Uga 水 宮井用水

1.水と神
 早朝、緑の葉の上の露の中ひとつひとつに太陽がある。そこに神がいる。
 清冽な川のせせらぎに耳を傾ける時、ただごとではないと感じるのは、神との出会いである。
 せせらぎの音(瀬音)が変わると、神の示現を観念する。音なふ は おとずる こと。

2.稲作と水
 水稲には水が不可欠であるが、途中で田の土がひび割れするほどに晴天が続けば豊作といわれるが、そのまま雨が降らず水を欠かせば、凶作となる。
 農民は雨が降ると洪水の心配をし、降らなければ旱魃にならないかと心配する。意のままにならない自然に対して神にすがるしかない。それだけに豊穣をもたらしてくれる神々や祖先への祈りは欠かせない。無事に収穫を終えたのち、神への感謝の祭りが盛大に行われる。

紀ノ川の下流の古代

 現在の各地の標高 日前宮付近 3m  静火神社付近 1m 田井の瀬 4m
             井の口  7m   船戸  13m

3.木の国 名草郡の延喜式内社の神々
 『日本書紀』 五十猛命と妹の大屋津姫命次に抓津姫命、この三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。
 『社伝』現在日前国懸神宮が鎮座している名草萬代宮の地に、伊太祁曽神社が鎮座していた。
 木の国の国造となる紀氏が祀っていたのである。
 『永享文書』 垂仁天皇十六年 大和の王権の伸張の中で紀氏は自らを天孫系とするべく、伊太祁曽神を山東の地に追いやり、日前国縣神を祀るようになった。紀国の国譲りと言われている
(実際の遷座は天武・持統朝のころで、伊勢神宮と日前国懸神宮の創祀は同じ頃と思われる。)

 『日前国懸神宮の創建伝承』 神武東遷時、天岩屋の前で使用された天照大神の姿をかたどった鏡を、紀伊國造家肇祖の天道根命が賜り、紀国に持ち込み、琴の浦の岩上で祀った。
 『日本書紀』崇神天皇の時、天照大神を豊鍬入姫命に託し宮殿から外に出した。
 『大神宮本紀』豊鍬入姫命は木乃国奈久佐浜宮に天照大神を斎祀った。この時、琴の浦で祀っていた日鏡・日矛を合わせ祀った。3年後、伊太祁曽神社から社地を譲り受け名草萬代宮の地に遷座した。

 『続日本紀』大宝二年(702年)に勅命で伊太祁曾神社に祀られていた五十猛神、大屋都比賣神、 抓津比賣の三神を分遷し三社にわけて祀っることになり、現在にいたっている。

 最澄の作とされる『長講金光明式』に、名草溝口上下神の名がある。日前国懸神宮のことである。

 『延喜式神名帳』 高積比古神社、高積比賣神社。これらの神々の伝承は伝わっていない。高積比賣を抓津比賣とする説がある。高積比古を伊太祁曽神とし、中世、手力男神としていた。伊太祁曽は「日抱尊」ゆえ。

 『延喜式神名帳』 堅真音神社 有馬村に音浦といへる田地に鎮座。音明神。
 『延喜式神名帳』 鳴神社 ナルは川。治水の水門神を祀る為に創始された。

 『住吉大社神代記』に、武内宿禰が祀ったと言う、紀伊三所神の一つに静火神社がある。

4.紀ノ川下流の左岸の開発
 紀ノ川は多雨の大台ヶ原に源流をもつ水量豊富な川である。弥生後期には河口付近で流れは西から南に方向を変え、和歌山城の東側を流れていたとされる。
 この頃の河川は堤防なども整備されておらず、暴れ川で洪水などで流れは大きく変わった。平地
での農業は少なく、斜面地が使用されて、そこを流れる小川の水が使われていた。

 日前宮の近くからは、古墳時代初期(4世紀)の水路が発見されている。これは幅7〜8m、深さ3mと現代の水路にも劣らぬ大規模なものであった。
 律令時代には、水田地帯には条里制の地割がなされており、当時から相当広範囲にわたって水路網ができていた。

 紀ノ川南岸の紀氏は、用水路の確保のための潅漑を古墳造営より優先させたようだ。4世紀以前の古墳は特定できていない。
 紀氏が大きい勢力を持った古墳時代を通して、名草郡にはあまり大きい古墳が築かれていない。6世紀前半のの天王塚古墳が86m長が最大である。4世紀末の花山一号墳が52m、最古とされる秋月一号墳で29m。
 現在の宮井用水は紀ノ川中流の岩出市船戸から紀ノ川と平行して南岸の平地を流れている。紀ノ川の分流を利用した可能性がある。
 当初は、下流の田井ノ瀬付近から導水しており、その後、水位の関係井で取水口が上流になっていったのではないかと推定している。用水の分水がなされた音浦から三方向に溝があり、名草平野と和田盆地を潤していた。和田盆地には和田川が流れていたが、海水が逆流して、稲作には使えなかった。そのため、和田川をくぐって水が曳かれていた。樋を沈めていたので、静火神社が祀られていたものと思われる。

宮井川の流れ

5.名草溝口上下神
 平安時代に日前宮は溝口神とよばれていた。しかし宮井用水が築かれていた古墳時代には、後に紀伊国造となる紀伊直の祖がここで祀っていたのは、祖神である国津神であった。五十猛神である。

 日前国懸神宮であるが、天照大神を皇祖神としていった天武・持統朝の頃に、東は伊勢神宮、西に日前国懸神宮を整備していったものと思われる。
紀の川南部の条里


6.条里制
 7世紀の大化の改新以降に土地を碁盤目に区画する条理制が実施された。
 右の図に見るように、和歌山市での条理の面積2218ヘクタール(甲子園グランド 1700個)の水田を潤す水量は相当 な量にのぼり、紀の川 豊富な水量を活用する以外には不可能であり、往古の紀直の祖の先見性に目を見張るばかりである。

条里

7.和田川と大池と覚鑁上人
和田川は山東盆地を西に流れているが、盆地全体の水田を潤す水量がなく、 これを知った覚鑁上人は村人を誘い、伊太祁曽神社の上流4km程の山間部の低地に大池を掘って 潅漑用水とした。12世紀。
覚鑁上人は根来寺を開き新義真言宗の開祖となった。岩出市根来を拠点とし、山東荘を取り込んだ。
根来寺の守護神として伊太祁曽神社と関わった。

 さて、日前国懸神宮を祀る紀伊国造は宮井用水を維持していた。
 取水口が洪水で破壊されて、その上流に新たに取水口を設けた、しかしその場所は根来寺領であり、両者の間で紛争が勃発した。

『紀伊名所図絵』船戸の取水口の祭礼

紀伊名所図絵から
 往古、神霊蛇と化して、竿を含んで草莱薙ぎ除き、堰水を疏鑿し給ふといふ。その竿の尺なりとて、川幅二丈一尺と相定めしなり。毎年初夏に日前・国懸両大神をと渡御なしたてまつる。
 祭礼の事終わりて、水門をひらくの恒例なり。いかなる旱魃にもこの堰水涸るゝことなし。


 8.日前宮と山東荘の争い


 日前国懸神宮と伊太祁曽神社とが鎮座している名草郡は日前宮の神領であった。その一部である山東荘は根来寺(大伝法院)の領地であり、ここに両者の間に紛争が絶えなかった。

日前宮の神人が山東荘に乱入し住民の衣服をはぎ取る。

日前宮の祭りの費用を負担させようと住宅に乱入、榊をたてて検封した。

300人が荘内の作田を刈り取り、住民を殺傷した。

 日前宮が繰り返し山東荘に乱入を繰り返すのは、名草郡については、荘園・公卿の地を問わず、往古の例をもって本役・神事を勤仕せしみべし。との官符がでていたからである。

 一方、山東荘は官符において、大伝法院所領の諸荘園は国内の一切の所課を免れており、日前宮の神事も何らの負担をする必要がないのであった。


 9.室町時代の水争い

 日前国懸神宮と根来寺・伊太祁曽神社との対立は室町時代にも勃発した。
 永享 5 年(1433)5 月に日前宮・岩橋荘・和佐荘の間で勃発した用水利用の権利争いである。
 宮井用水の最も上流に位置する和佐荘が、日前宮の管理する下流域への用水路か引水したという理由から一連の争いが起こった。
 和佐荘を訴えたのは、宮井用水の支配者である日前宮であった。

日前宮の主張
 日前宮の主張では和佐荘と日前宮および湯橋荘が利用する用水溝と和佐荘の用水溝はそれぞれ別に存在していたとされている。湯橋荘は岩橋荘が石清水八幡宮の荘園となった際の呼び方。
 日前宮は和佐荘の鎮守である高大明神(高積神社)を「当社之末社」であるとして、カミの序列における優位性を強調している。カミの序列が世俗的な世界の裁判にまで持ち出されている。用水の利用権はカミによって保障されるものであるということ。

和佐荘の主張
 今の日前宮領千町は、もとは高大明神の祭神である手力雄尊(たぢからおのみこと)が鎮座して いた地であって、日前宮のカミがやってきたときにその千町を日前宮のカミに譲り渡し、手力雄尊は山東の地へと遷り、さらに現在の和佐荘高積山に遷ったとしている。


これは伊太祁曽神社が山東に遷座し、さらに三神分遷を強いられたことを室町時代の理解に基づいて述べている。手力雄尊とは日抱尊で伊太祁曽のことである。

 日前宮が社地譲り以後毎年数度高大明神において神事を行っているが、それに対して未だかつて和佐村が費用負担ななどを行ったことなどなく、むしろ高大明神のほうが本社との主張である。



10.音浦堰斗門 紀伊名所図絵から

『紀伊名所図絵』音浦堰斗門


堅真音神社
 かたまーお 音は音浦の樋

かたま は 漏れ出るとろがない。または水門が二つ並んでいることか。


堅真音神社の北にあり。
 斗門(ひぐち)は紀の川を堰入れてその瀦(みずたまり)なすこと至って大なり。

参考

和歌山市秋月日前国懸神宮 堰祭

水土里ネット紀の川左岸〜紀の川左岸土地改良区〜

宮井用水をどう教えたか - WAKWAK

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system