Uganet 仁徳天皇と葛城

 大化時代、ヤマト国中には倭国造と葛城国造がいました。葛城国造の支配範囲は、曽我川以西で二上山・葛城山・金剛山の麓までと推定できます。国中の南西部です。葛城氏が力を持ったのは、河内王権の成立と期を一にしていました。元々、この地域を支配していたのは鴨氏でした。
 一方、倭国造の支配地域は国中東部でした。
 葛城地域を代表する神は事代主神です。倭を代表する神は大物主神と言えましょう。 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二(国譲り)に、 「大物主神と事代主神は、八十萬神を天高市に集めて、この神々を率いて天に昇って、その誠の心を披瀝された。」とあります。塚口義信先生は、これを河内王権がヤマト王権を屈服させた歴史を神話として記述したものと説明しています。

 葛城地域では鴨氏の勢力が衰え、地域の南部で、高鴨神社を中心―とした地域に逼塞したのでしょう。替わってこの地域を押さえたのが葛城氏です。政権交代によるこのような現象は各地でおこり、紀伊では紀氏など武内宿禰の後裔氏族とされる氏族が勝ち組になりました。

 さて、応神天皇と仁徳天皇が同一人物であるとか、成務・仲哀天皇はいなかったとか、怪説奇説が横行しているようですが、考古学は。「記紀を裏切らない。」ことを示しましょう。
 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌された文字に上祖意富比肩から乎獲居臣までの八代の系譜が刻まれており、代々、杖刀人として仕えたとありました。乎獲居臣は獲加多支鹵(ワカタケル:雄略)大王に仕えてから埼玉へ帰って太刀を作ったのでしょう。上祖意富比肩とは第八代孝元天皇の皇子の大彦に当たります。この家族で八世代に渡りf記録されています。天皇は十五人になりますが、雄略天皇まで八代としますと、仲哀―応神―仁徳―履中―反正―允恭―安康―雄略となります。世代数では五世代になります。地方豪族ですら八代の祖先名を記録しています。ましてや大王家ではどうでしょう。きちっと伝えられており、『天皇紀(帝紀)』に記されたものと思われます。応神と仁徳とは明確にかき分けられています。おそらく成務天皇も十分記録の中に存在していたのでしょう。

 仁徳帝の祖母は神功皇后です。皇后の母は葛城高額比賣命といい、高額は香芝市畑の旧名です。葛城の娘です。 

葛城曽津彦は武内宿禰の子の一人です。

 『古事記』によると、応神天皇は妃に葛城曾津彦の妹の野伊呂売りを娶っていますが、位置づけは末席のようです。応神の皇后は誉田真中王の娘の仲姫、入り婿だったようで、誉田家が大王家となったのでしょう。仲姫は大雀命(仁徳帝)の母です。

 仁徳天皇は葛城曾津彦の娘の磐之姫を皇后としました。葛城氏が王権を支える重要な氏族に成長してきのです。

葛城曾津彦の働きを見ながら、葛城氏を見ていきます。白村江の戦いの頃、亡びた百済の亡命者が記したとされる『百済記』に、沙至比跪と云う人物が出てきます。曾津彦同一人物のようです。

 『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曾津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのき)を攻め落として捕虜を連れ帰りました。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。 場所は、桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。
 この渡来人達のハイテク技術を掌中に収めた葛城氏は勢いを増していったと思われます。

『日本書紀』神功六二年 新羅が朝貢しなかったので葛城曾津彦を派遣して討たせたとあります。
『百済記』は、倭国は沙至比跪を派遣したが、新羅は美女二人を港に迎えて欺いた。沙至比跪は命令に反して加羅国(高霊)を討ったとあります。後に、許されないと知って、岩穴に入り死んだとあります。これが曾津彦と同一人物とすると、どこかで伝承に食い違いがあるのでしょう。

 『紀』応神十四年 弓月君の来日を新羅が妨害していたので、葛城曾津彦を救援に派遣し、弓月君らを加羅国に入れることが出来ました。
『紀』応神十六年 更に平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し襲津彦等を帰国させました。
『紀』仁徳四十一年 百済王族酒君が無礼だったので、襲津彦に預けました。

 『紀』の年代を当てはめると、襲津彦は八十年以上も活躍していることになり、さすが長寿を誇る武内宿禰の子息と言いたい所ですが、神功皇后など、長寿すぎますので、年代がおかしいのでしょう。『紀』仁徳天皇の治世について、仁徳天皇は在任八十七年に亡くなりますが、善政を敷いたので治世二十余年無事であったと書かれています。計算すると暦は一年で四年経つようです。

 襲津彦の娘であり、仁徳天皇の皇后である磐之姫は嫉妬深い女で有名になりました。姫の留守中に仁徳はかねてから想いを寄せていた八田皇女を宮中に入れたのを怒って、高津宮に帰らず、そのまま淀川を遡って、山背の百済系渡来人の奴理能美の家を筒城宮として留まりました、ある日、那羅山から故郷を望んで歌いました。
 つぎねふ 山背河を 宮泝(みやのぼ)り 吾が泝(のぼ)れば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家(わがへ)のあたり
 山また山の山背川を 上っていけば 青土の美しい 奈良もすぎ 大和もすぎて 私が見たいと思うのは 葛城の高宮の 生まれた家のあるあたりです 

 磐之姫は仁徳天皇を許すことなく、筒城宮で亡くなりました。那羅山に葬られたとあります。、『延喜式』には、佐紀楯列のヒシャゲ古墳とされています。

 奴理能美は、三色に変化する不思議な虫・蚕を飼育していたとあり、絹の高級織物を織る集団でした。葛城氏はこの集団と関係が深かったのでしょう。『新撰姓氏録』には、奴理能美の後裔氏族として、調連、民首、水海運、調曰佐の名を記しています。調曰佐は紀朝臣と同祖であり、対外交渉での通訳の仕事をしていたとされています。

 五世紀初頭の出来事であった高句麗好太王の碑に記されている倭軍との戦いには、葛城曾都彦の働きがあったのでしょう。この事が葛城氏が天皇家を支える重要な氏族に押し上げたものと思われます。曾都彦の妹を応神天皇の妃に入れたのもこの頃でしょう。

 磐之姫の話に戻しますが、筒城宮は息長氏の拠点でもあり、ここでも葛城氏と息長氏との親密さが窺えます。磐之姫が生んだ皇子は、履中天皇、住吉中皇子・反正天皇・允恭天皇とされていますが、允恭天皇については疑問があります。それは倭の五王が南宋へ遣いを出しますが、その名と繋がりが南宋の資料と記紀では違うのです。

『宋書』 同時代資料           『記紀』 150年後の資料から

┏倭王讃                   ┏履中(讃)
┗倭王珍 ┏ 倭王興           ┃反正(珍)   ┏安康(興)
 倭王済━┫                 ┗允恭(済) ━┫
       ┗ 倭王武                     ┗雄略(武)

 となって、允恭(倭王済)が履中・反正と兄弟ではない表示になっています。『宋書』では、「珍の場合は讃死して弟珍立つ。」「倭王済使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。」とあり、済の場合のみ先代との繋がりが書かれていません。

 履中天皇の就任前に葛城の葦田宿禰の娘の黒姫を娶ろうとして、使いに弟である住吉中皇子を差し向けましたが、皇子は偽って兄になりすまして黒姫を犯したのです。葛城の姫の争奪戦でということでしょう。皇位につこうとすれば、葛城の姫を娶るのは近道であったようです。住吉中皇子は履中を殺そうとして、結局は逆に殺されてしまいます。

 雄略天皇も葛城の円大臣の娘の韓姫を娶って、清寧天皇を生ませています。このように、葛城の姫を娶ることは、皇位への有力な力になっていたのでしょう。
 天皇家の姻族としての葛城氏の力を見せるエピソードがあります。河内王権の天皇では、安康天皇と武烈天皇の二人は、母と妃は葛城氏の女性ではありません。葛城氏と無関係の天皇です。安康天皇は暗殺されます。武烈天皇は皇統をつなぐことができませんでした。

 葛城氏の権力基盤は娘を入内させることではなく、このことは後からそうなったのであって、先ず、半島での葛城曾都彦の活躍があったのです。水運・海運の力です。軍事力―兵士の動員力―は天皇家の仕事だったのでしょう。水運・海運と云えば、紀氏の得意分野であり、吉野川紀ノ川を共に利用する関係にあったのです。葛城の地は奈良盆地の一角であり、水運・海運については紀氏などの親しい豪族の力を利用していたのでしょう。和歌山県御坊市に塩屋地名があます。塩屋連は葛城曾都彦の後であり、紀州と葛城氏の繋がりがかいま見えます。

 大和川の水運は、河内に出る手前に流れが急で岩礁も多い亀の瀬渓谷は舟での航行は難しいので陸路を利用し、それ以外の流れを水運で利用していたのでしょう。摂河泉に葛城曾都彦の後裔とする布忍首や布帥臣など多くが分布していたようです。 水越峠を越えての往来も含めて河内繋がりがあったのです。
 淀川・木津川は、磐之媛の航路に見るように活用されていました。葛城氏の滅亡後三百年後に出来た『新撰姓氏録』には山城国皇別に、与等連を葛城曾都彦の後裔として記載しています。名前からも淀川の水運を押さえていたのでしょう。
 
 『紀』仁徳天皇十一年十月に、「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰う。」とあります。上町台地の北麓を切って人工水路を造り、河内湖の水を大阪湾にスムースに流してやり、水害を防ぎ、水運の便を図ったのです。
 この水路沿いに難波津と呼ばれる港が出来、九州・朝鮮へ直結することになりました。難波津沿 いに巨大倉庫群が建てられるようになり、王権の力は大いに増しました。倉庫は約90平方メートル
で十六棟が東西に配置されていました。
 また、この倉庫造営より前に紀ノ川下流の鳴滝遺跡から七棟の倉庫群が発掘されています。王権と紀氏とが結びついて対外折衝用に活用されたものでしょう。おそらく葛城氏も絡んでいることでしょう。

紀ノ川の倉庫

難波津の倉庫

 仁徳天皇が生まれた日に産屋にミミズクが飛び込んできました。同じ日に武内宿禰の家でも子が生まれ、産屋にミソサザイが飛び込みました。これは瑞兆として、鳥の名を交換して子の名前にしました。仁徳天皇はオホササキが正式名ですが、通称ミソサザイだったのでしょう。亡くなる20年前(実際は 5年前)に石津原に出かけて陵地をきめました。造営が始まった際、ミソサザイの陵と呼んでいたのでしょう。これが、現在の上石津ミサンザイ陵とよばれている古墳となりました。初代のミサンザイ陵です。履中陵とされていますが、5世紀前半の古墳です。仁徳陵とされている大仙陵よは五世紀前半から半ばの古墳ですからこれが本当の履中陵でしょう。
 ミサンザイ・ニサンザイの名を持つ古墳では最も古いのが上石津ミサンザイ古墳です。これ以降、いくつかの古墳がその名を持つようになり、ミササギからの語韻の変化と理解されています。


その他のミサンザイ・ニサンザイの名を持つ古墳  延喜式の被埋葬者

淡輪ニサンザイ古墳  5世紀後半の造営 大阪府泉南郡 五十瓊敷入彦
岡ミサンザイ古墳 5世紀後半の造営 大阪府藤井寺市 仲哀天皇
土師ニサンザイ古墳  5世紀後半の造営 大阪府堺市 全国八位 反正天皇陵
鳥屋ミサンザイ古墳 5世紀半から6世紀初頭の造営 奈良県橿原市 宣化天皇

 上石津ミサンザイ古墳と吉備の造山古墳とは、同時代に作られ、全く同じ形で、当時では最大の墳墓です。祭られている人は仁徳天皇と義兄弟のような関係にあったのでしょう。仁徳天皇は吉備の海部直の娘である黒日売に惚れて吉備まで追いかけて行きました。おそらく、この時に吉備国の王者(御友別は応神天皇と合っています。御友別の子かも)と契りを結んだのでしょう。この頃には大王家以外に葛城氏や吉備の王族も同等な力を持っていたのでしょう。

河内と和泉の古墳

葛城氏の遺跡
 宮山古墳 道鏡十一面、滑石製勾玉二十九個などが出土していた。竪穴式石室は紀ノ川の緑泥片岩を積み上げたものと加古川流域の龍山石製が埋納されている。四世紀末から五世紀初めの朝鮮半島南部の伽耶地方の船形土器などが出土し、被葬者と半島の結びつきを示している。この古墳の中心的被葬者は葛城曾津彦と見られています。

 極楽寺ヒビキ遺跡 金剛山東麓の扇状地にある高台の遺跡です。楼閣を思わせる高層建築物があり、柱間は五間x五間、面積220平方メートルの巨大な掘っ建て柱建物で、どうやら火災の跡があるようです。葛城円大臣が焼き殺されたと伝えられており、彼の居館と見ることができます。安康天皇暗殺の眉輪王をかくまったことで雄略天皇に眉輪王ともども攻め滅ぼされました。

 南郷大東遺跡 全長12mの貯水池に貯めた水を3本の木樋を通して一辺4mの覆屋と一辺5mの垣根があり、中を窺えないようにしていると思われます。実用的ではないこの装置は祭祀に利用されたと推測されています。夜間に覆屋の中で水を汲み上げるような儀式が行われていたと推測されています。  

    
                                                     以上

参考文献  『謎の豪族葛城氏』平林章仁 『古代葛城とヤマト政権』御所市教育委員会

inserted by FC2 system