Uga継体天皇

1. 年表
450 允恭 この頃、男大迹王 誕生。
503 武烈 隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡が贈られる。
507  元 樟葉宮に至る 即位
511  五 都を山背の筒城に遷す。
512  六 穂積臣押山を百済に派遣、ために筑紫馬四十匹を賜う。
       百済からの請願により、押山は任那の百済隣接の四県を割譲する。
       匂大兄皇子(後の安閑天皇)は反対をしたが、勅は発せられた後だった。
513  七 五経博士段楊爾来日。
515  九 百済の使者文貴将軍を送るために、物部(至至)連を派遣。
倭国、半島に出兵するも、帯沙江で敗退する。
518 十二 弟国に都す。
523 十七 百済、斯麻王(武寧王)死去。
524 十八 百済、太子の明(聖明王)即位。将来、仏教を伝える。
526 二十 磐余の玉穂に都す。
527 二一 近江毛野臣、六万の兵を率いて新羅に破られた南加羅の一部を任那に併せんとするも、筑紫国造磐井が渡海を阻止される。
       磐井討伐のために物部麁鹿火大連を派遣。
528 二二 筑紫の御井郡で物部麁鹿火が磐井と交戦し、斬殺。
       磐井の子・筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献上。
529 二三 百済王が穂積臣押山に加羅の多沙津を朝貢路に乞う。
       百済王に多沙津を賜う。これに反対する加羅は新羅と結ぶ。
       新羅の侵略を防ぐため近江毛野臣を安羅に派遣する。
529 二三 毛野臣が新羅、百済の王を任那に召喚、詔を伝えんとするも、新羅に洛東江口の四村をかすめとられる、
530 二四 毛野臣が進駐して二年になるも、成果があがらずにいたところ、新羅、百済の軍に囲まれる。
調吉士が毛野の失政を進言、日頬子が遣わされ、帰還命令がくだる。
 毛野臣が帰還中に対馬で病没。亡骸は瀬戸内から淀川を遡り、枚方を経て近江に移送。
531 二五 継体天皇崩御。藍野陵に埋葬。
534    安閑天皇即位。

2. 継体天皇を祭っている神社 神社本庁に祭神を通知した神社から
 埼玉県  2社    石川県  1社    福井県 28社    熊本県  1社
 『記・紀』ともに継体天皇の誕生の地を近江としており、『紀』は越前高向に居を構えていた継体を天皇として迎えたと書いている。近江に継体を祭る神社がないと言うことは、おらが国から出た天皇であるとの認識も意識もなかったと言うことである。逆に越前には多くの神社に祭られており、伝承も残っている。我が町から出た天皇であるとの思いが伝わる。
 坂井市 高向神社 丸岡町女形谷の「天皇堂」と言われる場所がある。大伴金村、.物部麁鹿火、許勢男人らが男大迹王を迎えに来て会談を行った場所との伝承がある。
 坂井市 三国神社 当地は沼地や湿地帯であり、これを水田ができるように開拓したのが男大迹王であって、その実力と繁栄をもって武烈以降の皇位についたとの伝承がある。

3.男大迹王は大きい存在
 大伴金村が「男大迹王(をほどのおおきみ)は慈悲深く親孝行で、皇位を継ぐのにふさわしい。」と述べ、物部麁鹿火大連や許勢男人大臣ら群臣は、「王族の多くを詳しく見たが、賢者は唯男大迹王のみだろう。」と言い、賛同した。
 これは、多くの群臣等が男大迹王の人となりを知っていたと言うことを示す。武烈天皇の時代、武烈には皇子が生まれず、皇統を継ぐべき血脈の濃い皇子もいないことは群臣にとっては周知のことであり、男大迹王は有力な日継と見られていたと思われる。
 
 傍証になるのかどうか、和歌山県橋本市の隅田八幡神社に所蔵されていた人物画像鏡に、「癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意紫沙加宮時 斯麻念長寿 遣 開中費直 穢人今州利 二人等取白上同二百旱作此竟」とあり、503年(武烈)、忍坂にいる男弟王(ヲオト)=男大迹王? の長寿を、百済の武寧王から献じられた鏡とされる。金石文の解釈が当を得ていれば、男大迹王は日継として半島にまで知れ渡っていたことになる。
 男大迹王は渡海し、武寧王と面識があったものと思われる。
 銘文の日十はジツジュウ、武烈は若鵲でジャクジャク、似ていると言えば似ている。
 男大迹王は即位四年前には忍坂にいたことになる。

 何故、忍坂に男大迹王がいたのか。以下は応神天皇から継体天皇に至る系譜である・
『上宮記』一云
 凡牟都和希王ー若野毛二俣王ー大郎子(意富富等王)−乎非王−汗斯王(彦主人王)−乎富等大公王(継体)
曾祖父にあたる大郎子(意富富等王)は允恭天皇の皇后の忍坂大中姫命(木梨、安康、雄略の母)の兄であり、この家系は忍坂に拠点があった。『紀』によれば、皇后の妹の弟姫、容姿絶妙ゆえ衣通郎姫と呼ばれていた。彼女は母と近江の坂田にいたとある。息長氏の近江の拠点である。継体天皇の曾祖父の母は近江の息長氏の娘と思われる。

武寧王の古墳


古墳から見た二重の神奈備山

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 男大迹王を指名する前に丹波の倭彦王の下に試みに兵をさし向けると、顔色を失い、行方不明となったとある。大王としてお迎えする方の下に試みに兵をさし向けるだろうか。作り話に思えてならない。 また大和国内継体への抵抗勢力がいたとされているが、彼らも担ぎ上げるべき大王候補を持っていたのであろう。

4,男大迹王の父と母
 父の彦主人王は近江国高嶋郡三尾の別業(別宅)で、越前国三国坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、男大迹王が生まれたが、早くに死んだ。この為、母親は実家のある越前三国の高向に幼子を連れて戻った。男大迹王は越前で育ち、ここから飛躍していったのだろう。
 『上宮記』では、振媛は垂仁天皇の七世孫となっている。垂仁天皇の皇子の磐衝別は『紀』では羽咋君・三尾君の祖とあり、羽咋は能登国(養老二年(718)越前国から分離)の豪族であり、羽咋神社には磐衝別の古墳とされる前方後円墳がある。また三尾地名は近江と越前にあり、近江の水尾神社に磐衝別が祭られている。三尾君は近江から越前・加賀(平安初期に越前から分離)・能登にかけての支配的豪族の祖だったのだろう。近江の三尾にいた彦主人王が美人だからと言うだけで越前の振媛を妃に乞い、たとえ金持ちのお坊ちゃんであっても遠く近江まで嫁に来るだろうか。振媛はやはり三尾君の一族だったこと、彦主人王の一族は近江・琵琶湖の水運、継体が宮を置いた淀川沿いから瀬戸内海の水運、敦賀や三国湊を持つ越前の豪族として日本海の海運などを手広く展開する一族の人物だったゆえだろう。男大迹王は成人すると、祖父から家業を引き継いだと思われる。

5.男大迹王の妃と皇子
 皇位を継ぐに当たって、仁賢天皇の皇女の手白香皇女を皇后として娶り、欽明天皇が生まれている。天皇家への入り婿が万民を納得させる条件だったのだろう。
尾張連草香女目子媛は次の安閑・宣化両天皇の母である。男大迹王の提携先の大豪族の娘であり、継体天皇の有力な後援者だったものと思われる。当時の尾張は越前や近江をしのぐ古墳が造営されていたようであう。*1
 男大迹王は皇位を継承するに当たって、この二人の皇子も40歳を越えた実業家になっていたが、この皇子等を皇嗣とするように求めはずであり、大伴金村大連の内諾を得ていたのであろう。欽明天皇の時代、大伴金村が失脚させられる要因の一つになったかも知れない。
 三尾角折君の妹稚子媛は、大郎皇子と出雲皇女を生んでいる。長男と思われる大郎皇子については『記・紀』は何も述べていない。早世したのだろう。出雲皇女の名は男大迹王が日本海側で活躍していたことを思わせる。妃の三尾角折君は二重地名姓であり、角折は福井市角折町として現存する。越前の娘であり、男大迹王の初婚の相手だったと思われる。
 坂田大跨王の娘広媛 三人の皇女。
 息長真手王の娘麻績娘子 荳角皇女 伊勢斎宮を勤めた。
 茨田連小望の娘関媛 三人の皇女。
 三尾君堅ヒ(木成)の娘倭媛 二男二女  椀子皇子は三国公の先祖、越前国坂井郡の式内社の国神神社の祭神として祭られている。三国真人は越前出身の豪族でありながら「真人」という高いカバネを与えられた。耳皇子は不明。
 和珥臣河内の娘 厚皇子 二女。
 根王の娘広媛 二男 兎皇子 酒人公の祖、中皇子 坂田公の祖。共に近江の豪族。

6.男大迹王と越前
 越前の継体伝説に「治水」「米」がある。九頭竜川流域の灌漑を行ったと言う。6世紀頃の越前は米の生産量はトップクラスであった。
 「塩」 大伴金村に滅ぼされた平群真鳥はあらゆる塩に呪いをかけたが、角鹿の塩だけは呪い忘れたと言う。越前の塩は重要物産であった。古墳時代には製塩土器製塩が盛んだった。男大迹王は塩輸送を押さえていたと思われる。
 「馬」と「鉄」 河内馬飼首荒籠と男大迹王は親しかったようだ。荒籠は馬を通して軍事氏族である大伴氏や物部氏と取引があり、朝廷の情報を得る事が出来る立場にあった。その情報を男大迹王に届けたことで、決断を促したと『紀』にある。
 福井市天神山七号墳からは五十本以上の鉄の刀剣出土している。あわら市金津新町の地名は鉄を積み出す港のいう意味でありる。古くから越前は鉄の生産地であり、また近江からの鉄生産の遺跡が多く出土している。ヲホド王のホドは火処であり、金属を溶解する設備を言う。
 馬と鉄は権力の源泉である。
 海外交流 5世紀央の直径50mの円墳である天神山七号墳からは朝鮮半島南部の金の耳飾りが出土している。
 敦賀の気比神宮には都怒我阿羅斯等命を祭る摂社があり、越前の敦賀と三国の両港は半島との交易の港であった。延喜式内社の中には新羅との関係を思わす敦賀郡白城神社や信露貴彦神社の名が見える。

7.継体天皇の外交
 朝鮮半島は、北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅、半島南部に伽耶と呼ばれる小国群があった。高句麗は強大で南へ領土を拡大しようとし、この動きに圧迫された百済と新羅もまた南下しようとし、当然に伽耶と衝突することになる。倭国は四世紀末頃から百済や伽耶と友好関係を維持していた。これらの国々から倭国は援軍を出してくれる同盟国と期待されており、見返りに王族を人質として預かったり、貴重な財や文化在や五教博士を受け入れていた。
 百済が隣接していた伽耶の4県の割譲を希望し、継体朝の実力者である大伴金村大連はそれを認めた。匂大兄皇子は反対したが、勅が出されてしまっており、止めることはできなかった。これは匂大兄皇子が綴喜宮におり、大和の宮にいた継体天皇が大連などと相談して決定したということだろう。要するに宮を淀川沿いに転々とするのは『紀』が宮と呼ぶ前線基地だったと思われる。急ぎの用事は前線で処理し、重要案件は天皇に届ける仕組みだったと思われる。天皇は即位後、直ちに大和入りし、皇子の匂大兄皇子か檜隈高田皇子を基地に駐在させていたということ。
 継体十二年に基地を弟国宮に置いたのは、半島や九州より日本海側の様子が緊迫してきたことによる可能性がある。
 百済と伽耶との間に領土争いがあり、百済よりの判断が続いたようだ。穂積臣押山は尾治連の娘の子である。継体天皇の妃の目子媛も尾張連の出であり、親戚にあたり、即位以前からの知り合いだったのだろう。穂積臣押山の判断と答申が半島での混乱と伽耶諸国の離反を招いたと思われる。
伽耶諸県は倭王朝が頼りにならないと新羅に走る県が出たりしてきた。
半島の国々は互いに接しており、お互い油断も隙ももてない緊張状態の中で暮らしており、海に囲まれた倭国とは感覚が違うようだ。彼らは生き馬の目を抜く気持ちで外交をしており、隙があれば裏切ることも多い。現在も同じであり、半島の国にへたな妥協をするとますますつけあがってくる。
 新羅の侵略を防ぐため近江毛野臣を安羅に派遣したが、任務を果たせず、帰国の際、対馬で病没した。近江の豪族であり、継体天皇とは知己だったのだろう。
継体天皇は外交関係者にお友達を起用して失敗したのである。所詮、田舎豪族出身か。

8.磐井の乱
 継体の即位への抵抗勢力が大和国内にもあったとされている。古代には普通天皇候補が複数おり、なかなか満場一致ということはなかっただろうし、不思議なことではない。それがゆえに大和入りが遅れた云々はなかろう。必要があり、慣れ親しんだ淀川流域に軍事拠点を構えたのである。それは朝鮮と西国政策の実行に便利であったと言うことである。 
 大和での抵抗勢力は葛城氏と言われる。大和川は利用しにくい。葛城氏は未だ亡びていなかったのである。ここに登場してきたのが蘇我稲目。計数に明るいとされた蘇我氏は政権内部で官僚的豪族として頭角を現してきており、落ち目ではあるが名門の葛城氏の娘を娶り、大いに箔を付けた。稲目は葛城氏の力を吸い取ってしまったのであろう。葛城の継体だったと言える。大和内の抵抗勢力の一角が崩れたことになる。
『古語拾遺』雄略天皇条に、「蘇我麻智宿禰をして、三蔵(齊蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめ・・」とある。
西国の抵抗勢力の雄が筑紫君磐井である。兵員動員の件なども非協力的であり、半島政策の遂行にも障害になってきていた。継体天皇は晩年にさしかかり、また気心のわかっている物部麁鹿火大連と大伴金村大連も元気な内に次の時代への憂いを取り除いておこうと決意し、磐井討伐の命令を出した。
 『筑後国風土記』(逸文)俄にして官軍動発し、襲はんと欲するの間、勢、勝たざるを知り とある。奇襲攻撃を仕掛けたようである。
 『紀』では、天皇は物部麁鹿火大連に 「筑紫より西はお前が統治し賞罰も思いのままに行え、いちいち報告することはない。」と言ったとある。しかし、磐井が亡びた後、息子の葛子が糟屋の屯倉を差し出しだており、これを物部氏が手に入れたとは書かれていない。安閑天皇の時代にも九州に多くのの屯倉を設置している。皇室直轄である。
 『紀』の物部にまかせると言う文章は『紀』編纂局の作文かも知れない。
 森田克行氏は、「磐井が亡びた後、朝鮮半島に築かれてきた前方後円墳の造営が止まったとされる。これは磐井サイドも半島と外交関係を持っており、滅亡によって朝廷に一元化されたと見ることができる。」とされる。*3
 半島政策は失敗し、息子の欽明天皇の時代に任那の利権を失うことになる。

9.継体天皇の崩御
507 『紀』継体元年
527 『記』継体死 43歳
531 『紀』継体死 82歳 『安閑紀』継体は安閑を即位させ、その日に死んだ。
『百済本記』継体の死 伝聞 天皇・皇太子・皇子が皆死んだ。
534 『紀』安閑元年 『紀ある書』継体死
535 『紀』安閑死
536 『紀』宣化元年
539 『紀』宣化死
540 『紀』欽明元年
 『紀』は、継体天皇は、継体25年春(西暦531)、安閑天皇を即位させ、その日の内に82歳で崩御したとある。後継指名に継体の執念を感じる。ところが、継体崩御後、2年間の空白期間をおいて安閑天皇が69歳で即位したと記している。82歳に66歳の子供、すなわち数えで17歳の時に生まれたことになる。少し早いように思うが、成り立たないことはない。
 『百済本記』には、継体28年に崩御したとある。更に、天皇および皇太子・皇子が皆死んだとある。『本朝皇胤紹運録』に安閑天皇の皇子に豊彦王の名をあげている。継体陵とされる高槻市の今城塚古墳から3体の石棺がでており、符合する話である。
 『紀』本文の空白の2年間は何か。安閑天皇は継体天皇から次期天皇と指名されたが、この時代、群臣の衆議で天皇が決められることが多く、天皇といえども後継指名は異例である。しかし、皇族の最年長の安閑天皇、彼が実質後継として行動しており、後に群臣が追認したものと考えることができる。堺市文化財課の十河良和氏は安閑陵(高屋築山古墳)は未完成の古墳と指摘されているのは興味あることである。

*1 『継体大王と朝鮮半島の謎』水谷千秋
*2 『福井県の歴史』
*3 『継体大王と筑紫君磐井』今城塚古代歴史館5周年記念特別展

                                                                         
以上


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