UGA八幡大菩薩の成立と応神天皇霊



 宇佐神宮の神体山である御許山(大元山)に東面する三個の石体と泉がある。

原初の宇佐の神は水分神であり農業神であったと思われる。

紀神代一書 三女神の市杵嶋姫命、湍津姫命、田霧姫命を宇佐嶋に降臨。

神武東征途中宇佐に寄る。そこには菟狹國造祖の菟狹津彦と娘の菟狹津媛がおり、媛を中臣氏之遠祖天種子命に娶した。

宇佐託宣集絵巻御許山磐座(左上の三個)



宇佐神宮 大元神社 磐座の鳥居




垂仁二年 大加羅国から来た童女を国東半島の東の姫島の比売語曽神として祀った。

豊前風土記 昔、新羅の国の神が自分で海を渡って来着いて、この河原に住んだ。名づけて香春の神という。郷の北に山がある。第一の嶺には黄楊樹(つげ)がある。第二の峰には銅と黄楊、第三の峰には龍骨がある。(実際は第三の峰に銅が多かった。採銅所があり、国内の半分の生産量であった。) 香春神社の祭神は辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命である。

古墳時代 宇佐の地は古墳の密集地。前期は宇佐氏の古墳と思われる。

4世紀末前半 赤塚古墳 5個の三角縁神獣鏡出土 畿内と同氾鏡。ヤマト王権と関連がある。


5世紀末後半 姓氏録、雄略天皇不予により、豊国奇巫(きふ)を召上げた。仏教関係か不明。

5世紀末 辛島氏、筑紫から東へ進出し、宇佐に入り、留まる。

527 継体21 九州の豪族磐井が反乱、鎮圧された。宇佐氏も荷担したので衰退。

562 欽明23 韓半島の大加羅が滅亡。多くの亡命者が宇佐地方にも移住して来た。

6世紀後半 宇佐氏の後に大和から大神氏が入植。辛嶋氏を服属させた。

571 欽明32 『承和縁起』840年頃 神が宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国胆吹嶺(宇陀郡伊福 大神地名)、紀伊国名草海島(名草郡)、吉備宮神島に遷り、宇佐郡馬城嶺に顕現。その後比志方荒城磯辺に遷り、さらに泉社、郡瀬社、鷹居社と遷った。ここで大神はあらぶる神となり、鷹と化し、5人行けば3人殺す。治まってから小山田社に遷った。

571 欽明32 『宇佐託宣集』1313年古記録・託宣を選修。  天童と現れ言わまく。「辛国の城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神となれり。釈迦菩提の化身なり。」と。神の移動経路 宇豆高島=辛国城=霧島山 大和国胆吹嶺 紀伊国名草浜 吉備宮神嶋 云々。

『託宣集』の「大隅宮(正八幡、鹿児島神宮)縁起」年不明 以下の伝承がある。陳大王の娘大比留女は、七歳にして懐妊す。略。只朝日の光、胸の間にあり。しかる後懐妊して子を生む。三歳の時、問ひて云く。君は誰人ぞ。答えて云く。「我が名は八幡」と云う。

587 用明2 用明天皇の病気を治すために、豊国法師を内裏に入れた。

608 推古16 随の裴世清、筑紫の東に秦王国ありと報告。新羅系渡来集団が居住。

620 推古28 「天皇記」「国記」編纂。

645 皇極4 乙巳の変 大化の改新。

661 斉明7 斉明天皇、百済救援のため、北九州へ遠征。斉明死去。

662 天智2 白村江の戦いで大敗。
唐・新羅連合軍との戦いであるが、宇佐の地名も神名も記載がない。香椎宮や神功皇后の名も出てこない。天皇紀国記は既に編纂されていたが、記載がなかったのだろうか。

702 大宝2 薩摩の隼人の反乱

703 大宝3 『続日本紀』宇佐国造家の出身の僧法蓮が医術によって賞された。一族を宇佐君に。宇佐の復活。

708 和銅元 大隅宮に社殿が建立され、祭神は石体宮から遷った

712 和銅5 『託宣集』 鷹居社の造立。大神比義と辛島乙目による。新しい神の創造と思われる。辛島氏の祖神は五十猛神。大神氏の祖神は大物主神。この二神の融合。後に小山田社に遷座した。

713 和銅6 日向国からわけて大隅国できる

714 和銅7 隼人の教導のため、豊前国から200戸、5000人を移住させる。豊国郷や大分郷を設置している。移住の主体は辛島氏配下の在地性が薄い渡来人でだった。韓国宇豆峰神社「五十猛神」を建立している。神体山は霧島山の北の韓国岳と推定している。当然の事ながら隼人の土地を奪って移住したので隼人の反発は大きかった。

716 霊亀2 鷹居社から小山田社に遷座。

719 養老3 大隅隼人の大がかりな反乱が始まる。

720 養老4 「日本紀」完成。隼人、大隅国守を殺害。大伴旅人を大将軍として鎮圧、大がかりな反乱としては最後になった。

 反乱は豊前から移住者が行って六年後のこと、当然宇佐からも救援のために兵士が出た。かれらは小山田社の神を奉じて参戦した。連隊旗をはためかして進軍する姿を見た歌人でもある大伴旅人はこの神をヤハタと呼んだのであろう。八幡大神の降臨である。また、福永光司氏によれば、唐の軍隊の制度の「八幡・四鉾」に由来すると云う。鎮圧軍は韓国宇豆峰神社に集結し、気勢を上げた。

『託宣集』の「辛国の城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神となれり。」神の移動は、宇豆高島=辛国城=霧島峰 からとなっている。大隅に降臨し、霧島山(高千穂峰)を神体山とした神である。『託宣集』は別の所で、辛国の城を日州辛国城・隅州辛国城と記している。

『今昔物語』平安末期 「八幡大菩薩は最初は大隅国に現れ、次ぎに宇佐宮に遷り、ついに石清水八幡宮に跡を垂れた。」とある。

大隅宮は元々は隼人の祖神を祀る高さ四尺の磐座であった。戦いが済んだ後、社殿に八幡大神を遷し祀ったのであろう。従って大隅正八幡と呼ばれた。

『託宣集』の「大隅宮縁起」に、年号はないが以下の説話が採録されている。

陳大王の娘大比留女は、七歳にして懐妊す。略。只朝日の光、胸の間にあり。しかる後懐妊して子を生む。三歳の時、問ひて云く。君は誰人ぞ。答えて云く。「我が名は八幡」と云う。

九州での八幡大神は蛮夷の鎮圧の神として権威は高まった。

征討が終わると宇佐八幡神は託宣を下し、多くの殺生を行ったので、罪障に苦しんでいる、、放生会を修して罪障を消滅してほしいと云った。

もともと、香春で鋳造した銅鏡を宇佐八幡に奉上するのが放生会の本来であった。途中に和間浜によるようになり、生物を解き放ったので放生会と呼ばれるようになった。

大隅では西に辛國息長大姫大目命、採銅所があり、東に宇佐八幡宮が鎮座。

豊前げは東に韓国宇豆峰神社と銅田地名、西に正八幡が鎮座となった。

724 神亀3 聖武天皇〜749 菩薩国家、即ち誰もが仏の道を目指す国造りを目指した。した。八幡神は軍神として律令国家の西方の境界を守り、放生と云う仏教的手段によって。殺生によって引き起こされる病から国を護った。その意味で、八幡は日本初の鎮護国家の神であった。

725 神亀4 『承和縁起』小倉山に社殿を建立。宇佐八幡登場。弥勒寺は既にあった。 

731 天平3 八幡神は中央政府の神祇官より幣帛を賜ることになった。官幣社となる。

宇佐八幡の誇り高き伝統である「宇佐使」の始まりである。途中で途絶えたこともあったが、今日まで続いている行事である。

御許山の地主神の比売神が、「大菩薩に副い奉りて化道を助け奉らん。(八幡が大菩薩となるのは8世紀末)と託宣した。また新羅との緊張関係の中で、対新羅神として出現したとも考えられる。

736 天平8 比売社殿造営。

737 天平9 対新羅神として奉幣を受ける。八幡神、史書に初出。

740 天平12 藤原広嗣が九州で反乱を起こす。鎮圧のため八幡神に祈祷。

741 天平13 日本最初の神宮寺としての弥勒寺が宇佐八幡の境内に建立された。

743 天平15 聖武天皇、廬舎那仏(大日如来:大仏)発願の詔を発す。

747 天平19 東大寺大仏造営開始。朝廷は八幡神に大仏造律祈願をさせた。八幡神は、「神吾、天神地祇を率しいざないて、成し奉つて事立て有らず。銅の湯を水となすがごとくならん。我が身を草木土に交えて、障へる事無く成さん。」と云う有名な託宣を発した。

日本の神々のトップに躍り出た。香春岳から採れる銅と精錬技術を背景に支援できるとの読みがあった。仏教に帰依の先頭を切っているとの自負、仏法擁護に大きく踏み出した。

748 天平20 大仏途金の金が途絶え、使者を唐に派遣して入手しようとした。使者は出発し宇佐八幡宮に立ち寄り、往還の平安を祈っていた時、託宣があった。「求むる所の黄金は、将にこの国土から出づべし。使いを唐に遣わすなかれ。」と言うものであった。

749 天平宝字元 はたせるかな、陸奥で金が発見されたのである。

大仏拝礼のため八幡大神入京、憑坐(よりまし)の大神杜女が紫の輿に乗って上京し大仏を拝んだ。文武百官を率いた孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后の行幸いしているさなかのことである。

 八幡大神一品 比売神二品 神階を受けた最初の神。一品が与えられているのは、ばくぜんと天皇霊と思われていた。皇祖扱である。

752 天平宝勝4 大仏開眼供養。

754 天平宝勝6 薬師寺の行信と八幡神宮の主神大神多麻呂、禰宜大神杜女が厭魅(呪詛)をなしたとして配流される。反聖武の光明皇太后・藤原仲朝呂に怨念。

755 天平宝勝7 八幡大神は託宣して封戸と田を朝廷に返上す。

 『託宣集』八幡神は宇佐を去り、四国宇和嶺に去り、十数年帰らず。
 比売神は残っていた。

764 天平宝字8 孝謙太上天皇、八幡大神に戸二五烟が与えられた。復権である。

765 天平神護元 称徳天皇天重祚(出家天皇の登場)。
 仏法を守護し尊崇するのは諸神である。神仏習合政治形態の開始

769 神護景雲3 道鏡騒動 太宰府から宇佐八幡宮の神託として、道鏡を皇位に即しめよ。

 和気清麻呂、宇佐八幡宮に赴く。禰宜の辛嶋与曾女が託宣。「君臣定まりぬ。無道の人は掃い除くべし。」 称徳・道鏡の逆鱗にふれ、和気清麻呂は大隅に流された。

770 宝亀元 称徳天皇他界。神仏習合政治消滅。
 光仁即位。井上内親王立后(聖武の娘)。

772 宝亀3 天皇を呪詛したとして井上皇后と他戸皇太子を廃し、幽閉。

777 宝亀8 八幡神出家する。また765年の聖武が埋葬された年月日と同じとの説。
 八幡神は太上天皇御霊とされた。聖武霊のこと。

779 宝亀10 新羅使を最後に途絶える。関係険悪化。

781 天応元 光仁退位。桓武即位。聖武ゆかりに嫌悪感を持つ。八幡神も抹殺を恐れた。しかし、抹殺すれば怨霊神として現れるのを恐れた。
 八幡新社殿を造営、大自在王大菩薩を称した。 

783 延暦2 護国霊験威力神通大自在天大菩 と称した。八幡大菩薩の誕生である。

810 弘仁元 新羅船二十艘以上が対馬を窺う。この頃から新羅から渡来・漂着・帰化が激増。新羅国内、飢饉など大いに乱れていた。 

815 弘仁6 太宰府解 八幡大菩薩是亦太上天皇御霊也(聖武のこと)聖武の娘の井皇后と他戸皇太子の怨念に悩まされる。これを八幡の祟りとも受け取られた。

820 弘仁11 駿河遠江の新羅人八百人が蜂起、これを契機に受け入れない方針に転換。宇佐宮に大帯姫を祀れとの託宣があった。宗像三女神を比売神として取り込んだ。

823 弘仁14 宇佐八幡境内に大帯姫細殿一宇を新造。この頃には大帯姫は神功皇后のことと理解されていた。

八幡神を護国の神としての位置が確固たるものになった。しかし未だ応神霊ではない。

836 承和3 遣唐使を派遣、神功皇后山陵に国家護持の宣命使が派遣されている。

844 承和11 『弥勒寺建立縁起』に引用された大神朝臣清朝呂解には「右大菩薩御神者、是品太天皇御霊也。磯城島金刺宮御宇天国排開広庭天皇・欽明天皇の御世 於豊前宇佐郡馬城嶺始顕坐」とある。

八幡大菩薩は応神天皇御霊であると記している。このようにこの頃一般化していった。

859 貞観元 八幡神を石清水八幡宮に勧請した。

879 元慶3 頃成立の『住吉大社神代記』には、八幡大神は応神天皇霊とある。

1063 康平6 京都の石清水八幡宮から鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)として勧請。



 応神信仰は 、対新羅にかかかわる神功皇后信仰から一歩進んでの胎中天皇信仰になる。更に八幡神は軍神としても再認識された。


 
八幡信仰には、御許山の磐座から下がった所に泉があり、神が菱形池の側に出現したりと水に関係が深い。即ち、元々は農業神であった。『日本霊異記』には、矢羽田大神宮寺の言葉ある。和銅六年713年に好字二字令が出ており、ヤハタは八幡と書かれるようになったのだろう。ヤハタは田を褒め称える言葉である。そうすれば誉田(ホムタ)も同じ言葉であり、ここから応神天皇が出てきたのかも知れない。

 
大菩薩とは、仏になるための修行のある程度の段階に進んだ者を大菩薩と云う。八幡大菩薩は地蔵大菩薩と同じ形をしている。即ち僧形沙門形・比丘形である。この大菩薩は衆生が悉く成仏しない限りは仏にならないのである。成仏しない仏である。地獄に居て、衆生を極楽に送り続けるありがたい神である。元々、日本の神々は蛇の形などのあさましい姿をしているものもある。成仏できないと覚悟をして仏教に帰依したのである。

参考文献 『日本の神々1』白水社、『八幡神とはなにか』飯沼賢司 角川選書、『八幡神と神仏習合』逵日出典 講談社現代新書  『神々の原像』西田長男・三橋健 平河出版社

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