難波   宮 津 怪異 市


難波の宮
1.立地  上町台地の先端。標高28m。土が堆積しない。街造りで1.5mほど土盛り。 1.5m掘れば古墳時代であり奈良時代平安時代の地表面になる。


上町=坂の上町 船場が下町 森ノ宮遺跡 仙台から熊本までの石器 蠣とシジミ


河内湾から河内湖へ。神武伝説は船で日下へ。難波に日が昇る→日本国名のルーツ。国名は
ヒノモトがよろしい。


日の本地名は東へ。太閤秀吉北条攻めのねねへの手紙で日本の仕置き。東北地方。
参照 神武東征



  仁徳期 台地北側の溝を拡大し、湖の水が海にスムースに流れるようにした。今の大川。


難波堀江の他に、茨田堤、横野堤、猪飼津に橋など大土木工事。
参照 仁徳天皇池堤の構築


船は人夫が引っ張り上げたこともあった。
万葉。4061 堀江より水脈(みを)引きしつつ御船さす賤男(しづを)の伴は川の瀬申せ

難波 堀江開削で価値がアップ。淀川木津川大和への水運。田畑の開拓。洪水対策
難波を征する者は日本を征する。江戸時代まではそうだった。

しかし海に近く海外からの攻撃には危ない立地、せめて長岡あたりまで。



  高津宮 仁徳が皇后と高台に登って暑さを避けていたら、菟餓野の鹿の鳴く声。迎日。
トガノ、ツゲノ。堀江の北岸一帯。神の使いか。春日。秋に若い角切り。漢方薬。これを売って鹿の餌を買う。
参照 菟餓野の鹿
上町台地には多くの岩。先端に磐船神社、石山本願寺。名水も出る。
四天王寺七名水 亀の井 玉手井(一心寺) 安井



2.孝徳遷都の背景

河内政権時代(5世紀)から、港湾・物流拠点として発展。外交施設なども。

迎賓館:三韓別?昔から仲が悪い。

512 継体 六年 百済の遣いが難波館にとどまる

561 欽明二二年 難波大郡(おおごおり)に外国の使者をおく

608 推古一六年 隋使裴世清のために高麗館の隣に新館


大化大新を行う為の難波遷都 東アジア情勢緊迫 唐が高句麗を攻める。

最初に牛乳を飲んだ天皇−孝徳。

二棟の八角殿が特長。鐘楼、仏教、荘厳装置? 日本最初の最大の八角の建物。夢殿。天武持統陵。
二棟からは門神の役割も。後世の橘と桜−梅−。永久と繁栄。
繍帳と一切経を収納か? 仏教公伝後の舒明天皇から文武天皇までの八代が八角墳と思われる。田村圓澄氏

聖徳 聖徳太子の斑鳩の宮での施政も難波志向があったのでは。皇太子が外交担当。

仁徳 孝徳帝、上古の聖王の跡に従う。仁徳天皇の高津宮(蝦蟇宮)の跡に。

   
難波長柄豊碕の宮 長柄=上町台地  豊碕=先端の美称 海産物豊



3.難波津 難波の港 八軒屋・高麗橋付近また三津寺付近説も。船、枯野船はカヌー。
熊野詣での出発点 枯野船、芭蕉の夢は枯野を






住吉津の付近には海関係の神社が多い。住吉大社、大海、船玉。先行?
難波津は淀川大和川につながる。荷物は難波、人は住吉。

市章 澪標、水脈つ串、難波堀江の水先案内。
玉を拾う浜辺の景色、波の音。
飛鳥との差! 飛鳥は蒸し暑い 蚊がが多い 冬は底冷え。 難波はさわやかな風、海の音、白い砂浜。

甦り 八十島祭り 河内王権に萌芽  聖武太上天皇など病になると難波津へ。
大嘗祭(おおにえのまつり)の翌年、新天皇初めての新穀収穫の神事
照葉樹の葉の照り返し。榊。


大嘗祭には新穀奉納 占いで決める 
昭和天皇 滋賀 福岡  今上天皇 秋田 大分

港 砂浜でも港になる。大きい船は大川を少し南へ入り潮汐を避けた船着き場だろう。

中世 渡辺津 熊野詣での出発点 義経の船出  江戸時代 八軒屋 船宿八軒



4.発掘 大正五年、馬場町のNTT関西ビル敷地から奈良時代の軒瓦発見。
置塩章が重圏文と蓮華文の軒丸瓦を発見

山根徳太郎 戦後、軍用地でなくなったので、昭和29年から発掘。37年大極殿発見
阪神高速を地べたに。遺跡を壊さない。古来より公の地だったので大形発掘。
宮 国家の港 大坂城 陸軍

柱穴と切り合い。古墳時代の大倉庫群の柱穴が竪穴式住居に切られた。



5.大化改新

その2年前 蘇我入鹿、軽皇子ら、聖徳太子の皇子の山背大兄王一族を殲滅
この時代は天皇もワンオブゼム。蘇我でもよかった。皇族の危機意識。


蘇我入鹿を暗殺。軽皇子=(韓人 鞍作を殺す!)中大兄皇子・藤原鎌足ら。
山背が健在なら大化の改新のきっかけの乙巳の変の蘇我討伐はなかった。


19歳の中大兄皇子は傍観者との説がある。
主導した孝徳天皇(軽皇子)が即位。遷都、大化の年号、大化改新の詔。
天皇家の権威確立の第一歩。 仏教を蘇我氏から天皇家に取る。
参照 大化改新



6.前期難波宮 生魂の杜の樹木を伐採 古墳群を削平。言語に絶する壮麗さ。二基の八角楼。
谷町:東西に谷が横切っているのが多い道筋。深さ10m。800mx800mの谷のない地域に宮。





唐の様式を取り入れた本格的宮。しかし完成後2年で中大兄皇子ら飛鳥へ。
孝徳崩御後も宮は維持された。斉明六年に行幸している。


天武天皇の時に改修・羅城。しかし2年で火災で全焼 柱穴から炭
羅城(囲い)を設置。新羅などからの奇襲の防衛。
阿刀連薬の家から出火。
阿刀=物部の船長 冬の北西の風で全焼。船長の家がある津は八軒屋の場所でいい。
参照 難波宮炎上


7.後期難波宮 聖武天皇の副都心計画。後に長岡京建設の材料として分解され運ばれる。
摂津大夫 和気清麿が荒陵の南に掘を掘り大和川の水を海に流す工事→失敗 河掘池、堀越神社、河堀口。



8.期間 実質、宮としての活用期間は短い。前期34年の内2年、後期50年の内1年。
教科書に載っていない。
神崎川と淀川をつなぐ。これにより難波堀江の利用が激減。淀津の活用。



9.奈良時代の社会 総人口600万人、大和難波20万、役人1万、高級官僚125人、閣僚級15人。
貴族=神官、神。怖ろしい。


年俸 親王・諸王 5億〜8千万。中級4千万〜15百万。下級7百万〜2百万。
勤務 朝4時から12時まで勤務。王朝とか朝廷と言う。6日ごとに1日休み。
遣隋使 
倭王は天を以て兄となし、日を弟とす。天いまだに開けざる時政を聞く。 日でれば弟にゆだねる。おおいに義理なし。


難波の語源

神武:浪速:波が速い  魚庭:な=魚の多い所  な=日を拝む場所
枕詞 押し照る難波  燦々と太陽が降り注ぐ 海面が輝く 押し照る 万葉に10回以上
浪速 魚庭 波庭 並浜 太陽(を迎える 拝む)庭
参照 神武東征



難波の道路

大極殿から真南に巾18mの難波大道(JR寺田町駅) 堺市鉢峯 国神社
桑津に日向の髪長媛を置いた。高津からは馬でないと通うのは大変。


竹内街道につながる。御堂筋で44m。馬の疾走のため?馬は鹿サイズ。流鏑馬。
流鏑馬。広場、祭祀儀礼。貴族の行進。
騎馬五列の行進。

藤原京 24m  平城・平安京 85m  唐の長安 150m

住吉 しはつ道=長居公園通り 
si 大きい・主な pa 湯気 at (湯気が)立つ  アイヌ語
湯里に温泉が涌いていた。渡来人の帰化儀式、赤留比売神社で俺の酒。
餌差町 えさし:海に突き出ている場所 アイヌ語=縄文語

酒:乙女らが飯を噛み発酵させる。3〜4日かかる。すぐ飲めない。
大津道  立野越・亀ノ瀬越     丹比道 竹内峠へ



難波の怪異

春から夏にかけて鼠が難波に向かったのは 遷都の前兆だったのだ。
坊主か? 商人か? それとも貴族らか。
大化三年(647) 十二月の晦、皇太子の宮に火災がおきた。あやしんだ。
嫌われ者。

孝徳おいてきぼり 皇太子倭の京に遷りたい。許可せず。皇后や皇太子らは飛鳥へ戻った。
間人皇后も中大兄に従う 彦姫制の崩壊。飛鳥にはなじみの赤い灯、青い灯?
翌年、白雉五年(654)元旦 鼠が倭の都に向かって走った。坊主か? 家に鼠、国に盗人。


甘露 天武七年長さ5〜6尺、広さ7〜8寸、綿のよう。風にのって葦原でひらひら。
繁栄の兆し 韓国の宮廷伝統菓子に龍のヒゲと言う蜂蜜を繊維状にした綿菓子。

聖武の頃 天平十三年(741) 難波宮で、庭に狐の頭だけがころがっていた。 不吉な動物の意識。
頭がちぎられて落ちており、毛と糞が頭の側にあった 。

桓武 延暦三年(784) 体長四分ばかりで黒い斑の蝦蟇二万匹あまりが、難波の市の水たまりから三町ほどの行列をつくって南に 向かい、四天王寺の境内に入って、どこともなく消え去った。


難波の市の記事。米家の木簡出土。
八尾の住む尼さんが平群の山寺で仏画を書き祀っていた。盗まれたので難波市に探しに
来て見つけた。
繁昌していた証。平城京にも市があった。






難波の市

松屋町筋と難波大路との間 上六と上九の間 米家と書いた木簡が出土
商取引 役人 半年毎に綿・布・鍬などが支給され、月々には米・塩。
これを市場で売り、日々の必要なものを買う。

奈良時代貨幣経済 『正倉院文書』 造東大寺司が購入 黒米、白米、海藻、塩、大豆、大麦、小麦、海菜、折薦、細縄


見せしめ 「死刑は市で執行せよ。」とある。死刑だけではなく、杖で打つ刑も行われた。 『養老獄令』


刑場 仏法中止の命を受け、尼達の法衣を奪い、海石榴市で鞭打ちの刑を行う。
蘇我対物部。崇仏対排仏ではない。物部の寺院は渋川寺(八尾)にある。 大和川の水運の権利と皇位争い。

歯田根命が釆女と通じたので、罰として所有の資財を餌香市の橘の木のもとにむきだしにして置かせた。→ 齋宮が犯される話は多い。神聖な超上運。

天宇豆女は裸 もうろうとした裸の女。夜中。
参照 釆女を犯す

歌垣 会賀市で歌垣、渡来系氏族男女230人が奉仕、五位以上の人々と女孺を参加させた。宝亀元年(770)称徳天皇の時  オバヤシニ ワレヲヒキイレ セシヒトノ オモテモシラズ イエモシラズモ

相撲 『続日本紀』延暦八年(789)石上の衢で相撲をとった。市は境界、送葬の場。

邪霊祓除 裴世清(隋使)を海石榴市の衢に迎える。推古天皇の時。

死者との交流 堅塩媛(推古の母)の誄(死者を悼む詞)を軽の街中で奏上。
普通「市」は境にできる。橋、峠、あの世との境。

酒の販売 『顕宗紀』顕宗の家誉めの歌の一部 「この手造りの旨い酒は、餌香の市でも値段をつけて買うことができない。」良い香りの酒を売っていた市ーエガー

祈雨 慶雲二年(705)京・畿の清僧に雨乞いをさせると共に、南門を閉じ市をやめた

四天王寺西門に市 難波市が衰亡した後、ここに市が発生。浜の市と言う。今宮戎が市神。
参照 四天王寺



難波の神話と神

道饗祭(みちあえのまつり)宮の四隅の道。天満宮の大将軍社。宮の北西。
六月十二月に現在まで行われている。列をなしておもむく。数人が並ぶ。


物部氏の遠祖饒速日尊の天降り伝承。河内の哮峯。石切神社。磐船神社。
参照 先代旧事本紀

天若日子・下照比売・天探女の伝承。味原池。比売許曽神社。
小橋の磐船古墳。鏡のような石、今行方不明。
参照 天稚彦
参照 摂津風土記姫島
参照 摂津風土記高津

比売許曽神社 新羅の王子の天日矛の妻となった赤留比売が生まれ故郷に逃げて鎮まった。
あかる 参照 天日矛

八十島祭り 大阪湾で島々が誕生してきたパワーにあずかる儀礼。大嘗祭の翌年。
天皇の着物を難波に持参、広げてパワーを付着させ、天皇に着せる。
国生み神話の原形の淡路島のイザナギ神話とつながる。琵琶湖とは点対照。点は千里でイザナギ神社鎮座。


延喜式神名帳 平安時代に国家が祭祀する神を定めた。記載社を式内社と言う。
東生 難波坐生国咲国魂神社(生玉さん) 八十島の霊を祭る 大坂城建設で現在地に遷座。
西生 坐摩神社(いかすり)石町から渡辺町に遷座。宮地の神として皇居に祀る。
住吉 住吉大社 中世は和歌の神・稲作の神・一寸法師 大海神社 船玉神社 赤留比売神社 

現在の坐摩神社の地は地中からガンマ線が出ている。心身が活性化される。→ポックリ。



難波の海

国生み神話の海。琵琶湖から淡路島へ。熊野詣での禊ぎの場。甦りの海。
西成、東成の地名
琵琶湖と点対称、対照点が千里、ここにもイザナギ神社



難波の寺

四天王寺 物部守屋を滅ぼして家と田を撤収し建設。境内に願成就宮.
四天王寺の家人及奴婢には物部氏に仕えていた者。未だにその子孫がいる。
安曇寺 安曇とは日本最古の海人族で福岡の志賀島を拠点としていた



難波の歌
古今和歌集 王仁 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花  花は梅 仁徳天皇就任を祝う歌

御幸森天神に歌碑、不思議なことにハングルも彫られているそうだ。阿波からこの歌の木簡出土、習字の練習に使われたと言う。


千載和歌集 皇嘉 難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき
門院別当 たった一夜旅の宿で契り合せた人のことが恋しくて忘れられない

仁徳帝国見の歌  おし照るや 難波の埼よ 出て立ちて わが国見れば 粟島 淤能碁呂島 檳榔の 島も見ゆ 佐気都島見ゆ。


万葉集
726 式部卿(のりのつかさのかみ)藤原宇合(ふぢはらのうまかひ)の卿 知難波宮造営事

巻三 0312 昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都と都びにけり

巻六 0977 直越(ただこえ)のこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも
海面全体が輝く様 難波は祭の宮 陽光が燦々としている


巻八 1442 難波辺(なにはへ)に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ
春菜摘むのは歌垣と同じで若い男女が行うが、多く難波に行ったので寂しい。


巻九 1726 難波潟潮干に出でて玉藻刈る海未通女(あまをとめ)ども汝(な)が名のらさね
玉藻を刈っている漁師の娘 名を名乗りなさい。


返歌 1727 漁りする海人とを見ませ草枕旅ゆく人に妻とは告らじ
海に魚をとる者とご承知下さい。旅の人に名はなのりません。


巻11 2819 押し照る難波菅笠(すがかさ)置き古し後は誰着む笠ならなくに

難波の菅で作った笠もつけずに古びさせて、後で誰かつけるの?
深江稲荷神社  東成区深江南
笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島宮浦の地 伊勢参宮などには必ず携帯
  以上

  年表
西暦 和暦 天皇        難波 日本・海外
4世紀後半 応神 難波大隅宮に行幸する
5世紀前半 仁徳 難波高津宮に都す。
5世紀前半 仁徳 難波堀江の開削 茨田の堤の造築
5世紀後半 雄略 法円坂に大形倉庫群 倭の五王
512 継体 六年 百済の遣いが難波館にとどまる
561 欽明二二年 難波大郡(おおごおり)に外国の使者をおく
583 敏達一二年 日羅を難波小郡(おごおり)の西に埋葬
593 推古 元年 四天王寺を造る
607 推古一五年 小野妹子を隋に派遣
608 推古一六年 隋使裴世清のために高麗館の隣に新館
613 推古二一年 難波より飛鳥京に至る難波大道を置く
624 推古三二年 高句麗・百済・新羅、唐の册封を受ける。
642 皇極 元年 百済、新羅を攻める。高句麗クーデタで王権を倒す。
643 皇極 二年 百済で政変、扶余豊、太子をはずれる。貴族40人倭に亡命
〃 蘇我入鹿、軽皇子ら、聖徳太子の皇子の山背大兄王一族を殺す
645 大化 元年 皇極 乙巳の変(蘇我入鹿・蝦夷を倒す)大化の改新
645 〃 孝徳 上古の聖王の跡に遵い、天下をおさめる
645〃 孝徳 この年、春より夏にかけて鼠が難波に向かった。
645〃 孝徳 子代離宮 蝦蟇行宮 小郡宮 難波碕宮 味経宮 大郡宮 と移る
646 大化 二年 孝徳 大化の改新の詔、公地公民制、班田収授法 など
651 白雉 二年 孝徳 都を飛鳥から味経宮改め難波長柄豊碕宮に移す
653 白雉 四年 孝徳 中大兄皇子、間人皇后らを率いて飛鳥に移る 天皇おいてきぼり
654 白雉 五年 孝徳 この年、春一月一日、鼠が倭の都に向かって走った。
654 〃 孝徳 孝徳崩御 皇極上皇、斉明天皇として重祚
658 斉明 四年 斉明 孝徳天皇の皇子の有間皇子、謀反の罪で処刑
671 斉明 七年 斉明 斉明九州朝倉宮で崩御
663 天智 二年 天智 百済再興を目指すも白村江の海戦で大敗
667 天智 六年 天智 近江遷都 翌年天智即位
672 天武 元年 天武 壬申の乱 翌年天武即位
679 天武 八年 天武 難波に羅城(四方にめぐらす城壁)を築く
683 天武一二年 天武 複数の都を置く。まず、難波に都を造る。
686 朱鳥 元年 天武 難波の大蔵省から失火、宮室全焼。阿斗連薬の家から出火の噂
692 持統 六年 持統 親王以下の有位官人に難波大蔵の鋤を賜う
694 持統 八年 藤原京に遷都
726 神亀 三年 聖武 藤原宇合を知造難波宮事とし、難波宮再建に着手
734 天平 六年 聖武 川朝臣枚夫を造難波宮長官とする 後期難波宮の再建なる
744 天平一六年 聖武 難波宮に恭仁京から高御座、大楯を運び、皇都とさだめる
745 天平一七年 聖武 平城京遷都
752 勝宝 四年 孝謙 東大寺大仏開眼
753 勝宝 五年 孝謙 御津村の南風が大いに吹き、難民を京内に移す。
756 勝宝 八年 孝謙 難波宮行幸 東南新宮に入る
762 天平宝字六 淳仁 新造遣唐使船、難波江口で座礁 澪漂はあったのか?
784 延暦 三年 桓武 蝦蟇二万匹、難波市の南みずたまりから南下、四天王寺に入る
784 延暦 三年 桓武 難波宮の建物を解体、長岡京の造営に使用する
785 延暦 四年 桓武 淀川と神崎川を運河でつなぐ。
788 延暦 七年 桓武 摂津大夫和気清麻呂、大和川の水を西海へを計画。工事は失敗。
793 延暦一二年 桓武 難波宮を廃す。 794 平安京に遷都
以上
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