UGA 役小角 「金の峯と葛木の峯の間に椅を度して通せ」       
役小角と一言主神と高鴨神について

1. 役小角の周辺の年表
『雄略四年紀』 天皇、葛城山に狩りに行き、一言主神とであい、共に狩りを楽しむ。
『続に本紀』 雄略天皇が狩りを競った高鴨神を土佐に配流したとの記載がある。
『役行者本記正系紐』 欽明天皇六年(634)葛城上郡茅原郷矢箱村で生まれた。御所市の茅原山・金剛寿院「吉祥草寺」の場所とされる。両親は大和国と出雲国の双方の賀茂氏で、父は高賀茂十十寸麿、母は高賀茂白専女と言う。役氏(役君)は大国主神の裔の地祇系氏族で、賀茂氏(鴨氏)から出た氏族であることから、賀茂役君とも呼ばれる。
『役行者本記正系紐』651 飛鳥元興寺の高僧から『孔雀明王経』を教授され、紀伊山地・熊野にて30年にも及ぶ山岳修行に突入する。孔雀の説くところのもので、孔雀明王を本尊として、いっさいの毒物やおそれ、なやみを滅ぼすことを念ずる呪法。
『続日本紀』巻一文武三年 699  役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛木山に住み、呪術をよく使うので有名であった。外從五位下の韓國連廣足の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言したので、流罪の罪に処せられた。世間の噂では「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、若し命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした。」といわれる。
『日本霊異記』 701 二年後の大宝元年一月に大赦があり、茅原に帰るが、同年六月七日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。
712〜720 記紀編纂。『記・紀』では味鋤高彦根尊は迦毛大御神と称えられている。つぎの記事にみるようにこの神が土佐に流されてはいないだろう。
『続日本紀』天平宝字八年(764)(淳仁天皇) 再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について賀茂朝臣田守らが次のように言上した。昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。(以前の記録にはこの事は見当らなかった。) ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祠らせた。

2.高鴨の神
 『土佐国風土記』土佐の郡。郡役所から西に四里のところに土佐の高賀茂の大社がある。その神の名を一言主尊とする。その祖ははっきりしない。一説ではその神の名を大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であるという。
 『新抄格勅符抄』806 
鴨神 八十四戸 大和国卅八戸 伯耆十八戸 出雲廿八戸
高鴨神 五十三戸 大和二戸 伊予卅戸 天平神護二年符 土佐廿戸
 高鴨神は土佐から帰ってきた神であるのは、封戸に四国の伊予・土佐の地名が見えることから推測できる。それが一言主尊であれば、そのように表示すると思われる。高鴨神とするのは、鴨神の祖神とする意味があろう。
また鴨神の封戸に出雲の地名があることから味鋤高彦根尊であることが容易に推測できる。そうすると高鴨神とは大穴持神のことと考えられる。御所市朝町に式内小社の大穴持神社が鎮座している。ウガの遠足でいきそこなった神社である。
参考 905年に編纂が開始 延喜式神名帳 大和國葛上郡の一部
葛木坐一言主神社[ヒトコトヌシ](名神大。月次相甞新甞。) 
大穴持神社[オホアナモチ]
高鴨阿治須岐託彦根命神社四座[タカゝモノ・・](並名神大。月次相甞新甞。) 

3.修験道
 役小角が大峯山において修行中、金剛蔵王権現を感得した。金剛蔵王権現、つまり蔵王権現こそが修験道の本草である。このため、蔵王山、大峰山、金剛山などの山名が全国各地に移されている。役小角を祀る行者堂が各地の神社仏閣に建てられた。
奈良県大和高田市の捨篠神社(弁天神社)や大阪市旭区の大宮神社に行者堂がおかれている。捨篠神社には役小角の母親にゆかりがある。また、高鴨神社の鎮座地の通称を捨篠と言うのも面白いがよくわからない。捨篠には武装解除の意味があると言う。
大峯山を金峯山とも言う。山上ヶ岳は女人禁制であった。登山にあたっては長期にわたる精進が必要だったとされる。
修験道は、日本古来の思想である森羅万象に神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)や巨木を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、さらには密教などの要素も加味されて確立した日本独特の宗教である。

4.吉野と葛城の間に椅を架けよ
 修験道で言うと、吉野山(金峯山寺)は大峰山の遥か南に熊野の地があり、そうとう広い神域である。神武伝承に、吉野に井光などの国つ神が登場するが、天つ神の御子を迎えるスタンスである。
 一方、葛城山(と金剛山)も、友ヶ島から亀の瀬までの葛城二十八宿に見るように広大な地域を含んでいる。法華経の経塚である。
 役小角は主に葛城山系で修行したとされるが、吉野の金峰山で蔵王権現を感得したとあれている。金剛蔵王権現である。

 葛城の場合は神武伝承では土蜘蛛や八十梟帥が反旗を翻している。吉野は体制側である。

 『日本霊異記』
 役の優婆塞は、賀茂の役の公。今の高賀茂の朝臣という者なりき。大和国葛木上郡茅原の村の人なり。(中略)役小角が鬼神に、「金の峯と葛木の峯ときき椅を度して通せ」と命じ、せきたてた。

 椅の訓は”こしかけ”である。椅はよりかかる木のことで、椅子を意味する。役小角の像は椅子の腰をかけている姿が多い。
役小角は空を自由には飛べなかっただろうが、吉野から葛城へ行くのに吉野川を渡るが、行者にとって訳もないことだったはずである。
しかし、「度して通せ」とあるので、椅子にはならない。やはりブリッジとするのが妥当のようだ。そうすると、リフトのような物をイメージしていたのかも知れない。実は腰痛、脊椎間狭窄症だったとか。

では、橋を架ける目的は何だったのだろうか。

  
 役小角は鴨氏の出である。鴨の地(葛上郡)の支配者(政治・祭祀)は五世紀頃に鴨氏から葛城氏に移っており、鴨氏としては祭祀面でも冷や飯組であった。橋を架けることで一言主神に強烈なプレッシャをかけたかったのであろうか。この地の祭祀の主導権を握ろうとしたのか。
橋を架けるという発想は、朝なら三輪山、夕なら高野山付近から葛城山を眺めた際に、虹が出ていれば、吉野から葛城に虹がかかっていることになる。これを見たのであろう。
直径10kmの虹は20km離れれば見える。

一言主神の逆襲が始まった。
文武天皇の御代に葛木山の一言主の大神が、人に乗り移って、「役優婆寒は陰謀を企て、天皇を滅ぼそうとしている」と悪口を告げた。朝廷は役小角は捕えられて、伊豆の島に流した。
二年後に朝廷の特別の赦免があって、701大宝元年正月に大和に帰ることが許された。役小角は一言主神を縛って谷の底に放置した。今に至っても(『霊異記』の書かれたとされる弘仁十三年 (822年) )もその縛めは解けないでいると言う。
役小角はついに仙人となって天に飛び去った。

700年ごろ、一言主神は実動している。土佐に流されてはいない。

                           以上
参考
『神仏習合と修験』川邉三郎助

神奈備にようこそにもどる
inserted by FC2 system