国栖奏は宮中に奉納されていました。吉野に隠れた大海人皇子(天武天皇)に当地の民人が支援を行った縁があったからでしょう。
神話的には応神天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
さらに古くは神武天皇が熊野から吉野へ入った際現れた国津神である贅持の子(阿陀の鵜飼の祖)、井氷鹿(吉野首の祖)、石押分の子(吉野国巣の祖)が現れて迎えています。
国巣は国栖、葛、九頭、屑、国津、国主などの書き方があります。縄文的雰囲気の山と川を生活基盤とする民人なのでしょう。
さて、彼らはどのようにして、吉野の山中にやって来たのか?
吉野川の下流に阿陀の鵜飼、かれらは隼人で、南九州からやって来たのです。紀ノ川から上って来たのでしょう。和歌山ではすこし南の有田川には鵜飼があります。
国巣の民はそのルーツは判りませんが、クズの神を祀る九頭明神が紀ノ川沿いに点々とあるのです。
紀ノ川の南側
海南市多田 国主神社
和歌山市内 刺田比古神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
和歌山市内 志摩神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
和歌山市内 朝椋神社(式内社) 九頭明神とも呼ばれた。
紀の川市貴志川町 国主神社
紀ノ川市粉河町 九頭神社
紀ノ川市粉河町 九頭東屋神社
紀ノ川市那賀町 九頭神社
吉野川の北側
吉野郡大淀町鉾立 葛神社
吉野郡大淀町岩壺 葛上神社
吉野町千股 葛上白石神社
吉野町志賀 久斯神社
吉野町入野 上宮神社・國樔神社
吉野町南大野 國樔八坂神社
吉野町窪垣内 御靈神社
下市町阿知賀 國栖神社
宇陀や天理市などの続いています。
縄文時代の民の流れをくんでいるとしますと、人口分布から見ますと、北から東から大和や紀の国にやって来たのかも知れません。いずれにしても、川の浅瀬などを通って人々は移動したのでしょう。
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