天 海 日 in 浪速の古代


5世紀の皇祖神は渡来人が持ち込んだ北方大陸系タカミムスヒ神。
                                                平21年7月 神奈備
スキタイ神話(ヘロドトス『歴史』)                      古事記・日本書紀
始祖タルギタオスは、ゼウスとポリュステネス               始祖王神武は天孫と海神の娘の子
河の娘の間の子。

子らは鋤・軛、戦斧、盃を手に入れた。                  天皇の神器:勾玉、剱、鏡。
                                         豊穣、戦争、神祇
広開土王碑・三国史記・魏志夫餘伝                    降臨し、移動する
始祖王朱蒙は天帝と河伯の女郎の間の子。
夫餘から東南下し高句麗族の上に降りて建国。             日向から大和へ向かい、建国。
天帝は解慕漱。解はxai即ち”日”。                     皇祖は高皇産霊日神。
天の神は高い神木を依代にして来臨する。                別名を高木神と言う。

加羅の首露王は、「亀旨峰」に「紫の縄の先の  くし            瓊々杵は高千穂の奇触峯に降臨。 くしふる
紅幅」くるまれた箱のなかの、六つの金色の卵
の姿で降臨した。その最初に殻から出た赤子              瓊々杵は「真床追衾」にくるまれていた。
が大駕洛の首露王となった。
その山上を蘇伐(そふり)ともいう。                     降臨地は、日向の襲の高千穂のの山峯という。

百済の建国神話
兄沸流と弟温祚が旅に出た。沸流は海浜に               五瀬命と神武が東征に出た。五瀬命は海路を
都を置き、温祚は陸地に都を置いた。海浜で               主導したが、生駒で矢傷を負い、後に戦死。
は建国できず、沸流は死に、民は陸に合流。               神武は熊野を越えて建国。

皇祖神 天照大御神と高木神(高皇産日神)
古事記
葦原中津国の平定 天照大御神の命をもちて・・・我が子天忍穂耳命の知らす国ぞ。
天孫降臨     天照大御神、高木神の命をもちて、太子天忍穂耳命に詔りたまひしく。
残り6箇所     天照大御神と高木神の連名での命令

日本書記
天孫降臨 本文 皇祖高皇産霊尊、・・、遂に皇孫瓊瓊杵尊を立てて・・主とせんと欲す。
神武東征 本文 我が天神、高皇産霊神・大日靈尊、此の豊葦原瑞穂国を挙りて・・・
天高市 本文 高皇産霊尊が大物主神にわが娘の三穂津姫を娶あわせて妻とさせた。

出雲国造神賀詞 高天の神高御魂・神魂命の二神が皇孫穂之瓊瓊杵を地上に遣わす

高木神・高皇産霊神の子孫達
大伴宿禰、齋部(忌部)宿禰、日奉連、弓削宿禰、葛木剱根、少名彦名命、饒速日尊。

日本の古い祭りの姿(石塚尊俊氏)
稲を育てる神(タカミムスヒ)と稲魂(ミケの神)を祭る。 → 天照大神と豊受大神

天皇家の重要な祭り−月次祭− 平安時代に初めて天照大神が祭られることになる。
「月次祭祝詞」
 宮中八神への感謝 御巫等祭神八座
  神産日神、高御産日神、玉積日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神
 宮中の井戸、敷地、御門、国土神、御県神等への感謝が続く。

         高御産日神 高い所においでになる万物を生み出す貴い精霊

ムスヒの神々
 紀伊熊野 熊野奇霊御木野神、熊野夫須美大神 出雲熊野 神祖熊野大神櫛御気野命
 大和 目原坐高御魂神社、宇奈太理坐高御魂神社、高天彦神社
 壱岐 高御祖神社    対馬 高御魂神社
 山城 羽束師坐高御産日神社、水度神社
 ムスヒ 火魂神 生魂神 足魂神 稚魂神 玉魂神 


       火を生み出す精霊 生命を生み出す精霊 生命を満たす精霊・・・

伊勢神宮の齋宮の記録。 弥生の日神は律令制での皇祖神として復活した。

崇神 5年 天照大神を豊鋤入姫命に託し、ヤマトの笠縫邑に祀った。

垂仁25年 天照大神を豊鋤入姫命からはなして、倭姫命に託された。伊勢国に至った時、天照大神は
伊勢国は浪のうち寄せる傍国の美しい国、この国に居たいと託宣。五十鈴川の辺に齋宮。

景行20年 五百野皇女を遣わして天照大神を祭らしむ。

雄略 1年 栲幡姫皇女、伊勢大神の祠に侍り。
    3年 栲幡姫皇女、伊勢大神の祠に侍り。姦淫妊娠の噂。五十鈴川の川上に神鏡を埋めて経死。
ささげのひめみこ 雄略天皇が皇女がいないので探した
継体 1年 507 荳角皇女、伊勢大神の祠に侍り。 →場所は大和だろう

欽明 2年 541 磐隈皇女、初め伊勢大神に侍へ祀る。後に茨城皇子に奸され解任される。
桜井駅北側の春日神社、または太田の他田坐天照御魂神社か
敏達 6年 577 日祀部を置いた。他田に置かれたと言う。三輪山の日神を祀ったものと思われる。
    7年 578 菟道皇女を以て伊勢の祠に侍らしむ。池辺皇子に奸される。事顕れて解けぬ。
    うじ
用明前期 585 酢香手姫皇女を以て伊勢神宮に遣わして齋宮として天照大神を奉らした。推古天皇の
御代に及んだ。ある本に曰く、37年間、日神の祀に奉る。聖徳太子逝去の年まで。

天武 1年 672 朝明郡の迹太川の辺で天照大神を望拝みたまふ。四日市市付近から。
    2年 673 大来皇女を天照大神宮に遣侍さむとして、泊瀬の齋宮に居らしむ。
    3年 674 大来皇女、泊瀬の齋宮より伊勢神宮へ向でたまふ。泊瀬に籠もっている間に社殿建立?
おおく
持統前期 686 大来皇女、弟の大津皇子の謀反で任を解かれる。後任の指名はない。
持統 4年 690 第一回の伊勢神宮の遷宮が行われた。滝原宮のことか。
    5年 691 持統天皇、伊勢に行くも、伊勢神宮には立ち寄ってはいない。滝原宮にも。
    6年 692 5月 御幣を、伊勢、大倭、住吉、紀伊の大神に奉らしめた。 筆頭だが平等。
閏5月 伊勢神宮の神官が、度会郡・多気郡からの赤引糸の調の免除を願い出た。
12月 新羅の調を、伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足の五者に奉納した。
   たきのひめみこ
文武 2年 698  9月 當耆皇女を遣わして齋宮とし、伊勢神宮に仕えさせた。多気大神宮のこと。
12月 多気大神宮を度合郡に遷す。→現在地への伊勢神宮の鎮座か?

疑問1 齋宮は、何故、やたら犯されるのか? 齋宮であることがいやだった恋多き姫もいたのだろう
雄略9年 凡河内直香賜と采女を胸方神に遣わし、香賜は神域で采女を犯した。 →天鈿女神の姿
舒明8年 釆女を犯した者を取り調べて、みな処罰した。   裸身顕示儀礼  夜中です

疑問2 伊勢への齋宮は本当はいつ頃からか。皇祖神でなくとの齋宮を出すのは賀茂神に例がある。
齋宮のはじめは雄略継体か天武の頃か? 雄略継体とすればそこは大和では。
                                          皇子がうろうろしていた
疑問3 後世、伊勢と言う場所に皇室が日神を祀ったのは何故か。
雄略朝で伊勢の朝日郎を討伐、支配下においた。さらに東国への進出があった。稲荷山の刀。
継体朝の基盤は北陸・尾張にあり、伊勢はその要衝にあたる重要な地。彦姫制で齋宮を派遣。
伊勢には朝熊山などへの日神の降臨伝承が残っている。元々から日神が祀られていた。
猿田彦神も伊勢の漁民の奉ずる太陽神、猿女君は仕える巫女。猿女君が朝廷へ持ち込んだ。
『伊勢国風土記』伊勢津彦は国を天孫に献上、日の如く照り輝き、東海に去った。日神。
伊勢、阿波、日向など東側に海を持つ国は海から朝日が昇る。海と天とは一体。
東への窓口伊勢・天照大神、西の要衝の宗像と神功皇后

疑問4 天照大神が高皇産日神とならんで皇祖神となったのは何故か。
『万葉集』 天照らす日女の命 天照らす神の御代より 久かたの天照る月
天照高彌牟須比命、天照御魂神、阿麻?留神と言う日神々がおり、天照大神は全てを包む。
高皇産日神は渡来系の神と認識されており、特に新羅への対抗心のため独自の神がほしい。
壬申の乱の勝利への貢献と言われるが、具体性はない。
古い上着 律令制の導入を行い、天皇家を頂点とする政治体制構築のため、伴造中心の体制を打破して
さようなら 伴造の祖神でもある高皇産日神に加え、より馴染みのある日神の天照大神を持ち込んだ。

疑問5 天武天皇は日神を天照大神と名付けたのは何故か。天照御魂神を取り込んだか。 天武の殯宮で
大海子皇子は幼少時和泉の凡海氏によって育てられた。凡海氏は尾張氏と同族。摂津説も。 壬生の事を                                                                         大海連アラカマ  
天武の日神は海洋神の日神。 天武天皇勅願寺が14寺ある内、泉州に3寺もある。
泉州を基点に難波・淡路・瀬戸内また凡海氏つながりで尾張・美濃とも結びつきを深めた。         美濃国安八郡
天武は難波に執着、難波宮の復活を行った。特に河内湖・大阪湾を照らす日神を崇めた。
即ち日下の下照姫神の神話から、日神を海照大神と命名したのかも。

疑問6 伊勢神宮と記紀
天岩戸神話の手力男は佐那神社。猿田彦は男性太陽神で伊勢志摩の漁民の神。
46.5cm 天武の頃、八咫鏡(九州平原弥生遺跡と同じ鏡が皇室に伝来)を伊勢へ、草薙剣を熱田へ。 伊勢神宮の御舟代                                                                               内径49cm
八咫鏡を伊勢神宮の御神体として持ち込んだ事は皇室の天照大神を遷座させたと言える。
八咫鏡が皇室にあったこととは弥生時代の北九州の王とのつながりをしめしている。
皇祖神である日神の依代として鏡を用いるのは卑弥呼の伝承を知っていたから。

『万葉集』167 天地の 初めの時し 久かたの 天河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひ座して
人麿の歌 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天をば 知ろしめすと
日並皇子 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と 天雲の
の殯宮 689 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし ・・・

『万葉集』162 明日香の 清御原の宮に 天の下 知ろしめしし やすみしし 我が大王 高光る
持統の歌          日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡かふ波に
日の皇子          潮気のみ 香れる国に 味凝 あやにともしき 高光る 日の御子           


692 → 伊勢の海に天武天皇の霊が漂っているよ  なつかしいなー 伊勢の海へ行こう!

『万葉集』199 去く鳥の 争ふはしに 度會の 斎ひの宮ゆ 神風に 息吹惑はし 天雲を  696年には度会に齋宮?
高市皇子殯宮 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 696


男性太陽神 高皇産日神 『古事記』の冒頭で、「独神と成り、身を隠したまひき。」と消されている。
の末路     蛭子 太陽神は一つであるべき。従ってうち棄てられた。
       猿田彦 伊勢の海でおぼれ死んだ。
       火明命 海部・尾張の氏神。天照御魂神の大半は天照大神に置き換えられた。
       饒速日尊 天皇家につかえる連の遠祖として生きながらえた。しかし裏切り者の汚名。

伊勢神宮の成立
『続日本紀』 文武2年(698)多気大神宮を度合郡に遷す。
多気大神宮とは現在の内宮の別宮の滝原宮のことであり
44haの広さを誇る。
滝原宮こそ伊勢神宮の元社であり、現在は内宮の御手
洗場の近くに鎮座。
天武天皇の皇女の大来皇女が長谷に齋宮を作り1年
以上身を清めていた。
それから伊勢に赴任した。赴任先は滝原宮。
長谷には皇大神宮の本地仏とされる長谷観音がある。
長谷観音の鎮守はやはり「滝」の名を持つ滝倉明神。

長谷は三輪山信仰の仏教版
日は泊瀬より出始也   伊勢の神と三輪の神とは同体


伝わったのか、時空を離れての同じ発想か。

福岡珍塚古墳 ↓
600年


エジプト     ↑
紀元前1300年


参考文献
『アマテラスの誕生』筑紫申真 講談社学術文庫
『アマテラスの誕生』溝口睦子 岩波新書
『日本の神々』松前健 中公新書
  『日本神話の構造』大林太良 弘文堂 inserted by FC2 system