ウガネット 生駒 

              
                             
1.住吉の神の足跡


『日本書紀 斉明紀』元年夏五月の記事。
空中で竜に乗る唐人に似た者がいて、青い油の笠を着て、葛城嶺より馳せて肝駒山に隠れ、午の時に、住吉の松嶺の上から西に向かって飛び去って行った。

 住吉大社の鎮座地は長岡の前とあり、微高地であり、松嶺と呼ばれていたのだろう。

 これに似た話が、『住吉大社神代記』(以下、『神代記』と略す。)に、住吉大神が昔鎮座していた山を巡る話として記載されている。
 以前。大神、所顕坐(あれまし)処、并(なら)びに御名を注顕(しる)すこと右の如し。
右、大神、飛鳥の板盖(いたぶきの)宮に御宇(あめのしたしろしめ)しし天皇の御世の始に、夏五月庚午、宣り賜はく。「吾が山を巡検(めぐりみ)賜む。」と宣り賜ひて、即ち御馬に乗り賜ひ、油笠を着賜ひて、兄乃山より葛城嶺・膽駒山に馳せ到り賜ひて、午時を以て住吉に馳せ還り御坐(いま)して、御飯酒を聞食(きこしめ)す。(以下略)

 住吉の神は先ず、紀伊国伊都郡の背の山(畿内の南限)に現れ、葛城・生駒を経由して現在地に鎮座したようである。神功皇后の大和への足跡を示しているのかも知れない。
ここでは、生駒から直に住吉へ駈けていることに注意。



2.『神代記』から「膽駒・神南備山の本記」の紹介。

四至 東を限る。膽駒川・龍田公田。(生駒川、竜田大社付近)
   南を限る。賀志支利坂・山門川・白木坂・江比墓。(不詳 大和川 不詳 不詳)
   西を限る。母木里公田・鳥坂に至る。(枚岡神社付近 高井田)
   北を限る。饒速日山。(生駒山の北にそばだっている山)

生駒山系


 右、山の本記とは、昔、大神の本誓(みうけひ)に依り、寄(よ)さし奉る所、巻向の玉木の宮に御宇(あめのしたしろしめ)す天皐(垂仁)・橿日宮に御宇しし天皇(仲哀)なり。熊襲國・新羅國・辛嶋(宇佐八幡の鎮座地か)を服(まつろ)はしめ賜ひ、長柄泊より膽駒嶺に登り賜ひて宣(の)り賜はく。「我が山の木實・土毛土産(くにつもの)等をもて齋祀らば、天皇が天の下を平けく守り奉らむ。若し荒振る梟者(ものども)あらば、刃に血・ぬらずして挙足(けころし)てむ。」と宣り賜ふ。

 大八嶋國の天の下に日神を出し奉るは船木の遠祖(とほつみおや 天手力男神の後裔 伊勢船木は神八井耳命)大田田神なり。この神の造作(つく)れる竺船二艘(一艘は木作り。一艘は石作り。)を以て、 後代の驗(しるし)の為に、膽駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝(さきくさの)墓に木船を納め置く。
 唐國に大神の通ひ渡り賜ふ時、乎理波足尼(をりはのすくね)命この山の坂木を以て迹驚岡(とどろきのをか)の神を岡に降ろし坐(まさ)して齋祀る。時に恩智(おむちの)神、参り坐(ましま)す。仍(かれ)毎年の春秋に墨江(すみのゑ)に通ひ参ります。これに因り、猿の往來絶えざるは、此れ其の驗なり。母木里と高安國との堺に諍石(いさめいし)在置り。大神、此の山に久(かた)く誓ひ賜ひて、「草焼く火あり、木は朽ちるとも、石は久遠(とは)に期(ちぎ)らむ。」とのたまひき。

 住吉大神に生駒山を神奈備としたのは、垂仁天皇(景行天皇との説あり。)・仲哀天皇の二代の天皇で、熊襲國・新羅國・辛嶋を服従させて帰国、長柄泊から生駒山へ登って献上を宣言した。
 この山の木実や収穫物をもって祭ると、天皇が国を平定し、もし乱すものがおれば、蹴り殺してくれる。
 倭国に日神を出すのは船木の遠祖の大田田神である。この神が造った二隻の船は生駒の長屋王の墓の側に石船を、白木坂の三枝(さきくさの)墓(聖徳太子の御子の三枝王か)に木船を納めてある。
 カラクニに大神が渡られた時に、乎理波足尼命(神主津守氏の祖)は生駒山の榊を以て迹驚岡(福岡の住吉神社)の神を降ろし祭った。時に恩地の神(八尾の恩地神社)がやって来て鎮座した。毎年の春と秋に墨江に通う。これにより猿の往来が途絶えた(猿楽の交流か)のはその印である。母木里と高安國との間に諍石(いさめいし)がある。大神はこの山に堅く誓って、「草焼く火あり、木は朽ちるとも、石は久遠(とは)に期(ちぎ)らむ。」と云われた。原田修氏は、東大阪市と八尾市とのほぼ境界を頂上に延長した所にある巨石群の三間石山巨石遺構(奈良県生駒郡平群町櫟原字三石)と見ておられる。

 さて、住吉の神々が生駒山を神奈備山としていたと云う物語であるが、現在の住吉大社の位置から見れば、真東は高安山や信貴山であり、生駒山系の南端に当たる。生駒山最高峰を真東とするのは大阪城付近である。有力な式内社としては、坐摩さんや生魂さんである。
 この内、坐摩さんについては、『神代記』に、以下のように書かれている。

 猪加志利乃神ゐかしりの)神。、二前。一名爲婆天利(ゐばてりの)神、(元、大神居坐(ましまし)て、唐飯所聞食(からいひきこしめ)しける地(ところ)なり。
 右大神は、難波の高津の宮に御宇天皇(仁徳天皇)の御世、天皇の子、波多毘若郎女(はたびのわかいらつめ)の御夢に喩覺(さと)し奉らく、「吾は住吉大神の御魂ぞ。」と爲婆天利神または猪加志利之神と号(まお)す。」託(かみかか)り給ひき。仍(かれ)、神主に津守宿禰を齋祀いつきまつ)らしめ、祝(はふり)に爲加志利の津守連等を奉仕(つかへまつ)らしむ。充(あ)て奉る神戸二烟。神田七段百四十四歩。即ち西成郡に在り。

 イカシリの神とは、住吉大神の御魂であると宣言されている。
別に坐摩神は生駒山中に鎮座していたとの伝承があるが、『神代記』からも納得できる伝承のようだ。この神社は現在は船場の一角に鎮座しているが、大川沿いにお旅所があり、元の社地を示している。大坂城築城に際し、遷座した。
 お旅所には神功皇后が腰を下ろして食事をしたとされる石がある。磐座となっている。
 『神代記』は、仁徳天皇の頃の住吉大神は八軒屋の近くに出現していたことになる


 どうやら、神功皇后の足跡と住吉大神の足跡は同じであったと見える。皇后は依り代であったと思われる。

 坐摩神社から、寒い季節の夕暮れに、真東は饒速日山で、その南側のほ生駒山頂に縦に三つの星が登ってくる。オリオン座の三ツ星であり、カラスキの三つ星であり、これぞ住吉三神である。


3.住吉三神の住吉への鎮座三題

『日本書紀』 神功皇后元年
 表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて曰く。吾が和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峽(ながを)に居さしむべし。そうすると徃來する船を見守ることができる。そこで、神の教えのままに鎭坐していただいた。

『摂津国風土記』逸文 釈日本紀六
 住吉と稱ふ所以は、昔、息長足比賣の御世、住吉の大神が出現なされて、天の下を巡り行き、住むべき國を探し求められた。時に沼名椋の長岡の前においでになった。「こはまことに住み良き土地だ。」と仰せられたて、「真に住み良し、住吉國なり」と讃えられた。
 
『神代記』
 亦、表筒男、中筒男、底筒男の三軍神、誨へて曰はく、「吾が和魂(にぎみたま)は宣く大御榮(おほみさかえ)の大津の渟中倉(ぬなくら)の長岡(ながおかの)峡(を)の國に居さしむべし。便(すなは)ち往來(ゆきかふ)船を看護(みそなは)さむ。 因(かれ)則ち手槎足尼(たもみのすくね)を以て祭拝(いはひまつ)らしむ。難破(なには)の長柄(ながら)に泊(とまり)賜ふ。膽駒山の嶺に登り座(いま)す時、甘南備山を寄さし奉る。大神、重(また)宣(の)りたまはく、「吾の住居(すま)はむと欲(おも)ふ地は、渟名椋の長岡の玉出の峡(を)ぞと。(中略)時に進みて手槎足尼の啓(まを)さく、「今大神の願ひ賜ふ随(まにま)に己が家舎地(いへところ)等を以て、大神に寄さし奉らむ。」とまをして已(こと)了(をへ)き。即、大神の住み賜ふこと御意(みこころ)の如くなるに因りて、住吉(すみのえ)の國と名を改め号(まを)し、大社を定めたまひき。(中略)時に皇后、「吾に代りて齋祀奉(いつきいはひまつ)らしむるに、手槎足尼を神主となせ。」と勅(のら)し賜ふ。

『船木等本記』 筑紫より難波の長柄に依り坐して、大神、御言を以て宣たまはく、「吾は玉野國なる大垂海(おおたるみ)・小垂海(等(こたるみたち)に祀所拝(いつきまつ)られむ。」と宣りたまひて、膽駒の嶺に結行(いでま)しき。即、是の人等(たち)を奉仕(つかへまつ)らしめ給ひて、大御社に奉れるなり。

 鎮座地は、大津の渟名椋の長岡の玉出の峡と形容される地である。この意味は、「港に面した聖地の長い岡の美しい尾根」と解釈できる場所で、本居宣長が摂津国菟原郡住吉郷とした。元住吉神社の地である。ここから現在地に移転したとしている。しかしここでは生駒山との関連が見えぬくい。宣長は『神代記』を見ていないので、やもうえない。
 山根徳太郎氏は渟名椋を立派な倉庫と解して、難波津に求めたが、渟名椋とは神の鎮まる聖なる場所と見る方が一般的である。長い岡とは上町台地のことで、現在地はその付け根に当たり、坐摩神社お旅所はその先端に当たる。

 神功皇后の時代すなわち三世紀末の頃は社(ヤシロ)とされる建物は造られなかった。祭る際は瑞籬ヒモロギ)を作り、そこへ神を招いて祭りを行う形式だったと思われる。普段は住吉大神は神奈備である生駒山におられたのである。恒久的な 神社建築ができてきたのは七世紀あたりからと思われる。

 上賀茂神社では現在でも北2kmの神山にいる神を呼ぶ神事が行われているが、一方では常駐する神ともされている。それ以前は本殿の後ろは開いており、本殿前から神山を拝めるようになっていた。今は開いていない。住吉大社の本殿も西を向いているが、これは海路を見守っていると云うよりは、生駒山に居る神々を拝むように配置されているのかも知れない。

 『神代記』は生駒山への強いこだわりと云うか、愛着を持って書かれている。
 生駒山は、古代王権の大舞台である瀬戸内海と河内と大和を眺められる山で、かつ河内と大和を隔てる壁でもあった。

以上

『住吉大社神代記の研究』 田中卓
日本の神々3』 摂津河内和泉淡路 谷川健一編
HP『いこまかなびの杜』 原田修
『日本書記』、『風土記』等


神奈備にようこそ
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