ウガネット 馬

[11631]午年にちなんで、馬について。 神奈備 投稿日:2014年 1月21日(火)16時38分
  騎馬文化 渡来系武内宿禰の後裔氏族  神聖王紀生磐宿禰  紀伊の紀直と紀臣。

一.騎馬文化の年表
前40c  遊牧民の集団が湖畔や川辺など草地を求めて移動していた。
前10c  青銅製の轡が発明されたことによって、馬を自在に制御できるようになった。騎馬の開始。
前 7c  スキタイ人は弓矢・甲冑・轡・馬面などを改良し、その文化はシルクロードを経由して各地に伝わった。
前 3c〜3c  モンゴル高原に匈奴が勢力拡大。    騎馬文化が内蒙古から黄河流域へ伝達。
                         騎馬文化が満州・朝鮮半島へ伝わる。
前3c  秦始皇帝、北方騎馬民族の侵入警備のために万里の長城を建築。
前108  前漢、朝鮮半島に植民地の楽浪郡を設置。
前 37  満州に高句麗が建国される。
313  高句麗が、楽浪郡とその南の帯方郡を滅ぼす。中国の勢力は半島から後退。
                         騎馬文化、朝鮮半島南部へ。
4c  南北朝時代:西晋の政治は腐敗の頂点に達し、一部の貴族層が外部の力を借りて王朝を倒した。八王の乱。成都王が匈奴の劉淵の助けを受け、その子の劉聡が西晋を倒した。 水滸伝の時代。竹林の七賢人の清談。

  政権の腐敗はあの国の宿命。それで滅亡。 共産党政権も猛烈な腐敗。ぼちぼちの滅亡を期待しています

4c央  百済・新羅建国。半島南端は加耶など小国が分布。倭人の拠点(屯倉)もあった。
    倭国、使者を百済に送る。騎馬文化を取り入れた倭国は朝鮮半島へ帝国主義的介入。
372  百済の肖古王、七枝刀・七子鏡を献ずる。(神功紀 七枝刀、大和の石上神宮に伝承)
375  フン族西へ侵入。ゲルマン民族大移動。
381  新羅が朝貢しないため、葛城襲津彦を遣わして新羅を攻める。(三国史記)
391  倭国軍、渡海して百済・新羅を破り、臣民となす。(高句麗広開土王碑)
400  好太王、五万の兵を新羅に送り、倭国軍を破る。(高句麗広開土王碑)
  戦乱・凶作から逃れて半島から人々が牛の涎の如く渡来。
 応神  阿直岐(阿知吉師)良馬二匹を持ち込む。
 応神  韓鍛冶卓素が渡来。怡土郡託杜郷か。
5c前半  和歌山の鳴滝遺跡から大量の陶質土器、渡来人の竃址の存在を示す。
 雄略  今来才伎の渡来。須恵器・馬具製作工人の渡来。
5c末6c初  和歌山の大谷古墳から馬面冑出土。阿蘇凝灰岩石棺。




[11632]武内宿禰 神奈備 投稿 日:2014年 1月23日(木)15時41分
二 渡来人の臭いがする武内宿禰とその末裔。

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武内宿禰の母親は紀直の先祖の妹とされています。この紀直は後世では和歌山の紀直ですが、さて、当時はどこに居たのか。
『肥前国風土記』(藤津の郡の条)景行天皇が行幸した時、「土蜘蛛が砦を作って降伏しなかったので、侍臣の紀直の祖の穉日子(わかひこ)を派遣して誅殺させようとした。」と言う話がある。
『国造本紀』「成務朝に紀直同祖の大名草彦命の児若彦命を葛津国造に定め給う。」とある。
奥野正男著『耶馬台国の東遷』に、武内宿禰の子とされる氏族名の郡・郷名が北九州に分布している事を指摘されている。
地図参照

後裔士族名と場所と近くの五十猛神を祀る神社

波多の八代宿禰
 佐賀県鳥栖市幡崎町
 福岡県糸島市波多江 潤神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/maebaru1.htm
許勢の小柄宿禰
 肥前国佐嘉郡巨勢郷
 佐賀市巨勢町    大町八幡神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/sagaoma8.htm
蘇賀の石河宿禰
 筑前国早良郡曾我郷
 福岡市西区吉武   飯盛神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/iimori.htm
平群の都久宿禰
 筑前国早良郡平群郷
 福岡市西区戸切   山越で白木神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/oumaru.htm
基肄 木の角宿禰
 肥前国基肄郡基肄郷
 佐賀県三養基郡基山町 荒穂神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/araho.htm 杵島
 肥前国杵島郡杵島郷 稲佐神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/inasa.htm  佐賀県鹿島市大町町 妻山神社 http://kamnavi.jp/it/tukusi/tumayama.htm
葛城の長江曾都毘古
 肥前国三根郡葛木郷
 佐賀県三養基郡三根町

武雄市  肥前国杵島郡杵島郷
武雄神社 武内宿禰 天平七年(735) 始祖の伴行雄が神託により、御船山北麓に遷した。地名は武雄心に由来か。



[11633]武内宿禰と後裔の氏族の活躍 神奈備 投稿 日:2014年 1月26日(日)09時35分
4c中 景行天皇二五年   武内宿禰を北陸と東方の視察に遣わした。
神功皇后摂政元年   紀直祖豊耳に皇后が暗くなった理由を問われたが知らなかった。一人の翁は阿豆那此之罪と答えた。別々の神に仕える神官を同じ墓に埋葬した罪のこと。(小竹神社と丹生都比売神社)
神功皇后摂政三年   葛城襲津彦を微叱旱岐(みしかんき)につけて対馬に派遣。
4c末 応神天皇三年   紀角宿禰。羽田矢代宿禰。石川宿禰。木菟宿禰が百済国に派遣。
応神天皇十四年   葛城襲津彦を弓月の君を加羅国に迎えに行った。
応神天皇十六年   平群木菟宿禰・的戸田宿禰が加羅に派遣された。
5c前 仁徳天皇四一年   紀角宿禰を百済に派遣し国境を定めた。王族の酒君が無礼だったので、葛城襲津彦につけて進上した。
仁徳天皇五十年   天皇は武内宿禰に、「あなたこそこの世の長生きの人」と歌いかけた。
5c前 履中天皇二年   平羣木莵宿禰・蘇賀滿智宿禰・葛城円大使らは國事に携わった。
5c中 允恭天皇五年   葛城襲津彦の孫の玉田宿禰が捕えられて誅された。葛城の玉田宿禰は武内宿禰の墓域(宮山古墳)に逃げ込んだ。
5c中 雄略天皇即位前紀   葛城圓大臣宅に逃げ込んだ眉輪王と共に殺された。
                平群臣眞鳥を大臣とした。
雄略天皇九年   紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰らは新羅を攻めた。紀小弓は病没。紀大磐宿禰は父の死を聞き、新羅におもむいた。
5c後 顕宗天皇三年   紀生磐宿禰は任那から高麗へ行き、三韓の王たらんとして、神聖王を名乗った。

武内宿禰は景行天皇の時代に誕生したとされる。なくなったのは履中天皇の時代のようである。
6代の天皇の時代を生きたことになり、1代10年として60年、その時代では長寿であろうが、驚くほどのことではない。なお、後裔氏族であるが、蘇我氏がの格的登場は葛城氏が滅びてかである。後裔士族は長い期間歴史の表舞台にいる。各氏族はそれぞれの武内宿禰を持っていたのだろう。



[11634]紀生磐宿禰は何故、三韓の王を目指したのか? 神奈備 投稿日:2014年 1月29日(水)15時34分
武内宿禰かその先祖は伽耶付近から渡来してきたのだろう。記にはなく紀にある屋主忍武雄心命が渡来人かも知れない。その末裔が紀生磐宿禰であった。半島の王族であったとの伝承が紀家に残っていたのだろう。

 日前国懸神宮の社家の紀家に伝わる非公開系図。(目撃者 名草杜夫氏) 紀直の先祖に素盞嗚尊が置かれている。これは宇佐八幡の奉斎氏族である辛嶋氏に通じる所がある。素盞嗚尊−五十猛命−豊都彦−豊津彦−都万津彦−−−宇豆彦と並んでいます。九州の東側のイメージです。

 次の「伝承」は、素盞嗚尊−五十猛神は半島の王族であることを物語っています。
伝承 『日本書紀』巻一第八段一書第五 素戔鳴尊は、「韓郷之嶋には金銀があるが、もし吾兒が治める國に舟がなかったら良くないだろうと言って、鬚を杉とし、胸毛を桧に、尻毛を槇に、眉毛を樟にした。杉と樟は舟を作るのによい。」と言われた。素戔鳴尊はその子を五十猛命と名づけた。妹を大屋津姫命、次を抓津姫命。此の三神は木種を蒔いた。紀伊国にお祀りしてある。
 「吾兒が治める國」とは、韓郷之嶋のことである。素盞嗚尊−五十猛命は王族であった。

伝承 『日本の古代:倭人の登場』 太伯伝説がある。呉の太伯の弟の子孫が日本に移り住み、皇祖となったと言う。呉王家はは姫(キ)氏であったのでしょう。

 好字令でも、紀氏は紀伊氏とはしなかった。紀(き)に強い誇りを持っていたようだ。

伝承 糸島郡は伊都と志摩の合わせた郡。伊都は伊都国で邪馬台国の時代には王様がいた。神功皇后の時代、伊都県主の五十迹手がいました。『筑前国風土記』に、「高麗の国の意呂山に天から降ってきた日鉾の末裔」と名乗っています。

 新羅の王子の天日槍の祖先は素盞嗚尊・五十猛神との説がある。かれもやはり王族です。


[11635]紀の国の紀氏 神奈備 投稿日: 2014年 2月 2日(日)09時21分
紀氏には、紀直(国造)と、紀臣(朝臣)とその同族の二つの氏族がある。

紀直 紀直は祖先は九州に居たが、応神東遷と共に紀伊にやってきた。『神功紀』紀豊耳である。耳の付く人物や神は神武帝の前後四世代が著名である。天照大神の皇子の天忍穂耳尊、神武の皇子の手研耳命、神渟名川耳尊、さらに皇后の父親は三嶋溝?耳、また櫛稲田姫の父親は稲田宮主須賀之八耳神である。また天日矛は但馬の太耳の娘を娶っている。
 谷川健一『青銅の神の足跡』では、耳族は南方系の海人が鍛冶・農耕の文化を以て渡来してきたとしている。
 紀直は舟の神・植樹の神(鍛冶の神)である素盞嗚尊と五十猛神を奉じていたが、後に農耕神の要素が強い日前宮を祀った。鉄器が手に入ると次は、農業生産力のアップである。

紀直は紀ノ川の南側を拠点としていた。

名草 紀直や紀臣の祖先が紀ノ川河口に来る以前には、この地域は名草一族が支配をしていたので
あろう。『神武紀』に「名草戸畔を誅す。」とあるのがその名残と思われる。
名草一族は恐らくは紀伊の古い神である大屋毘古神や名草彦・名草姫を奉じていたのだろう。

伊太祁曽神社の場合、大屋毘古神の上に五十猛神が覆い被さって習合したものと思われる。

伊太  熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳は5c末頃の前方後円墳である。日本最古の本格的記
録文書である75文字の銀象嵌(ぎんぞうがん)銘をもつ大刀が出土している。
銘 治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三文寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太□書者張安也
訳 後半は「刀を作る者、名は伊太□」とある。伊太和とする説もあるが定かではない。伊太祁かと。


紀臣 紀臣は武内宿禰の子の紀角宿禰を祖とする。泉南から紀ノ川の北側を拠点としていた。紀直の祖の菟道彦の妹の子が武内宿禰、彼が菟道彦の女の宇乃媛を娶って紀角宿禰が誕生。
血が二重に入っている。紀臣と紀直とはほぼ同族と言える。

 紀臣は紀ノ川河口北部、淡輪、和泉谷、平群、山城の紀伊にも分布している。また瀬戸内海沿岸の各地にも同族が分布している。紀ノ川河口から朝鮮半島への行路をおさえた形になってい  る。これは何も倭王権の要請で行ったのではなく、紀臣の戦略であったろう。難波の倉庫群の建築以前に、紀ノ川河口の鳴滝に倉庫群が築かれているのは、倭王権の要請があったのかも知れない。隠れ里のイメージの倉庫群は七棟、大きさは60〜80平方メートルの高床式倉庫である。5c半ばの建築である。
  大谷古墳出土の馬冑
紀ノ川北部の大谷古墳は5c末のものとされている。右の馬冑が出土
している。モンゴル系馬冑だそうだ。韓国の光州市の月桂洞一号墳
は大谷古墳と類似。古墳文化を韓国に持ち込んだのは紀氏。
また、紀氏も「騎馬の風習」を日本に持ち込んだのであろう。



以上


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