やすやす靱物語


海産物問屋街から公園へ編

昭和三年(1928)空中写真

 昭和三年(1928)、 永代浜に楠永神社設立。境内に元御霊神社跡の碑が建っている。

 文禄三年(1594)に境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江(現在の靭)から現在地(中央区淡路町4)に遷座した。寛文年中御霊神社と改称。
 御霊神社には「うつぼ」と彫った石が置かれており、「うつぼ」から遷座して来たことを記念している。

御霊神社の「うつぼ」の碑

 明治四十二年(1909)、永代浜に住吉神社が鎮座していたが、港区の住吉神社に合祀されていった。

  昭和四年(1929)、昭和天皇の名代として甘露寺侍従が靱青年団に遣わされた。

 昭和六年(1931)、中央卸売市場が開場され、靱海産物組合の市場等に閉鎖命令がだされた。靱の商人については、従来の仕入先や販売先を維持して商いを続けていた。小売りも同様に続いていた。戦時統制経済になってから、靱の商いは崩れていった。

 昭和一六年(1941)、太平洋戦争勃発。

昭和一七年(1942)空中写真 ▲楠永神社 靱小学校

 昭和十九年(1944)、軍用機靱号を献納した。約22万円であった。

 昭和二〇年(1945)、3月13日 大阪大空襲 靱地域焦土になる。

 同年 8月15日 敗戦。戦争終結。

 同年 9月27日 大阪に進駐軍が入る。

 昭和二一年(1946)、9月26日 靱の焼け跡は進駐軍の飛行場用地として接収 秋に建設工事。

 同年 9月4日 大阪特別都市計画復興区画整理計画で敷地区に公園化案(現数公園の占める位置と異なり、四ツ棟筋・京町堀川・計画道路なにわ筋・本町通りに囲まれた地区を指定。

 同年 12月27日  南海地震

 昭和二二年(1947)、10月 海部堀川埋め立て工事開始(昭和五一年完工)

昭和二三年(1948)米軍撮影空中写真

靱の飛行場

 

 昭和二六年(1951)、9月28日 サンフランシスコ講和条約調印。

 同年 9月10日 靱会創立総会(振興町会)靱飛行場返還運動本格化。

 昭和二七年(1952)、5月 1日  6月中に返還の内定通知。

 同年  5月 11日 靱会。「公園になれ商店街の発展がないと緑化計画の撤回を。」と訴える。

 同年  6月 17日 返還される。建物は無料払下げされ、教会錆、交番所、公園事務所となる。

 同年  7月 1日 公園建設工事は失業対策事業として着手される。

 昭和二八年(1953)、1月 6日 永代浜跡の石碑建立。

 同年  4月 江戸堀川・京町堀川・阿波 堀川の埋め立て工事着手(1955年9月完工)。

 昭和三〇年(1955)、10月 21日  靱公園開園。

 昭和三三年(1958)、1月 13日 公園に隣接する靱小学校跡に大阪市立自然科学博物館開館。

 昭和三七年(1962)、1月 百聞川の埋め立て工事着手(1964完工)

昭和三九年(1964)空中写真

 

 昭和三八年(1963)、1月 大阪科学技術センター竣工。

 昭和四八年(1973) 大阪市立自然科学榛物鉱閉館。

昭和五四年(1979)、空中写真

 昭和五四年(1979)、旧靱小学校・太阪自然科学博物館の跡地に靱パークせイドコーポ竣工。

靱パークせイドコーポ 公園から


 昭和五六年(1981)、東園に梶井基次郎文学碑建立。

 平成八年(1995)、阪神淡路大震災。靱公園で液状化現象。

 この時期、大阪のホームレスは一挙に減りました。神戸に行ったのです。被災者への支援を受けるためです。しかし半年ほどで戻ってきたように思います。支援する側も見破ったのでしょう。

 平成十八(2005)、靱公園を住処として、ホームレスが青いシートで小屋を造って住んでいました。近隣の住民から見ますと、気持ち悪い存在ですが、悪い者はいなかったようです。元軍医の老人が時々見回り健康状態などを見て、無料で薬を与えていました。かれらは感謝のしるしに、イチョウの実を沢山差し上げていました。その老人は残念乍ボケてしまいました。

 靱公園を舞台に世界バラ会議を行うことになり、ホームレスに対して立ち退き勧告がでました。

 大阪市が配布した立ち退き要請の文面
 平成17年10月4日
  工事のお知らせ
 各位
  西部方面公園事務所
  近く靭公園において工事を施工いたします。つきましては、この物件(テント・小屋のこと)は工事の支障となりますので、来る11月30日(水)までに撤去していただきますようお願いいたします。
 
 工事名称 靭公園整備工事
 工事期間 平成17年12月上旬から平成18年2月末までの予定
 工事内容 自然観察園路整備、景石据付、植栽、剪定・剪除
 工事区域 裏面のとおり(裏面に整備計画図)
 連絡先 西部方面公園事務所  TEL

 大阪城公園及び靱公園内テントの強制撤去に対する抗議声明 代表連絡先 神戸の冬を支える会
  貴市が、当事者及び全国各地からの中止の要望にも関わらず、1月30日、大阪城公園及び靭公園内で野宿生活する人々のテントを強制的に撤去したことに対して抗議します。
 どこにも住む場所がなく、公園で野宿生活を余儀なくされていた人々が、自らのいのちを守るために懸命の工夫をして住居として建てたテントを、無情にも押しつぶし、撤去することは、彼らのいのちを奪うに等しい暴挙であり、また人間としての尊厳を傷つけるものであって、決して許すことができません。
 1月27日、大阪地裁は、野宿者がテントを張って住んでいる公園を住所として認める判決を出しました。大阪市北区は公園のテントは不法占拠で排除の対象となるから不安定で住所として認められないと主張しましたが、裁判所はそのような主張を退け、公園のテントは野宿者のいのちを守るためだけでなく、市民生活を送る上で欠かせない生活の拠点であることを認めました。にもかかわらず、貴市は、バラ会議開催を名目に、野宿者のいのちと生活を守るための拠点たる住居としてのテントを撤去したのです。バラを観賞することは一つの文化として尊重されるべきものでしょうが、多くの人のいのちを犠牲にまでして行わねばならないものではありません。
 また、本件行政代執行手続を進める以前に、貴市は、野宿者に対して、代替措置としてシェルター入所のみを提示し、居宅における生活保護などの選択肢を提示せず、十分な説明責任を果たしませんでした。また、当事者の話合いの要求にも応じようとしませんでした。これは、ホームレス自立支援法11条が定める要件に違反し、憲法13条及び25条、生活保護法30条居宅保護の原則、社会権規約11条に反する重大な違法行為であると言わざるを得ません。
 先に忠告したように、本件行政代執行手続に関しては、日本国内のみならず世界的に注目を浴びており、本年6月提出予定の社会権規約に関する日本政府報告書審査の際にも、今回の貴市の強引な退去強制が議論の焦点とならざるを得ません。これまで日本政府及び各地方公共団体がとってきたホームレス自立支援策の成果も、貴市の無情な行為により消し飛んでしまうことになるでしょう。
 貴市が大阪城公園及び靱公園内の野宿者の住居であるテントを違法にも撤去し、野宿者の市民権の基盤としての生活の本拠を奪い、彼らの生命を危機に陥れ、その人間としての尊厳をおとしめたことに対して、改めて、厳重に抗議します。
 また、野宿者の野宿場所を「住所」として認め、野宿者の市民権回復を可能とした大阪地裁判決に対する控訴を取り下げることを強く求めます。                                以上

 立ち退き期限が近づきますと、どこからともなく、ホームレスへの支援者が増えてきました。簡単なテントで泊まり込み、ホームレス気取りで反対運動の中心にいました。元々いたホームレスの大半が立ち退きに応じて減っていったのですが、支援を仕事としているようなプロ集団の数が増えて、市側と対抗していました。テレビ中継もやっていました。

 近隣住民としては、ホームレスがいなくなって、やはりホットしています。保育園児・幼稚園児の遊び場、若い母親が幼児をつれて日光浴、犬の散歩、老人の散歩、市民がのんびりとくつろげる公園にもどりました。

平成一九(2007)空中写真

今に残る海産物問屋さん。

今惣 昆布

 建物は貧相だが、背後に大きい貸しビルを建ててられる。おそらく、殆どの海産物問屋さんは、現在不動産業(貸しビル業)などを営んでおられる。



靱鰹節店

ホームページ
向こうの建物は尋常小学校跡の靱パークサイドコーポ。



株式会社カネマン村瀬 鰹節
ホームページ

入り口にある由緒
 ここ靱中通りは、東西に長く、江戸時代の始めより海産物問屋が通りの両側に軒を並べ問屋街の始まりが、元和八年(1622)ごろと言はれ、そして海部堀が運河として、又、荷揚げ場として永代浜が出来、市が立ち、一段と賑わった。
 昭和六年(1931)に大阪中央卸売市場が設立し、各種の市場(鮮魚の雑喉場、塩干物の靱、総合食品の天満、青物野菜の木津等ゝ)が合併し統合された。
 当社は、この地に於いて安政三年鰹節問屋を創業し現在に至っています。
(鰹節と鰹削器小売販売いたします。
 本物の味をおためしください。)




山市商店 鰹節

西区靱本町2-6-6
表札と建家

しにせの海産物問屋地図


神宗 昆布HP


 今日、大阪を代表する神宗の商品は、どこに出しても恥ずかしくない名声を得ている。
 神宗のHPから。 神宗の歩みは、天明元年(一七八一)、初代・神嵜屋宗兵衛が大坂・靭に海産物問屋(三町問屋)を構えたことから始まりました。

以上

最新の靱本町の写真
現在の靱本町google

 参考文献 『西区史 1』、『靱の歴史』川端直正、『いのちの森ー生物多様性公園をめざしてー大阪都心・靱公園の自然と歴史ー』

大阪市市政 靱公園の歴史

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