡宮
神功皇后が三韓から凱旋された時、大臣武内宿禰が幼帝応神天皇をお守りして、この海口(日本書紀にいわゆる紀伊水門の地)に泊り、この地に上陸して頓宮(仮の宮)を造り、暫く留まられた。


安原八幡神社
神功皇后三韓より御凱旋の際、忍熊王の難をさけ、難波から紀水門(安原付近)に御到着、御子誉田別命(応神天皇)を武内宿称に護らせ、皇后みづからは更に日高郡衣奈まで迂回をして、再び安原の津田浦(小学校付近)に御上陸、頓宮を造られ御滞在なされた跡が当社である。

また、武内宿禰の誕生の地とか産湯の井戸などの跡も、和歌山市安原にあり、武内神社も鎮座しています。

[1790] 紀ノ川(吉野川)の古代  6 神功皇后の足跡U  神奈備 2006/02/16(Thu) 10:04 [Reply]
 皇后が日高に行ったとある日高とは、今の日高郡のことでしょう。梅の産地の南部、竜神温泉、道成寺のある御坊市など。

 どうも、神武東征譚でも南紀に回ることになっていますが、南紀には霊力をつける山々の力、海の力、太陽の力が満ちているということでしょう。この気分は行くたびに感じますし、元気になる器かも。


産湯八幡神社 日高郡日高町産湯313
 社伝によれば、「神功皇后、三韓ご征討から帰らせ給ひ、浪華より転じて当地に立ち寄られ、皇子をご分娩、武内宿祢これを守護し奉りて暫く駐まる。

衣奈八幡神社 日高郡由良町衣奈669
 創建鎮座の由来は衣奈八幡宮縁起に、譽田別命の行宮跡とされ、衣奈の地名は命の(胎胞(エナ))を納めた故という。

 日高の地で、応神天皇を出産したと伝承が拡大しています。


潮崎本之宮神社 西牟婁郡串本町串本517
 神功皇后帰還のおり大和で忍坂王の反乱を知り、皇后は武内大臣に皇子を守護し紀伊に赴いた際、南に漂流し当地に着き、住吉大神を祀ったという。


 ここまで来てしまいました。さて、戻らなくては。

貴志川八幡宮 那賀郡貴志川町岸宮1124
 神功皇后筑紫より御凱旋の時、皇子とともに柏原(現安原)に上陸し、小竹の宮に赴く途中、当地に立ち寄ったとの伝承がある。


小竹八幡神社 御坊市薗642
 神功皇后の小竹宮跡とする伝承がある。


志野神社 那賀郡粉河町北志野557
 神功皇后の三韓征伐の行幸地の小竹の宮にも比定される。


隅田八幡神社 橋本市隅田
神功皇后が外征後、筑前国から紀伊の衣奈浦を経て大和の都に御還幸の途次、この地に滞留なさせ給いし旧蹟。


波寶神社 五條市(西吉野村) 夜中
 口碑によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、この山に休んでいると、白昼がにわかに暗闇になったので、ここの神に祈ったところ、再び日が照り、明るくなった。


 吉野郡の郷は平安時代の地名一覧の『和名抄』には、加美、那珂、資母、與之努と分かれています。『天河への招待』大山源吾著から
加美 カミ 高見、龍門、上市
那珂 ナカ 国樔から川上村
資母 シモ 大淀、下市、秋野
與之努 ヨシヌ 丹生、賀名生、黒滝

 大山源吾氏は小竹の宮(シノノミヤ)の小竹を與之努のシヌとし、夜のように暗くなったことが夜中の地名に残ったと云う。銀峯山の波寶神社こそ小竹の宮と云う主張である。
 同じ墓に入った天野祝を丹生津比売神社の祝とすれば、粉河の志野神社か波寶神社が似合う、御坊は遠い。

 なお、天野祝と小竹祝が同じ墓に入った程度で世の中が暗くなるだろうか、と云う事から大山源吾氏は銀峯山の天ツ神である朱の大神(天野祝)と国ツ神の神蔵大明神(磐裂姫、小竹祝)を併祀した不合理さからであるとされています。面白い見解だと思います。

[1793] 紀ノ川(吉野川)の古代  7 畿内近辺の隼人  神奈備 2006/02/18(Sat) 08:54 [Reply]
 延喜式第二十八巻隼人司の条
 「およそ番上の隼人は二十人、欠くることあらば五畿内および近江、丹波、紀伊などの国の隼人の幹了者を取り、省に申して之を補え。」
 とあり、五畿内を含めて八ヶ国に隼人がいたことになります。

 摂津国では、新大阪に近い所に大隅神社が鎮座、この辺りは近畿の隼人の要のような土地、九州の隼人の中継地のような所ではとの見解があります。ここには牧が置かれました。淀川を上る船を牽引するために牛や馬を飼い慣らしたのです。これは隼人の得意な仕事だったようです。『肥前国風土記』には、五島列島の値嘉島の人達は顔つきや言葉が隼人に似て、騎射がうまい、とあります。

 畿内最大の居住地は山城の綴喜郡の大住付近です。月読神社が鎮座、隼人舞の伝承地とされています。

 紀ノ川沿いでは先ず、大和国宇智郡の阿陀比賣神社が想起されます。阿陀隼人が居て、鵜飼などを伝えています。

 紀ノ川下流の名草の地に井辺八幡山古墳があり、ここから顔に入れ墨をした力士像の埴輪が出土しています。『古代史津々浦々』(森浩一著)におよりますと、ふんどしだけを着用し、髪型は頭頂を剃り、後頭部に束髪をたれさげるなど特長が多いようです。『日本書紀』(天武十一年)では、大隅隼人と阿多隼人が朝廷で相撲をとったりしています。井辺八幡山古墳の民衆埴輪にかなりの割合の力士がいるのは隼人系と見て間違いのない所。

 また紀ノ川も船を牽引させるための牛や馬が飼われていたはず。『日本書紀』欽明紀七年、飛鳥の近所の檜隈に住んでいた川原民直宮と云う人が、母馬の背をピョンピョン子供馬が飛び越えているのを目撃、その子馬を手に入れて育てたらたいへんな名馬となったと云う。紀伊の海部が塩や干し魚を運ばせていた馬。この海人を一概に隼人とは出来ないが、その可能性も大きそうです。

[1804] 紀ノ川(吉野川)の古代  8 豪族など  神奈備 2006/02/21(Tue) 21:52 [Reply]
 下流の名草郡には紀氏が盤踞していました。紀氏と云っても二系統があり、一つは地元の紀直で、これは天道根命の末裔で所謂神別氏族です。どちらかと云えば紀ノ川の南側にいました。もう一つは皇別氏族で、紀朝臣と云い、武内宿禰の子孫となっています。中央で活躍したのですが、その前には紀ノ川の北側にもいたようです。

 紀朝臣のルーツとしては大和の平群郡、ここには平群坐紀氏神社が鎮座、もう一つは山城国紀伊郡ですが、やはり九州から紀の国へ、それから大和や山城に出稼ぎに行って定着したものと思われます。何故九州か、これは武内宿禰の母親は木の国の造の祖の妹の山下影日売とされていますが、彼女を祭神とする神社は紀の国には一社もありません。福岡県三社、佐賀県一社なのです。彼女を娶った男も景行天皇の弟です。景行天皇も九州の匂いの強い大王です。

 名草郡や那賀郡には大伴氏もおりました。紀両氏とは地域も近く親しい関係にあったようです。『雄略紀』八年夏五月、半島で病死した紀小弓宿禰の墓の場所を大伴室屋大連が天皇に訴えたところ、「大伴郷は紀郷と同じ国の近い隣でつきあいも長い。」と言われて淡輪邑に葬ったとあります。

 伊都郡には文忌寸、坂上重方など。8世紀から10世紀の間には丹生氏の名は出てこないようです。

 大化の改新の詔で紀ノ川に関係するのは畿内の規定です。畿内の南の境界として「紀伊の兄山」です。背山とも書きます。
http://kamnavi.jp/ki/itonaga/funaoka.htm
この山と対となる妹山とは万葉集にも多く唱われています。
阿閉皇女 これやこの 大和にしては 我が恋ふる 紀路にありとふ 名に負う背の山

 妹山と背山、ひとつには妹背の道へのあこがれと言うか、妹背のの道とは、女と男の関係のことでもあり、陽光きらめく紀の国に遊べば、粋な女や男がいたのでしょう。紀ノ川を下って妹背の道を越えていきたい、蒸し暑く冬は底冷えの大和の陰湿な空気から陽光の中へ伸びやかに羽ばたきたい万葉歌人の想いを満たす紀の国だったのです。

 今の背山、妹山はミカン山で、頂上には送電線が通り、身も蓋もない状態です。昔の妹山に面白い話が伝わっています。結婚に自信のない男、女に自信がない男、と言う意味ですが、その男に妹山を見せてやれば、女に自信がつくと言われていました。試しに小生も妹山をぐるぐるとよく見たのですが、全く何のことやら。さっぱり自信がないままですわ。
 

[1817] 紀ノ川(吉野川)の古代  9 有間皇子  神奈備 2006/02/25(Sat) 10:34 [Reply]

 牟婁郡の有馬に花の窟神社が鎮座、二月と十月に花や白扇を吊した縄旗170mを結び、魂結びと称して、御綱渡しの神事がもよおされる。『天皇と鍛冶王の伝承』(畑井弘著)によると、朝鮮語で「花が美しい」を「アリムダプタ」と言うそうです。氏によれば、孝徳天皇は軽皇子と呼ばれ、「軽」は加羅と同義であり、有間皇子にも半島のにおいが仄かにただよっています。

 有間皇子は有力な皇位継承者でした。後の天智天皇(中大兄皇子)の有力なライバルでした。

当時は大きい影響力を持っていた韓人勢力のスターだったのでしょう。それだけに、有間皇子は狂気をよそおい、身におよぶであろう禍を避けていたのでしょう。

 『日本書紀』(斉明紀三年九月)紀国の牟婁の湯(たぶん白浜、湯の峰の説もあるが・・)に行って、「ただその場所を見ただけで、病気は自然に治ってしまいます。」と帰ってから斉明天皇に報告しています。天皇はそれを聞いて、自分も行ってみたいと思うようになりました。とあります。

 四年十月、斉明天皇や中大兄皇子は紀の湯に行幸されました。一書に、有間皇子は、「まず大宮を焼いて、五百人で一日二夜、牟婁津(田辺湾)に迎え撃ち、急ぎ舟軍で淡路国を遮り、囲んでしまえば、計画は成就しやすい。」と言ったとあります。

 蘇我赤兄が斉明天皇の三つの失政について有間皇子に語り、有間皇子は計画の実行を決意しますが、床几が壊れて不吉な前兆として中止をしました。その夜、蘇我赤兄と物部鮪に捕らえられて、牟婁に送られます。海南市の藤白で首を縊られて殺されました。

 だまされたふりをした中大兄皇子の圧勝と言うことでしょう。有間皇子側についていた守君大石、坂合部連薬、塩屋連コノシロらが捕らえられました。守君大石は遣唐使だった人。坂合部連薬は宇智郡の坂合に関連する人でしょう。ここを押さえれば大和の軍が、紀の湯に行き着くのに時間がかかるでしょう。塩屋連は今の御坊市の塩屋を本拠とする豪族だったのでしょう。舟軍を担当する予定だったのかも。

 五百人の牟婁津を押さえる軍はどこから呼ぶ予定だったのでしょうか。『天皇と鍛冶王の伝承』には、有間皇子の本貫の地が熊野の有馬であろうから、ここから中辺路を通って牟婁津に出現させようと推定しています。まさに有間皇子の面目躍如と言うことです。

花窟神社
http://kamnavi.jp/ym/miehana.htm

塩屋王子神社
http://kamnavi.jp/ki/nanki/sioya.htm

有馬皇子神社
http://kamnavi.jp/kumano/kii/fujisiro.htm


 



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