越の古代
浪速の古代史研究会資料

1.日本海側の霊山

 日本海側には、特に霊山とされる山々が多い。船から眺めると、各地域にとぎれることがなく霊山が見える。山アテになっている。ここでは、越(越前・加賀・能登・越中・越後)の主な霊山を紹介して見ましょう。

出羽国 羽黒山 羽黒山の本地仏は観世音で、その垂迹の神は玉依姫とされている

出羽国 鳥海山 薬師如来(薬師瑠璃光如来)が垂迹し
豊玉姫命だとされた。

陸奥国 岩木山 安寿と厨子王丸の安寿が岩木山に祀られている。丹後国の人を忌み嫌う。

越後国 黒姫山 大鍾乳洞に
奴奈川姫が住んでおり、機を織っては、布をさらしていた。出雲の八千矛神が越の国の奴奈川姫と求婚するべき出かけた。すぐには求婚に応じなかった。翌日に結婚、諏訪の神「建御名方命」(旧事紀)、美保の神・御穂須々美命(出雲風土記)が生まれた。奴奈川姫はこの地で産出する翡翠を支配する巫女王だった。その後、八千矛神と不仲になり、糸魚川平牛山稚児ガ池に入水したと伝わる。戦前まで北陸では新婚初夜は交わらず、初夜は恵比須神に捧げる風習が残っていた。

越後国 弥彦山 山麓には縄文・弥生・古墳時代の遺跡が点在。
伊夜比古神社が鎮座。

加賀国 白山
白山比

 低山である弥彦山を除けば、山の神は女神のようだ。


2.白山

火山であり最後の噴火は1659年、ハクサンはその頃からの呼び名、往古からはシラヤマであった。
7世紀までの白山信仰 海上からの目印(船魂神)・鳥獣や木の実・木材、水などの恵み、山上他界など多岐に渡る山の恵みへの感謝の心が醸成した。

 
白山を開いた泰澄について

泰澄は渡来人の子ゆえ、白山への崇敬の念が乏しかったからこそ、白山に登頂できたのではないか。
白山頂上に高句麗の媛神を祀ったと言う。
泰澄の母は白玉の水精を懐中に入れる夢を見て懐妊し、生んだ。
玄奘直伝の仏典を携えて唐から帰朝した道昭は泰澄の頭に円光 頭上に天蓋を見た。


  泰澄の歩み(伝承)

1。霊亀二年(716)、越知山より白山の高嶺雪峰を仰ぎながら修行する泰澄の夢に、、「天衣瓔珞(エイラク)(玉のくびかざり)を以て身を飾れる貴女、虚空の紫空の紫雲の中より透み出て」「我が霊感時至れり、早く来るべし」と告げる。

2.翌年三十六歳のとき、白山をめざし、山麓の大野の隈の筥川の東、伊野原に至って祈念をこらしていると、先日夢に見た貴女が再び現れ、「此の地は大徳が悲母の産穢の地にして、結界に非ず、此の東の林泉は吾が遊止の地なり、早く来るべし」と告げ、言い終わらぬうちに消えた。

3.その林泉(平泉寺白山神社境内の御手洗池)で祈念すると、果たして貴女が現れ、「我は天嶺に在りと雖も、恒に此の林中に遊び、此の処を以て仲居と為す、・・吾が身は乃ちイザナミ尊−伝はイザナギ尊と誤記している−是也、今は妙理大菩薩と号す、此の神岳白嶺は、乃ち吾が神務国政のときの都城也」「抑も(さても)吾が本地真身は天嶺にあり、往いて礼すべし」と告げて忽ち隠れる。

4.この霊威に感激した泰澄が、遂に白山の頂上(御前峰)に登り、緑碧池の傍らで一心不乱に祈っていると、池の中から九頭龍王の形をしたものが現れる。それを「此は方便の示現なり、本地の真身に非ず」と言い、忽ち「十一面観音自在尊の慈悲の玉体」を現して、光明見を耀かした。
 ついで左の孤峰(別山)で聖観世音菩薩を本地とする小白山別山大行事と名乗る男神を、右の孤峰(大汝峰)では、同じく男神で西刹の王(阿弥陀如来)と言う大己貴を拝する。左、右は日本海側からでなく、都の側から見てである。泰澄は随従した臥行者・浄定行者と供に養老三年(719)まで山頂にとどまり、一千日の修行をした。

5.養老六年 41歳の時、氷高(元正)天皇の勅をもって参内し、天皇の不予を加持によって平癒。禅師の位を授けられて天皇の護持僧となり、神融禅師の号を許される。

6.天平九年(737)56歳、勅により十一面法を修して疱瘡の流行を終息せしめた。

霊峯白山の図 玄松子さん

白山神の神祇形態(『古代の日本海文化』藤田富士夫著から)
鎮座地 現身(俗体) 垂迹神 垂迹佛 本地仏(真体)
御前峰 貴女 伊弉册尊 妙理大菩薩 十一面観世音菩薩
別山 弓矢を持つ宰官   小白山別山大行事 聖観世音菩薩
大汝峰 老翁 大汝貴神   阿弥陀如来(西刹の主)

15世紀末から約100年、一向一揆が続いたのは何故か
阿弥陀如来信仰が白山信仰に内在していた。衆徒は白山・熊野信仰から離脱して本願寺への帰依をし、退路を断った。白山修験の影響下にあった各地の轆轤師、塗り師、鍛冶師、杣工、紺屋などの情報伝達網が機能したと言う。



3.十一面観音について

起源はバラモンの神である十一面荒神に発し、天候や雨水を支配するが、ひとたび怒ると生き物や草木を滅ぼす。原始の白山信仰にも強力な招福除災の呪術性に十一面観音は合致した。

 十一面観音の十種の功徳
離諸疾病(病気にかからない)
一切如來攝受(一切の如来に受け入れられる)
任運獲得金銀財寶諸穀麥等(金銀財宝や食物などに不自由しない)
一切怨敵不能沮壞(一切の怨敵から害を受けない)
國王王子在於王宮先言慰問(国王や王子が王宮で慰労してくれる)
不被毒藥蠱毒。寒熱等病皆不著身(毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない。)
一切刀杖所不能害(一切の凶器によって害を受けない)
水不能溺(溺死しない)
火不能燒(焼死しない)
不非命中夭(不慮の事故で死なない)

 四種功コ
臨命終時得見如來(臨終の際に如来とまみえる)
不生於惡趣(悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない)
不非命終(早死にしない)
從此世界得生極樂國土(今生のあとに極楽浄土に生まれ変わる)



4.白山比盗_社

加賀国石川郡 延喜式内社 白山頂上の奥宮
白山信仰の確立は平安末期 天台の影響下に入った頃とされる。
近江日吉大社の摂社としての客人社に白山姫神社を設けた。祭神を菊理姫命としている。
御所 比叡山 白山 は同一方向。

『紀』 菊理媛神 是時、菊理媛神亦有白事。伊弉諾尊聞而善之。 いったい何と言ったのか?禊ぎをしなさいとか。

九頭神社の摂社に白山神社がある紀和の神社
      奈良市下狭川町 九頭神社        奈良市西狭川町 九頭神社
      天理市長滝町 九頭神社          天理市下仁興町 九頭神社
      和歌山市下三毛 上小倉神社


5.越後国 弥彦山

延喜式名神大社 越後国蒲原郡 伊夜比古神社
能登国能登郡に、対となる伊夜比盗_社が鎮座、式内社。
能登のおすずみ祭はまさに伊夜姫神が越後の男神である弥彦神を呼び寄せて、年に一回の逢瀬を楽しむ祭事。
古老の中には佐渡の伊太祁さんとも言う人もいる。

おすずみ祭 燃え上がる松明 30m

伊夜比盗_社の祭神は大屋都比売命。いつからかは不明。
伊夜比古神社の祭神は大屋比古命でいいが、室町時代の『大日本一宮記』に「天香久山命なり」とあり、これが現在まで通用している。

伊夜比古の伊は偉大などの敬称、夜彦となる。夜は弥でやはり敬称、残るは比古。

伊太祁曽神である大屋毘古神の大は敬称、屋のまた弥で敬称、残るは毘古。
丹後の籠神社に伝わる『海部氏形図』によると、天香語山命の妃が大屋津比売命となっている。
これが平安初期の記録であれば、伊夜比古神社の祭神が天香山命であることはさかのぼれる。

吉田東伍は越後の国を開拓した王の祖神が祭神だと見る。天香山命を無根の言い草と断じている。


6.渡来してきた神

能登は半島であり、佐渡は島である。渡来人が拠点を置くにはふさわしい場所。これは英国が香港から大陸へ、セイロン島からインドへと歩を進めたのと同じ。

 能登国
 羽咋郡 ●久麻加夫都阿良加志比古神社[クマカフツアラカシヒコ] 三〜四世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定し、守護神として祀られた。

 能登郡 ●荒石比古神社[アライシヒコ] 安羅人の祖神を祀った。

 能登郡 ●久比古神社[クテヒコ」 村山正雄『朝鮮関係神社攷』による。

 能登郡 ●白比古神社[シラヒコ] 祭神は新羅から来た神であろう。ただ大己貴命の御子神とする伝承もある。

 能登郡 ●阿良加志比古神社[アラカシノヒコ] この地方の老翁であり長者であったと伝えられる。
 鳳至郡 ●美麻奈比古神社[ミマナヒコ]
      ●美麻奈比盗_社[ミマナヒメ] 美麻奈とは「穴水」の訓だったと言う。

珠洲郡 ●古麻志比古神社[コマシヒコ] 熊霊=コモス、出雲の神魂(カモス)に由来するとか、高麗系の渡来人の祖神とする説。

     ●加志波良比古神社[カシハラノヒコ] 『珠洲市十年史』による。


 越前国
敦賀郡 ●白城神社[シラキ] 敦賀市白木に鎮座、当地の住民は祖先を朝鮮の王家とする口承がある。

     ●信露貴彦神社[シラキヒコ] 鎮座地の沓見には洗濯物を朝鮮のキヌタに似た木棒で打ったり洗ったりする古い風俗が残っていた。


南条郡 ○新羅神社
    ○白髭神社 今庄町の新羅神社を「上の宮」、白髭神社を「下の宮」と称していた。共に近江からの勧請と思われる。

福井県南条郡今庄町合波 ○白髭神社 白城神社の論社。

福井県南条郡今庄町荒井宮 ○新羅神社 信露貴彦神社の論社。


 越中国
礪波郡 ●高瀬神社 越中一ノ宮。景行天皇の御代。祭神五十猛命は高麗よりの渡来、大己貴命と天活玉命は能登気多大社との同体説によるとの説がある。(『小矢部市史』)

新川郡 ○高来社
     ○高麗神社 富山湾沿いに鎮座。祭神は五十猛神。

 越後国
頚城郡 ○関山神社 式内社の大神社の論社。新羅明神を祀っている。聖観音菩薩像(新羅仏)が御神体。



7.気多大社と気比神宮

 越洲について
大和王権にとって、越地方−特に加賀以北−が重要性を持ち始めたのは、越前から出た継体王権が欽明天皇の時期になって落ち着きを見せ、外交にも注力を入れ始め、越には高句麗使が度々到着するようになったからである。それでも未だ大和王権の勢力範囲になり切れていない。

 気多大社
●氣多神社[ケタ](名神大) 能登国羽咋郡 気多は橋桁の桁:折口信夫
異国の王子が三百余人をつれて大船に乗って渡来した。藻塩火で焚きあげられた場所を居場所と定め、その王子の死後、塵灰となった居所の跡にあらためて神の座が営まれたとの伝承がある。

他の気多地名・気多神社 対馬海流にのったコース
出雲国楯縫郡 気多島 風土記記載 (平田市 岩島)
因幡国高草郡 気多之前 白兔神社
但馬国気多郡 ●気多神社
越前国三島郡 ○気多神社
加賀国江沼郡 ●気多御子神社
能登国羽咋郡 ●気多神社
越中国射水郡 ●気多神社
越後国頸城郡 ●居多神社
飛騨国吉城郡 ○気多若宮神社
総じて祭神は大国主命やその子の御井神とされている。

 気比神宮
●越前國敦賀郡 氣比神社七座[ケヒ](並名神大) 古くは「笥飯宮」と称した。食物の霊。
大和王権とは5世紀には関わりがあり、高句麗使が来る6世紀後半には敦賀と気比神宮は重要性を益してきた。新羅を牽制する意味でも高句麗との結びつきが重要となって来ていた。

気多大社・気比神宮は、古代における表日本であった日本海側の最重要ポイントであった。
祭神は伊奢沙別(いささわけ)神であり、御食津神であろう。海の幸。
また、敦賀は地名の由来となっている、大加羅国の王子の都怒我阿羅斯等の上陸地と『垂仁紀』にも出ており、半島との交流でも要所であった。天日矛は同体とされている。

気比神宮からの勧請社と思われる気比神社は全国で44社、内5社は「きび」の訓である。吉備の国には賀陽氏がおり、賀陽氏は加耶(加羅)の出である。

吉備の姫社神社の境内に、「古代吉備之國波多波良郷鉄造之神社」裏に「秦郷鉄造之発祥之地」の碑が立っている。吉備の国は天日矛の一族の国であった。

 気比神の神仏混淆
『藤氏家伝』 霊亀元年(715) 藤原武智麻呂の夢の中で貴人が現れ、寺院の建立を求めた貴人は気比神であった。藤原武智麻呂は早速神宮寺を建立したと思われる。霊亀元年に建立したかどうかは不明だが、『藤氏家伝』 の成立した天平宝字四念(760)には気比神宮寺ができていた。
 気比神宮に限らず、北陸地域の神々は、早い段階で神階を授与され、仏教との強い関係が出来ていた。畿内にその徴候があらわれない段階で神宮寺が建立されている。早い目に渡来人が仏教信仰を持ち込んでいたようだ。これはいち早く仏教との混淆を果たした宇佐八幡神宮と同様の現象である。

『延喜式神名帳』の頭注に、 気比。風土記云。気比神宮者宇佐同体也。八幡者応神天皇之垂迹。気比明神仲哀天皇之鎮座也。とある。


主な神仏習合の時期
   749 鹿島神宮       766 伊勢神宮外宮     855 気多大社
   715 気比神宮       758 住吉大社
   717 若狭比古神社    763 多度大社
   725 宇佐八幡宮      766 伊勢神宮内宮


8.越人のルーツ

大三元さん 高句麗語で古斯は玉の意味がある。
高句麗→夫余(江原道春川牛頭山)→出雲国神門郡古志郷(出雲市古志町)→新潟県古志郡
越後国古志郡の金峰神社の神像は八頭の蛇。

『出雲国風土記』イザナミ命の時、日淵川を以て池を築造す。時に高志人到来して堤をつくる。
出雲の高志族、これが越に北進し定住したもの。出雲八千矛神が奴奈川姫に求婚する物語が語る。



参考文献
『越と古代の北陸』小林昌二編 『新羅の神々と古代日本』出羽弘明著
『古代日本海文明交流圏』小林道憲著 『巷説牛頭天王と高志族』斉藤七郎 以上
   以上

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