隼人と日向神話

1 隼人の国 
 
 霧島市は鹿児島湾の北側にあり、山と海と火山に囲まれた四神相応の土地である。火山活動の主なものは、約二万八千年前のアイラカルデラの噴火による火砕流が約百米のシラス台地を残している。次に六千五百年前のキカイカルデラの火山灰はアカホヤと呼ばれ、火山灰層は日本各地で縄文早期と前期の境界とされる。

2 霧島市の上野原縄文遺跡




 国内最古最大級の定住集落遺跡で国指定史跡に認定されている遺跡である。
霧島市東部の標高二百五十米の台地上にあり、約九千五百年前には定住したムラがつくられ、また約七千五百年前には儀式を行う場として、縄文時代の早い段階から多彩な文化が開花し、個性豊かな縄文文化がきずかれていた。約三千六百年前にはおとし穴をつくり、狩り場となり、約二千五百年前〜約二千年前、約千六百年前〜八百年前にかけては、再び台地上に人々が住みムラをきずいていた。また、第二次世界大戦中には軍事施設もつくられ、戦後は畑として広く利用されていた。


桜島と上野原遺跡



○約九千年前(縄文時代早期前葉) 国指定史跡
定住化初期の大集落
上野原台地の北側には、二条の道筋に沿った五十二軒の竪穴住居群を中心に、三十九基の集石や十六基の連穴土坑などの調理施設をもった集落(ムラ)が発見された。南九州地域における定住化初期の様子を知る大集落といえる。
なお、これらの住居の中には住居が重なり合っていることや、埋まり方に違いがみられることから、建てられた時期に差があり、ムラは長期間にわたって営まれていたことがわかった。

○約七千五百年前(縄文時代早期後葉) 国重要文化財
まつり・儀式の場
上野原遺跡で出土した遺物台地南側の最も高い所にはひとつの穴に丸と四角の口をもつ二
個の壺型土器が完全な形で埋めてあった。
 また、その周りには壺型土器や鉢形土器を埋めた十一か所の土器埋納遺構と石斧を数本まとめて埋めた石斧埋納遺構が見つかり、さらに、これらを取り囲むように、日常使用した多くの石器や割られた土器などが、置かれた状態で出土している。
 特筆すべきは、中期や後期に出土する土偶や耳たぶの穴にはめる耳飾りの耳栓が早期土壌から出土している。。

○約六千年前(縄文時代前期)
この時期の住居跡は発見されてはいないが、台地の南側ではおとし穴と集石遺構がみつかり、一時的な狩り場や調理の場と思われる。

○約三千六百年前(縄文時代後期)

台地南側の斜面に近い場所からは、深さ二米から三米のおとし穴が長さ約四百米、東西方向に二列ならんでみつかり集団で動物を追い込む狩り場と思われる。

○約二千五百年前(縄文時代晩期)

貯蔵穴台地の北側がおもな生活の場で、竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが発見された。建物の周辺にはドングリなどが入った「貯蔵穴」があり、森からの恵みを受けていた。

○約二千年前(弥生時代中期〜後期)

環状遺構台地北側には、東西約五百米の範囲にムラが営まれ、竪穴住居跡五軒や掘立柱建物跡二棟、長さ百米の柵列も発見された。またイネの植物の痕跡やモモの種も見つかっている。

○約千六百年前(古墳時代〜現代)

空から見た上野原遺跡古墳時代は竪穴住居跡一軒、中世は掘立柱建物跡八軒、第二次世界大戦の探照灯跡が発見され、戦後はイモなどの耕作地になっていた。

3 南の縄文文化
 縄文文化は「北から」という常識は、この発見で覆された。縄文早期に、既に土偶や耳栓が出ているのは、高度な精神文化を持っていた社会が実現していたことを示していると言えよう。
 
 紀でニニギ尊の印象として「膂宍之空國:そししのむなくにを従来はやせた土地と解釈されていたが、そししとは獣の背の肉でそこからむねにかけての肉は、しもふりで甘い肉であり、豊穣の土地と言う褒め言葉である」と表現された南九州だからこそ、これほどの縄文文化が花開いていたのである。海の幸、山の幸に恵まれた土地柄だった。皇祖が住んでいた土地であっても、何ら不思議ではない。

この遺跡から桜島を見て、180度目をかえすと、高千穂峯が見える。古代の人々にとっても、神の降臨するに相応しい山容と見えたであろうとは、『古事記の真実』長谷部出雄著 に記してある。

4 天孫降臨神話
 これらの神話を日向神話と言う。和銅六年(713)に、日向国から大隅国を分離、そのまえ仁薩摩国を分離しており、日向神話と言えども、宮崎県の神話ではない。

 天照大御神の太子(ヒツギノミコ)正勝吾勝勝速日(マサカツアカツカチハヤヒ)天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコトに天火明命と天邇岐志国邇岐志(アメニキシクニニキシ)天津日高(アマツヒコ)日子番能(ヒコホノ)邇邇芸命(ニニギノミコト)、が生まれたので邇邇芸命を天降りさせた。

 竺紫(ツクシ)の日向(ヒムカ)の高千穂のくじふるたけに天(アマ)降(クダ)った。、「此地(ココ)は韓国(カラクニ)に向ひ、笠沙(カササ)の御前(ミサキ)に真来(マキ)通(トホ)りて、朝日の直(タダ)さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此地(ココ)は、いと吉(ヨ)き地(トコロ)」と詔(ノ)りたまひた。

 降臨の地とされる高千穂峯は霧島山のこととされ、その北側に韓国岳がある。


韓国岳から眺めた高千穂峯、遠くは鹿児島椀



 霧島山とは関係のなさそうな笠沙岬とは、現在の野間岬のことで、薩摩半島の南西端の突起部である。ここから北へ行けば、五島列島から壱岐対馬朝鮮とつながり、西に行けば揚子江の河口、南は奄美、沖縄から先島諸島・台湾・華南・インドシナにつながる。まさに、東シナ海に設けた情報センターである。隼人に多くの神話が残されているのも頷ける話である。


野間岬




 邇邇芸命は呉の太伯の末裔が揚子江から渡来してきたのかも知れない。

 野間岬の近くに野間岳があり山麓に野間神社があり、東宮には瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命が祀られており、西宮には娘媽(のうま)神が祀られている。この神は大陸と台湾では有名な航海安全の女神である。伝承によると福建省に住む漁夫林氏の六女は神術を持って溺者を救い、物事全てに百発百中の霊感を備えていたので神の再来と崇められた。死後、人々は水上守護の神として尊崇したのである。天后、天上聖母、娘媽、媽祖とも称された。九州野間の伝承では、水死した娘媽の遺体が流れ着いたのでこれを祀ったと伝わっている。

 邇邇芸能命は大山津見神(オホヤマツミノカミ)の女(ムスメ)、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、亦の名は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)を見初めた。大山津見神は姉の、石長比売と共に、差し出した。邇邇芸能命は木花之佐久夜毘売を留めて、一宿(ヒトヨ)婚(マグハヒ)したまひき。しかし石長比売は醜いのでを返した。
大山津見神は石長比売を娶っておれば、寿命が長かったろうに、木花之佐久夜毘売だけなので、木の花の咲くように栄えるだろうが、寿命は短くなると教えた。

 木花之佐久夜毘売と石長比売の神話の筋は、インドネシアからニューギニアにかけて分布しているバナナと石に代表される神話に似ていることが、大林太良『日本神話の起源』で述べられている。

 セレベスの神話 人間は創造神が天から垂し下ろす贈物で命をつないでいた。ある日、神は石を下ろした。祖先は「この石をどうしてしていいのか。何か外の物を下さい」。」と叫んだ。神は石を引き上げてバナナを下ろして来た。祖先はバナナを食べた。そこで、神は、「おまえ達はバナナを選んだから、おまえ達の寿命はバナナの木のようになるだろう。」と言った。さらに、「バナナの木は子供を持つときには、親の木は死んでしまう。おまえ達が石を選んでいたら、石の生命のようにおまえ達も不老不死であったのに。」と言った。

 スマトラの神話 ある存在が天から下ろされ、彼は一ヶ月は断食をしなくてはならなかったが、空腹に耐えかねてバナナを食べた。彼はバナナのかわりに河蟹を選んで折れば、人間の寿命は蟹のように脱皮できた死なない体を手に入れただろう。

 この神話は南洋だけではなく、北海道沙流アイヌの伝承にもある。
国造の神が始めて人間を造るとき、何で造るかを雀を使って天神に尋ねた。天神は「木で造るべし。」と言ったが、これを後悔して、石で堅固につくるに越したことはないと考え、神意を獺に伝え、急いで下界に通じさせた。所が使命を忘れた獺は魚が多くいる渕にさしかかり、追いかけるのに夢中になり、遅くなって神意が伝わらず、人間は木で造られたので、誰も不朽の命を保つ人はいなくなった。天神は怒って獺の顔を踏みつけた。

 隼人の人々に、バナナや木の伝承が伝わってから、どの位の時間経過があったのか、また隼人の神話が『古事記』の関係者にどのような形で伝わったのかは、不明であるが、女神の名を木花之佐久夜毘売と言う美しい名にした感覚はすばらしいものと思う。


5 木花之佐久夜毘売の火中出産
 一夜で妊娠したヒメはニニギに純潔を疑われたので、生まれる子が国津神の子ではなく、天津神の子であることを立証するため、戸のない八尋殿に入り、土を以て塗り塞いで、出産時にその殿に火をつけて、三人の御子を生んだ。、
 火照命(ホデリノミコト)、こは隼人(ハヤト)阿多君(アタノキミ)の祖(オヤ)なり。海幸彦である。
 次に生みし子の名は、火須勢理命(ホスセリノミコト)。 
 次に生みし子の名は、火遠理命(ホヲリノミコト)、亦の名は天津日高(アマツヒコ)日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト)。山幸彦である。
 火中出産で生まれたのが隼人の祖ということは、この伝承も隼人の伝承であった。
 出産後に産婦の近くで火をおこすのはフィリッピンやボルネオの少数民族の習俗として分布している。沖縄では産婦焼きとと言う。続いて失った釣り針になるが、この神話は太平洋の島々に全体的に分布している。特にミクロネシアやインドネシアの話がよく似ている。

6 皇室の祖先が隼人と兄弟   
 記紀編纂の頃は王権と隼人との関係は不安定であった。隼人に花を持たせるべく、皇祖と隼人の祖を兄弟に位置づけ、懐柔を図ったとの見解がある。このような目先の事で、皇祖と隼人とを兄弟としただろうか。そうではなく、皇祖は南九州の出身で、初代天皇はそこから大和にやって来たとの伝承が語られていたのだろう。

皇統譜
天照大神―天忍穂耳命―火 明 命                        ―五瀬命
              ―番能邇邇芸命―火 照 命              ―稲氷命
                        ―火須勢理命             ―御毛沼命
                        ―火 遠 命(穂穂手見命)―ウガヤー神武天皇


 神武天皇の名前は『紀 本文』では諱を彦火火出見としている。これは火遠命と同名である。天照大神の次からの皇祖の名は稲作に関係している。おかしいのはウガヤフキアエズの名で、これは稲作とは無関係の名だが、「産屋の屋根を全部葺かない」という伝承があったようで、これを皇統にいれようとしたが、火遠命の名前と神武の本名が残っており、火遠命と―ウガヤとは大朝臣安萬侶と稗田阿禮の挿入だったのかも知れない。神武天皇は邇邇芸命の子だったと見ることができる。安萬侶と阿禮は隼人に伝わっていた伝承を多く集めたのであろう。皇祖の遠き時代の古里の伝承と、皇統譜を組み合わせて古事記の物語を書き上げたと考えられる。その時代の超一流の知識人だったのだろう。南九州を歩いたのかも知れない。

 『古事記』には、神武天皇が大和を征服した際、邇藝速日命が追いかけて来て、神武に恭順を示している。邇藝速日(天火明)が邇邇芸命の兄弟であれば、神武の叔父さんに当たり、時間的に整合する。


7 三替統合の精華 田中卓翁の説の紹介
 翁の日本国家成立論の要旨
A ヤマト朝廷は神武の創業以来、時に盛衰があっても中心に皇室をいただき、一貫して発展してきた政権である。
B 皇室はもともと北九州(筑後川下流付近)に発生し、恐らく一世紀の前後に畿内に進出してきた勢力と考えられる。
C その場合、当然ヤマト朝廷成立以前における畿内氏族の動向が問題になるが、それを畿内土着の氏族(後の三輪氏等の"モノ神系")と九州より先発の東進氏族(後の出雲氏、物部・尾張氏の"日神系")とに分析して降替推移を考えたこと。
D 九州におけるヤマト朝廷発祥の地を<原ヤマト国>又は<ウル邪馬台国>と仮称し、邪馬台国をその後身と考えることによって三世紀における<畿内のヤマト朝廷>と<九州の邪馬台国>との関係を合理的に説明したこと。

 翁は九州より畿内への進発の氏族として
 イ 後の出雲氏
 ロ 後の物部・尾張氏
 ハ 皇室の勢力  を見ている。

 出雲氏は古代に於いては出雲国を中心に、山陰や北陸方面にも勢力を伸ばしていたが、もともとの本拠は北九州であり、日神系であり、祖神を天穂日命とする。神統譜では天照大神の御子となっているが、天孫族の一人と見ている。天穂日を祖神とする出雲氏は大和土着の三輪氏と連携協力し、畿内のかなり広い範囲に勢力を広げた。熊野や山城に出雲地名や神社名が残っている。大和における出雲氏の本拠は大己貴命を祀る三輪山付近と思われる。


 神奈備注 三輪山の南側に桜井市出雲と言う場所があり、その北側にダンノダイラと言う元出雲とされる場所があり、大きい磐座があり、今も祀られている。

ダンノダイラの磐座



 また、この考えの前提には、『記・紀』の神代巻での天穂日命の天降りの物語があり、結局使命は失敗に終わるというか、大国主神に媚び付き、三年間、復命しなかったとある。出雲氏が祀ったのは、大国主神になっているということである。

 次に東遷したのは、饒速日命である。物部・尾張氏の祖である。 『古事記』では、神武東征の際、那賀須泥毘古が先に大和にいて抵抗する話になっている。『天孫本紀』には、饒速日尊は天磐船に乗り、まぜ河内国河上哮峯に天降り、それから大倭国鳥見白庭山に天降ったとしている。饒速日尊は長髄彦の妹の御炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を誕生させている。饒速日尊の降臨の伴として三十二人の名がある。その六番目に天道根命の名がある。この天道根命については、『紀伊国造家譜』に次のような所伝がある。


A 日前国懸両大神宮が天降りました時に、天道根命は、従臣として仕え始めた。
(神武天皇が二種の神宝を天道根命に授け、奉戴せしめたこと。) 間違って挿入された文章である。 B 天道根命は二種の神宝を奉戴し、紀伊国名草郡毛見郷に到り、琴浦の地に奉安した。
C 神武東征の時、両大社の神徳によって群虜を平定し、その賞として、天道根命に紀伊国を賜い、国造に補せられてより、両大神に奉仕したこと。

 日前国懸神宮の鏡についての解釈はいくつかある。
天照大神のよりしろとなる鏡は二種あって、一つは伊勢神宮の鏡で天懸神、二つ目は日前神(国懸神)である。
 日前神の鏡は最初に鋳られたもので、少し意に会わないもので、「天照大神の前の御霊」である。
 日前国懸神宮の所伝では、初度に鋳る鏡を日前大神とし、日矛を国懸大神とする。
 『天孫本紀』と『紀伊国造家譜』を考え会わせれば、日前神とは饒速日尊のよりしろの鏡のことと理解できる。饒速日尊は天火明命のことであり、邇邇芸命の兄であるので、天孫族である。大和に降臨した際、出雲氏は山城・丹波を経由して出雲地方に落ち延びていったのである。、

 饒速日尊は物部氏尾張氏の遠祖であり、この両氏は天皇の親衛隊として活躍することになる。その饒速日尊に供奉し、紀伊国の平定に力のあった天道根命を初代紀伊国造に任じ、日前国懸神宮の祭祀を続けさせた。
 奈良時代の中頃には神社に神階があたえられたが、伊勢神宮と日前国懸神宮は神階を与えようがなかったのは、天孫族の祖を祭祀しているからと思われる。

 また、神武以前の二王権をささえた出雲氏と紀伊氏には国造制が廃止された後も国造を継続した。出雲国造神賀詞が国造の交代の際に、朝廷で読み上げられたが、紀伊国にもあったのではないか。残念乍残っていない。服属の儀礼であるが、名誉なことでもある。

参考書
  隼人の古代史  中村明蔵  平凡社新書
日本神話の起源  大林太良  角川新書
日本の建国史ー三替統合の精華ー 田中卓 國民會舘叢書  

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system