聖武天皇と難波 平成22年2月 神奈備

御坊の道成寺に伝わる口伝。


紀国日高郡に兄弟9人の海人がいて、中に一人の乙女がいた。名は宮。ある時、海底から
淡い虹のような光が射した。宮は海に潜って黄金の千手観音像を発見。宮は長い髪に包み
持ち帰って大切に祀った。   藤原不比等参内の折り、南門に雀が巣を作った。その巣は長
い黒髪で出来ていた。帝に奏した所、その人を捜すことになった。宮を見つけた。妾は賤の女
女、8人の兄がいます。兄達の心に任します。それで、宮を伴い、都へ帰り、不比等のやしな
い子として宮子媛とし、文武天皇の后妃となった。聖武の母である。

701 大宝 元年 聖武・光明子誕生。文武、紀伊に行幸。
これより37年、宮子ノイローゼ状態続く。皇室がストレス。
714 和銅 七年 首皇子 立太子
719 養老 三年 首皇太子 朝政を聴く。幼く政務に習熟していない。幼弱の皇太子と見なされた。
聖徳太子に憧れる。光明子も聖徳太子信仰が篤い。難波と仏教を志向。
720 養老 四年 隼人、叛乱。宇佐八幡、隼人征討に参加。殺生の罪障に苦しむ。放生会の託宣。
724 神亀 元年 元正天皇が譲位し、首皇子が即位して聖武天皇。紀伊に行幸。
詔に不改常典、出自の卑しい母を持つ直系の子孫の皇位継承を保証する法。
即位の遅れは、天皇に不適格ではないかとのコンプレックスを抱かせた。
725 神亀 二年 僧行基 宇佐宮小倉山第一神殿地鎮御導師として参向。
摂津難波宮に行幸、八十島祭り。式部卿藤原宇合、知造難波宮事に任ずる。
昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都と都びにけり
727 神亀 四年 藤原光明子、皇子(皇太子)を出産(翌年死没)。
728 神亀 五年 夜、流れ星。赤く光る尾をひき、4つに切れて散り散りになり、宮中に落ちた。
729 天平 元年 左大臣長屋王(高市皇子の子)謀叛の密告があって妻子とともに自刃。
長屋王の母は天智の娘、妃は草壁と元明の娘、元正の妹。皇子達も皇位継承資格。
長屋王を排除して、ようやく藤原夫人(光明子)を皇后とできた。


731 天平 三年 勅使を官幣社八幡宇佐宮に参向させ始めて神宝を捧げる。
733 天平 五年 行基難波堀江に橋をかける。堀江を掘る。
734 天平 六年 難波京に宅地を班給。
737 天平 九年 筑紫から天然痘が伝染し、夏から秋にかけ大流行。
不比等の子息・藤原房前、同武智麻呂、同麻呂、同宇合の四卿他が病没。
聖武は自分の政治が良くないから災害が発生すると気にしていた。
宮子大夫人(聖武天皇生母)玄肪の看護により全快、聖武天皇と体面。
740 天平十二年 聖武天皇難波に行幸。河内国智識寺の慮遮那仏を拝礼、大仏造立を発念。
藤原広嗣が聖武を批判して叛乱を起こす。聖武は都を放棄し、彷徨を始める。

曾祖父天武の確立した天皇制に更に仏教による呪術的宗教権力を加上したい。
名張の北東の安保頓宮から天武は上野鈴鹿の道をとるが、聖武は青山峠を越えて河口頓宮
(関宮)で10日、狭残行宮まで行き、鈴鹿の赤坂頓宮で9日、それから不破関に。伊勢で20日。

神風の伊勢の国で、日を祭る国の”光の洗礼”を受けることを目的とした。
伊勢天照大神は天皇家の祖。その垂迹の光明普遍の毘廬舎那仏は光の子聖武天皇の上に輝く。


741 天平十三年 国分寺国分尼寺建立詔。

聖武は血脈のコンプレックスから吹っ切れた。賤に目覚めた。
聖武は行政機構を通さず民一人一人と結びつくことで官僚機構の上に君臨する
従来の天皇を凌駕する立場に立つことができた。これが賤の子の真骨頂。
天武天皇と同じように新王朝の始祖であろうとした。仏教国家の始祖を目指す。



不可触 穢多 蝦夷 庶民 役人 貴族 天皇 不可触
恐れ 家人 隼人 私度僧 僧侶 僧正 皇族 恐れ
畏怖 奴婢 海士 畏怖
無姓 ←賤民 良民→ 無姓


741 天平十三年 小野朝臣東人を東西の市で杖でそれぞれ50回打ち、伊豆の三島に流した。
難波宮の殿舎や楼閣に鸛(オオトリ)108羽集まって来ているので鎮め追い払った。
難波宮の庭に狐の頭がちぎれて落ち、体部のないものがあった。怪異を鎮祭した。
743 天平十五年 虞遮那仏金銅像の造立を発願(「大仏道立の詔」)。知識方式(自発的協力者で)。
知識(智識) 結縁のため寺に寄付すること 信者の団体・講。
神々も知識として参加。陸奥の黄金山神社。豊国の宇佐八幡。


国家と天皇家には藤原氏の氏寺興福寺を越える寺院が必要だ。
大仏の銅の所要量は約500頓。長門国の長登(奈良のぼり)銅山が主。香春の銅もと言う。

宇佐八幡の託宣 天神地祇を率い誘いて大仏の造立を必ず成就せしめるであろう。
天神 伊勢 山城鴨 住吉 出雲国造斎神(熊野大社)の類
地祇 大神 大倭 葛木鴨 出雲大汝神の類
宇佐八幡は仏教に帰依した最初の神、それが仏教擁護の神の筆頭に立った。

宇佐八幡の放生会は香春岳の銅から銅鏡を作り、宇佐八幡に奉納する祭り。
香春の赤染氏が宇佐の豪族大神氏や辛島氏への服属儀礼と見なされている。
赤染氏の祭る神、香春神社の祭神 辛国息長大姫大目命。長屋王の家令は赤染氏。
辛島氏 素盞嗚尊−五十猛神の末裔。
次ぎに 豊都彦 豊津彦 都万津彦 曽於津彦 身於津彦 照彦 志津喜彦 児湯彦 諸豆彦 
諸豆彦の次ぎに山下影日売−武内宿祢(紀朝臣の祖)。諸豆彦の次ぎに宇豆彦(紀直の祖)
豊国の渡来神 現人神社 都怒我阿羅斯等 香春神社 辛国息長大姫大目命
八幡大神 古吾れは震旦国の霊神なりしが、今は日域鎮守の大神なるぞ。
比賣語曽神 赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛の妻と伝える。

744 天平十六年 聖武天皇は群臣に、恭仁と難波のどちらを都とするかの考えを聞いた。アンケート。
天皇は市に役人を遣わして、京をとこにするべきか問わせた。恭仁・難波。
駅鈴・内外の印を恭仁京から難波に運ばせた。高御座・大楯・武器も難波に。
難波宮に行幸。首都とする。聖徳太子・天武天皇の夢の実現。

難波は渡来人と渡来系の人々にあふれた河内は非伝統の異国間隔にあふれた小さな外つ国。
海の彼方を望む風土の「押し照る」輝かしさは、そのまま絢爛とした異国情緒でもあり、聖武の
夢の彩りを決定するもの。浄土につながっている土地。

日が昇る伊勢神宮 日の盛んな東大寺大仏殿   日の沈む難波宮
神島−夫婦岩−外宮 毘廬舎那仏   四天王寺の西門


745 天平十七年 紫香楽を新京とす。放浪をやめた。知識方式の行基を大僧正とする。
行基は民衆扇動仏教でもあった。本来権力からは睨まれる存在だが活用した。
紫香楽京の近くで火災が頻発。地震も相次いだ。紫香楽を放棄。
太政官は諸司の官人を召集して、どこを都にするか問うた。皆、平城。アンケート。
四大寺(薬師・大安・元興・興福)の僧侶達に、都の場所を聞いた。平城。同上。
平城還都。この年、難波に行幸。重い病気に罹った。
平城京から駅鈴・印を難波に運ばせた。黄文王、橘奈良朝呂のクーデター防止。


749 天平二一年 天皇、行基より菩薩戒を受ける。史上発の天皇の出家。行基死す。
陸奥国、黄金を献上(国内初の産金)
天皇、東大寺に行幸、慮遮那仏を礼拝し三宝の奴と自称
天平勝宝元年 阿部内親王(孝謙天皇)即位
八幡大神託宜して入京。祢宣尼大神杜女、紫色の輿に乗って大仏を拝した。


751 天平勝宝三年 大仏殿造営完了 仏教界においては、世界史的偉業である。
756 天平勝宝八年 聖武、難波に行幸。5月没する。



難波の風景
1726 難波潟 潮干に出でて 玉藻刈る 海未通女ども 汝が名告(の)らさね
返歌1727 漁りする海人とを見ませ草枕旅ゆく人に妻とは告らじ
4460 堀江漕ぐ 伊豆手の船の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈(みお)早みかも
238 大宮の内まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あこ)調(ととの)ふる海人の呼び声 以上


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