雄略天皇と時間の不思議
『古事記』雄略天皇と引田部の赤猪子 大和川で赤猪子と言う童女を見初めた雄略天皇はそのうちに迎えるから 嫁に行くなと言ったきり、忘れており、童女は80になりました。婚せんとも、すっかり老女となった赤猪子を悼み、歌を与えました。 引田の 若栗栖原若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも(歌謡九四)
どう見ても雄略天皇は若いようです。赤猪子だけが歳をとるのかいな。何と残酷!
『日本書紀』巻十四雄略天皇二二年(戊午四七八)七月 秋七月。丹波國餘社郡の管川の人、水江浦嶋子が舟に乘って釣りをしていた。そして大龜を得た。それがたちまち女となった。浦嶋子は感動して妻とした。二人は一緒に海中にはいり、蓬莱山に至って、仙境を見て回った。この話は別の巻にある 。 『日本書紀では戻ってきたとは記していません。また亀からなった女はただの女のようで、神女とはなっていません。
『万葉集巻九 一七四〇』 http://www.manyo.jp/heiseimanyo/manyoshu/019_1.html
『万葉集巻九 一七四〇』
水江(みづのえ)の浦島の子を詠める歌一首、また短歌
春の日の 霞める時に 住吉(すみのえ)の 岸に出で居て 釣舟の たゆたふ見れば 古の ことそ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛(たひ)釣りほこり 七日まで 家にも来ずて 海界(うなさか)を 過ぎて榜ぎゆくに 海若(わたつみ)の 神の娘子に たまさかに い榜ぎ向ひ 相かたらひ 言(こと)成りしかば かき結び 常世に至り 海若の 神の宮の 内の重(へ)の 妙なる殿に たづさはり 二人入り居て 老いもせず 死にもせずして 永世(とこしへ)に ありけるものを 世の中の 愚(かたくな)人の 我妹子に 告(の)りて語らく 暫(しま)しくは 家に帰りて 父母に 事も告らひ 明日のごと 吾(あれ)は来なむと 言ひければ 妹が言へらく 常世辺に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば この篋(くしげ) 開くなゆめと そこらくに 堅めし言を 住吉に 帰り来たりて 家見れど 家も見かねて 里見れど 里も見かねて あやしみと そこに思はく 家よ出て 三年(みとせ)の間(ほど)に 垣もなく 家失せめやも この筥(はこ)を 開きて見てば もとのごと 家はあらむと 玉篋 少し開くに 白雲の 箱より出でて 常世辺に たなびきぬれば 立ち走(わし)り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消(け)失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆりゆりは 息さへ絶えて のち遂に 命死にける 水江の 浦島の子が 家ところ見ゆ
住吉の岸から船出をしています。これは摂津の住吉なのでしょうか、丹後の網野神社の鎮座地を墨江浦浜と言うそうで、丹後かも知れませんが・・。 万葉集の歌では亀は登場せず、直接に海若の神の娘子と結ばれました。帰って来て玉篋を開けてたちまちの内に死んでしまったと言う内容です。
『 丹後国風土記逸文』
浦嶼子は五色の亀を獲って船に置きました。亀は娘に変わり、天上仙家に誘いました。 楼殿に着くと七たりの竪子、八たりの竪子が出ていき、浦嶼子は彼らと交代して入りました。 3年楽しい時を過ごした嶼子は玉匣を貰って郷里に帰りました。何と300年経っていました。 筒川の浦嶼子を日下部首等が先祖としています。 注1 筒川 筒は星だから銀河を表すか。星の世界を旅したとの形容ともとれます。 注2 日下部首 『姓氏録』開化天皇の皇子の日子坐王 『古事記』では、崇神天皇により丹波に派遣されました。浦嶼子はただの漁夫ではなく、丹波の支配者の一族です。 注3 五色の亀 五色の亀はたちまち美しい女となりました。神女。亀比売と言います。五とは、宇宙の五元素を示し、神仙思想の不老不死と云う観念で書かれたので300年としているのかも知れません。 また、神女との約束を破って霊験が吹っ飛んだと云うことです。だいたい男は女との約束を破っています。イザナギの命も同様です。イザナギの命の場合には地上の人間の生死に関わることでした。浦嶼子の話も寿命に関わっています。
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