大化時代、ヤマト国中には倭国造と葛城国造がいました。葛城国造の支配範囲は、曽我川以西で二上山・葛城山・金剛山の麓までと推定できます。国中の南西部です。葛城氏が力を持ったのは、河内王権の成立と期を一にしていました。元々、この地域を支配していたのは鴨氏でした。 葛城地域では鴨氏の勢力が衰え、地域の南部で、高鴨神社を中心―とした地域に逼塞したのでしょう。替わってこの地域を押さえたのが葛城氏です。政権交代によるこのような現象は各地でおこり、紀伊では紀氏など武内宿禰の後裔氏族とされる氏族が勝ち組になりました。 さて、応神天皇と仁徳天皇が同一人物であるとか、成務・仲哀天皇はいなかったとか、怪説奇説が横行しているようですが、考古学は。「記紀を裏切らない。」ことを示しましょう。 仁徳帝の祖母は神功皇后です。皇后の母は葛城高額比賣命といい、高額は香芝市畑の旧名です。葛城の娘です。 葛城曽津彦は武内宿禰の子の一人です。 『古事記』によると、応神天皇は妃に葛城曾津彦の妹の野伊呂売りを娶っていますが、位置づけは末席のようです。応神の皇后は誉田真中王の娘の仲姫、入り婿だったようで、誉田家が大王家となったのでしょう。仲姫は大雀命(仁徳帝)の母です。 仁徳天皇は葛城曾津彦の娘の磐之姫を皇后としました。葛城氏が王権を支える重要な氏族に成長してきのです。 葛城曾津彦の働きを見ながら、葛城氏を見ていきます。白村江の戦いの頃、亡びた百済の亡命者が記したとされる『百済記』に、沙至比跪と云う人物が出てきます。曾津彦同一人物のようです。 『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曾津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのき)を攻め落として捕虜を連れ帰りました。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。
場所は、桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。 『日本書紀』神功六二年 新羅が朝貢しなかったので葛城曾津彦を派遣して討たせたとあります。 『紀』応神十四年 弓月君の来日を新羅が妨害していたので、葛城曾津彦を救援に派遣し、弓月君らを加羅国に入れることが出来ました。 『紀』の年代を当てはめると、襲津彦は八十年以上も活躍していることになり、さすが長寿を誇る武内宿禰の子息と言いたい所ですが、神功皇后など、長寿すぎますので、年代がおかしいのでしょう。『紀』仁徳天皇の治世について、仁徳天皇は在任八十七年に亡くなりますが、善政を敷いたので治世二十余年無事であったと書かれています。計算すると暦は一年で四年経つようです。 襲津彦の娘であり、仁徳天皇の皇后である磐之姫は嫉妬深い女で有名になりました。姫の留守中に仁徳はかねてから想いを寄せていた八田皇女を宮中に入れたのを怒って、高津宮に帰らず、そのまま淀川を遡って、山背の百済系渡来人の奴理能美の家を筒城宮として留まりました、ある日、那羅山から故郷を望んで歌いました。 磐之姫は仁徳天皇を許すことなく、筒城宮で亡くなりました。那羅山に葬られたとあります。、『延喜式』には、佐紀楯列のヒシャゲ古墳とされています。 奴理能美は、三色に変化する不思議な虫・蚕を飼育していたとあり、絹の高級織物を織る集団でした。葛城氏はこの集団と関係が深かったのでしょう。『新撰姓氏録』には、奴理能美の後裔氏族として、調連、民首、水海運、調曰佐の名を記しています。調曰佐は紀朝臣と同祖であり、対外交渉での通訳の仕事をしていたとされています。 五世紀初頭の出来事であった高句麗好太王の碑に記されている倭軍との戦いには、葛城曾都彦の働きがあったのでしょう。この事が葛城氏が天皇家を支える重要な氏族に押し上げたものと思われます。曾都彦の妹を応神天皇の妃に入れたのもこの頃でしょう。 磐之姫の話に戻しますが、筒城宮は息長氏の拠点でもあり、ここでも葛城氏と息長氏との親密さが窺えます。磐之姫が生んだ皇子は、履中天皇、住吉中皇子・反正天皇・允恭天皇とされていますが、允恭天皇については疑問があります。それは倭の五王が南宋へ遣いを出しますが、その名と繋がりが南宋の資料と記紀では違うのです。 『宋書』 同時代資料 『記紀』 150年後の資料から ┏倭王讃 ┏履中(讃) となって、允恭(倭王済)が履中・反正と兄弟ではない表示になっています。『宋書』では、「珍の場合は讃死して弟珍立つ。」「倭王済使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。」とあり、済の場合のみ先代との繋がりが書かれていません。 履中天皇の就任前に葛城の葦田宿禰の娘の黒姫を娶ろうとして、使いに弟である住吉中皇子を差し向けましたが、皇子は偽って兄になりすまして黒姫を犯したのです。葛城の姫の争奪戦でということでしょう。皇位につこうとすれば、葛城の姫を娶るのは近道であったようです。住吉中皇子は履中を殺そうとして、結局は逆に殺されてしまいます。
雄略天皇も葛城の円大臣の娘の韓姫を娶って、清寧天皇を生ませています。このように、葛城の姫を娶ることは、皇位への有力な力になっていたのでしょう。 葛城氏の権力基盤は娘を入内させることではなく、このことは後からそうなったのであって、先ず、半島での葛城曾都彦の活躍があったのです。水運・海運の力です。軍事力―兵士の動員力―は天皇家の仕事だったのでしょう。水運・海運と云えば、紀氏の得意分野であり、吉野川紀ノ川を共に利用する関係にあったのです。葛城の地は奈良盆地の一角であり、水運・海運については紀氏などの親しい豪族の力を利用していたのでしょう。和歌山県御坊市に塩屋地名があます。塩屋連は葛城曾都彦の後であり、紀州と葛城氏の繋がりがかいま見えます。 大和川の水運は、河内に出る手前に流れが急で岩礁も多い亀の瀬渓谷は舟での航行は難しいので陸路を利用し、それ以外の流れを水運で利用していたのでしょう。摂河泉に葛城曾都彦の後裔とする布忍首や布帥臣など多くが分布していたようです。 水越峠を越えての往来も含めて河内繋がりがあったのです。 仁徳天皇が生まれた日に産屋にミミズクが飛び込んできました。同じ日に武内宿禰の家でも子が生まれ、産屋にミソサザイが飛び込みました。これは瑞兆として、鳥の名を交換して子の名前にしました。仁徳天皇はオホササキが正式名ですが、通称ミソサザイだったのでしょう。亡くなる20年前(実際は 5年前)に石津原に出かけて陵地をきめました。造営が始まった際、ミソサザイの陵と呼んでいたのでしょう。これが、現在の上石津ミサンザイ陵とよばれている古墳となりました。初代のミサンザイ陵です。履中陵とされていますが、5世紀前半の古墳です。仁徳陵とされている大仙陵よは五世紀前半から半ばの古墳ですからこれが本当の履中陵でしょう。
葛城氏の遺跡 極楽寺ヒビキ遺跡 金剛山東麓の扇状地にある高台の遺跡です。楼閣を思わせる高層建築物があり、柱間は五間x五間、面積220平方メートルの巨大な掘っ建て柱建物で、どうやら火災の跡があるようです。葛城円大臣が焼き殺されたと伝えられており、彼の居館と見ることができます。安康天皇暗殺の眉輪王をかくまったことで雄略天皇に眉輪王ともども攻め滅ぼされました。 南郷大東遺跡 全長12mの貯水池に貯めた水を3本の木樋を通して一辺4mの覆屋と一辺5mの垣根があり、中を窺えないようにしていると思われます。実用的ではないこの装置は祭祀に利用されたと推測されています。夜間に覆屋の中で水を汲み上げるような儀式が行われていたと推測されています。 参考文献 『謎の豪族葛城氏』平林章仁 『古代葛城とヤマト政権』御所市教育委員会 |