九州の古代−麁ぶる神ー麁ぶる人−
ー筑紫王磐井−



磐井(石井)   その名は邪(よこしま)な者に仇なすもの。

武蔵国 磐井神社 磐井の水は、正しき者には清冷にして、邪な者には塩味となる。土俗、薬水と言う。

456 雄略即位前、御馬皇子(市辺押磐皇子の同母弟)は三輪の磐井の井戸の横で待ち伏せされ、殺された。この時、御馬皇子は井戸をさして呪った。この水は百姓は飲めるが、王者だけはは飲めない。

524 筑紫君磐井が反乱、西の国をわがものにしようとしている。

591 崇峻五 蘇我馬子、東漢直磐井の子の駒を使って崇峻天皇を暗殺した。

1.あらぶる神の国の伝承  磐井のルーツは?

魏志倭人伝 伊都国に一大率がおかれていて、国々を監視し、国々はそれを畏れている。

日本書紀 岡県主の祖の熊鰐が仲哀天皇を出迎えた。
筑紫の伊都県主の五十迹手が仲哀天皇達を出迎えた。天日矛の末裔を名のる。
武内宿禰の子孫の姓の地名が筑紫にある。

古代の九州


奥野正男氏による地図 武内宿禰の御子達の地名
博多湾    /
−−−−−−/
       曾我
 平群       羽田
背振山地
=======
          ==I基肄
武雄  巨勢      I葛木
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜筑後川
有明海

古事記 建内宿禰の子
波多の八代宿禰
許勢の小柄宿禰
蘇賀の石河宿禰
平群の都久宿禰
木の角宿禰
久米の摩伊刀比売
怒能伊呂比売
葛城の長江曽都毘古
若子宿禰

武内宿禰の母、山下影姫を祀る神社は北九州に鎮座。
福岡県宗像郡玄海町 葛原神社      
福岡県小郡市     竃門神社       
福岡県八女郡水田町 玉垂神社       
佐賀県武雄市     黒尾神社       

八幡古表神社の神相撲では、最後まで勝ち残るのは黒男神(武内宿禰)、強いのだ。

筑後国風土記
筑前国と築後国との間に、けわしく狭い坂があった。この上に麁猛神(あらぶる)がおり、往来の人の半 数は死んだ。「人の命尽くしの神」と呼ばれた。そこで築紫君と肥君らが占って、築紫君らの祖甕依姫を巫祝として祭らせた。麁ぶる神はおさまった。
式内 筑紫神社「白日別神、五十猛神」筑紫野市大字原田

肥前国風土記
一つの離れ山がある。坤(南西)から艮(北東)に三つの峰がある。杵島と言う。坤にあるのを比古神という。中を比売神という。艮を御子神またの名を軍神といい、動くと戦になる。
稲佐神社「天神、女神、五十猛神」佐賀県杵島郡有明町

佐賀県三養基郡基山町 荒穂神社に伝わる伝承
昔々、木の山の東に、とても大きな悪い神たちが住んでいました。 その神たちは、山道を通る人たちの約半数を殺し、後の半数がやっと命びろいしていました。 そこで、「里の人たちが、かわいそうだ」と、悪神たちを退治しにきたのが五十猛命でした。 そして、五十猛命は、みごとに退治しました。五十猛命が最初に木を植え始めたのが荒穂山だの伝承もある。
式内 荒穂神社「瓊瓊杵尊、五十猛命」

日本書紀 香椎宮「仲哀天皇 神功皇后 (配祀)應神天皇 住吉大神 」福岡市東区香椎
香椎神が神功皇后に、「自分を祀れば金銀の豊富な新羅の国は戦わずに従うだろう。」と託 宣したが、仲哀天皇はそれを疑い、きかなかった。天皇は病気になり、翌日には死んだ。

木花咲耶姫
瓊瓊杵尊が姫の貞操を疑ったので、産屋に火を付けて出産した。おそらく焼死したのだろう。

肥前風土記 基肄郡姫社郷 荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分に及んだ。
〃 佐嘉郡 佐嘉川の上流に荒ぶる神がいて、往来の人の半分は生かし、半分は殺した。


2.国造などに任じられた人々  磐井の祖先は?

国造は欽明天皇以降と思われる。地域の支配者。

日本書紀 熊襲梟帥の娘 市鹿文:火国造
日本書紀 景行天皇が御刀媛を娶って豊国別皇子を生んだ。日向国造の祖。
豊後風土記 景行天皇が豊国直の祖の菟名手を豊国に派遣した。
肥前風土記 崇神天皇の朝廷は肥後国益城郡の土蜘蛛を討つべく、肥君の祖の健緒組を遣わした。
〃 藤津郡 能美郷に土蜘蛛がいた。紀直の祖稚日子を派遣して誅滅させようとした。


筑紫の伊都志摩郡に、五十猛神を祀る神社が分布、また内陸の要所要所に五十猛神が祭られている。
五十猛命は武内宿禰を出した紀氏の祖であり、磐井の水軍の守護神であったのかも。



3.九州とヤマトと半島の動き  磐井の動機は?


西暦 倭国 半島
神代紀 今、海北道中に在す。号けて道主貴を曰す。此、築紫の水沼君等が祭る神、是なり。

466 雄略10 遣宋使身狭村主青ら築紫水間県に帰港する。宋との港は有明海。築紫君の勢力圏。
筑紫王は玄界灘・有明海・周防灘の海域を支配していた。外交ルートを支配。

471 古墳 この頃埼玉県稲荷山古墳 鉄剣銘文 ワカタケル大王 膳大伴。
有明海地方がヤマトにとって、重要な港になっていた。磐井の祖先が大きい勢力を持った。

475 百済、高句麗に攻められ、熊津に遷都する。
478 宋書 倭王武 宋から安東大将軍に任じられる。 記紀に記録はない。
479 宋書 倭王武 宋から鎮東大将軍に任じられる。

雄略朝の 古豪族の勢力を削ぐ。 葛城氏失墜 ワニ氏臣下へ。
画期 大伴 膳 紀 平群 巨勢 佐伯 各豪族が新興し、官僚集団形成。多くは武内宿禰の裔。
移民の官人集団化。 東漢氏、西漢氏 ら。
祭政一元化 卑弥呼的機能は后と齋王に分化していく。
大王の供御料地(ミタ ミソノ)が創設される。
王に直属する移住民系の手工業・馬の生産の組織が編成 王に独自に権力基盤が出現。

関東から九州まで 地方豪族が首長権を継承する前に 大王の従者を勤める。
古墳 熊本県江田船山古墳出土太刀 ワカタケル大王のみ世に奉えまつる典曹人名は无利氏。靫大伴 大伴室屋?
磐井も若い頃出仕していた。近江毛野臣に語っている。

479 雄略23 筑紫軍士五百人が百済王子を国に送り、東城王となる。
筑紫の安致臣、馬飼臣ら、船軍を率いて高麗を討った。
雄略崩ずる。星川皇子王位を狙うも失敗。吉備上道氏滅亡。
501 百済 武寧王即位。
502 梁書 倭王武を征東将軍とす。
503 隅田八幡宮所蔵人物画像鏡 斯麻(武寧王)から孚弟(継体)への進呈とされる。
武寧王は継体の即位を期待していたようだ。

507 継体元 継体即位 応神の5世孫 権力者の男一人の男の子の数を5人、3人としてみる。
子      5         3
孫     25         9
曾孫   125        27
玄孫   625        81
5世孫 3,125      243 人
大伴金村・物部麁鹿火・許勢男人大臣、「ご子孫を調べると、賢者は男大迹王だけらしい。」。そんなものだろう。

512 継体六 百済、隣接する任那四国の割譲を倭国に申し入れる。
大伴金村、任那二県を百済に割譲。翌年も更に二県。物部麁鹿火、使者の役割をうけず。
物部大連麁鹿火の妻、息長足姫尊以来の地を他国に渡すのは綿世の刺となる。

この頃、筑紫君磐井、寿陵の岩戸山古墳を造営する。

磐井の勢力圏の古墳の系列 石人・石馬がある。装飾古墳も分布する。
筑後 石神山− ?− 石人山− 岩戸山
豊後 臼塚山− 下山−
肥前 船山− チブサン
フタツカサン

石造物(凝灰岩 阿蘇泥熔岩)と円筒埴輪の共存
埴輪を石に置き換えている。ヤマトとは違う意識。
八女の石馬は実物大 土器ではできない。

古代の半島南

加耶諸国は倭国のバックアップがあり、それぞれ独立した国として存続していた。

513 継体七                     新羅、南加耶(金官国)へ侵入。
                           加耶諸国は百済・新羅に侵攻されている。
倭は百済の加耶領有を認める立場。加耶諸国、倭国に失望。
                           加耶諸国は倭国を信用せず、新羅に近づいた。
新羅の加羅浸透はヤマト王権の鉄の入手ルートを脅かす。看過できない。

515 継体九 倭国、物部至至連を半島に出兵するも、帯沙江で伴跛軍に敗退する。

522 継体16 伽耶王が新羅に花嫁を求める。


4.磐井の戦争勃発

527 継体21                     新羅、任那の南加羅など三国を併合する。
近江毛野に兵6万をさずけて新羅を討伐しようとし、九州に来る。
6万は多すぎるように思われる。殆どを九州で調達のつもりだったのでは。
大伴金村は自分の失敗を挽回する目的での出兵、との要素があったのでは?
兵員を供出することに、磐井を始め、九州の豪族は大反発したのだろう。

筑紫君磐井、倭国の半島政策の過ちを指摘、倭軍と近江毛野を遮る。
磐井、倭国に替わって外交権(半島からの朝貢を受け取る。)を握る。独立を図る。

8月 継体、物部麁鹿火大連を大将軍に任じて磐井を討たせようとした。所が、麁鹿火の言葉の中に、「昔、道臣より、室屋に至るまで」が出てくる。これは物部ではなく、大伴の祖先のこと。
元々、任那政策の失敗の発端は大伴金村にある。大伴の最大負担の従軍は当然。

 物部と大伴は磐井の支配地域を故地としている氏族である。磐井につくか、氏族の長につくか、それが問題だ。

筑前の遠賀川流域は物部の古い地であり、皆、麁鹿火に従ったのだろう。
肥後国球磨郡に久米郷がある。久米氏・大伴氏の古い地。火君は金村に味方したか。
物部・大伴は継体支持勢力であり、かつ九州に地縁があり、選抜されたと思われる。

文官の蘇我氏は物部・大伴の古い豪族にいささか反感を持っていたのではないか。
裏にまわって、磐井へのアドバイスを行ったのではないか。「息子の葛子の不参戦」など。
磐井敗戦後に、葛子に助言。「糟屋の屯倉をヤマト王権への提供で命乞い」とか。

磐井の支配地域には、新羅や加羅などからの渡来人がおり、彼らは磐井を支持。

528 継体22 冬11月 物部麁鹿火と磐井が三井軍で交戦し、磐井は破れた。
筑後風土記 筑紫君磐井、豪強暴虐にして、皇風に従わず。俄に官軍動発りて襲はんとするの間に勢の勝つまじきを知りて、一人豊前国上膳の県に逃れ、南の山の竣しき嶺の曲に終てぬ。

磐井の子の筑紫君葛子は命乞いに糟屋屯倉を献上した。 葛子:蔑称か?


5.その後

529 継体23                     百済、倭国への朝貢の道筋として加羅の帯沙津を利用したい旨、                               倭国に申し込む。これは割譲の要求。
                            加羅王反発し新羅と婚姻関係を結ぶ。
磐井は半島情勢に通じており、新羅の任那侵攻は防ぐことができないと考えていたのでは。
ヤマト王権は任那の回復に固執しすぎ、だめと悟ったのは130年後の白村江の敗北。
新羅の金官国への侵略を止めるため、近江毛野を安羅に派遣するも、国際感覚がない人物であり、全くの失敗に終わった。筑紫の民を徴兵していない。磐井は死んで筑紫の民を守ったといえる。

530 継体24 毛野、失政。帰国命令に従わず、安羅王を連れて籠城。王、百済・新羅に引出を依頼。
                            安羅王は百済に安羅への侵攻の口実を与えてしい、結局、                                  安羅は新羅・百済により蹂躙された。

531 継体25 近江毛野 帰国途上対馬で病死。
   継体天皇死去。安閑をしりぞけて欽明天皇が即位とする有力な説がある。
   『日本書紀』が「百済本記」を引用して、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んだ。とある。
   高槻今城塚古墳(継体陵)から、石棺が3個出土している。符号する。

532 倭にとって驚天動地。              金官国=狗邪韓国=任那=南加羅、新羅に降伏。
                             新羅は加羅王族に相応の地位を与え、国政参加を求む。
                             他の加羅諸国、これを注視。新羅巧妙な戦術。

534 安閑元 南武蔵の豪族上毛野君が反乱。鶴見川・大岡川・雉子川流域の豪族。杉山神社多い。

国造制・屯倉の設置の進行。大王権拡大。
地方豪族を国造に任命し、支配地域を制限していく。
磐井は筑紫・豊国・肥国を支配していたが、宗像君が筑前国造になる。

535 安閑二 筑紫の穂波・鎌。豊国の謄碕・桑原・肝等・大抜・我鹿。火国の春日部 各屯倉設置。
ヤマトの北九州の直接支配が進む。ここに磐井の九州独立国家構想は潰えた。

参考
熊谷公男『大王から天皇へ』講談社 原田大六『磐井の乱』三一書房 田村圓澄『磐井の乱』大和書房

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system