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 靱埋もれた三十三橋

三十三橋の地図



百間堀川の橋

雑喉場橋
江之子島橋

海部堀川の橋

下之橋
海部橋
中之橋
上之橋
永代橋
門樋橋

阿波堀川の橋

豊橋
岡崎橋
松栄橋
太郎助橋
奈良屋橋
花屋橋
靱橋
阿波堀橋

西横堀川の橋

京町橋
新天満橋
相生橋
敷津橋
信濃橋

京町堀川の橋

茂左衛門橋
両国橋
千両橋
千秋橋
新難波橋
紀伊国橋
羽子板橋
伏見橋
東上橋


百間堀川の橋


雑喉場橋(ざこばばし)
江之子島1丁目8
 

 建設時期 明治八年 百間堀川に架かった橋。
 昭和11年掛け替え 長さ 35.8m 幅 16.7m
 別名 下之橋、新橋
 橋は京町堀の道路上にかかっている。

昭和11年掛け替え後の写真

江之子島1丁目の京町堀通り上に橋があった。

雑喉場橋の碑
   




江之子島橋(えのこじま)
江之子島2丁目1
 

 建設時期 大正2年 谷町3丁目と川口町間の市電開通に伴い架設。
 長さ 51.8m 幅 22.8m
 本町通りの西への延長路線上に掛けられている。

工業奨励館、中央遠景は住友倉庫、日本郵船、川口郵便局」がある。
 雑喉場橋と江之子島橋の西詰とは並んでいる。斜めに別れている形になっている。

東詰から西を写した写真

同じイメージで写した。

大阪府の津波。高潮ステーションが南側にある。一見の価値あり。




 海部堀川の橋


下之橋(しもの)靭本町3丁目4  

 建設時期 寛永元年(1624)の海部堀川開削と同時か。
 明治四十三年架け替え 長さ 17.7m 幅 4.7m
 大阪市中で最初の電信線を架設した橋として有名。別名 下海部橋。

 重量3トン以上の車馬の通行は禁止されていた。
 元禄期から明治三十三年まで、この橋の下流に剣先橋が架かっていた。

南詰から北を写す。

南詰付近から北を写す。




海部橋(かいぶ)
靭本町2丁目2
 

 大正九年市電桜川ー中之島線施設の際、京町堀千両橋筋に架けられた。<あみだ池筋である。

西端に市電が写っている。

あみだ池筋から北を写す。




中之橋(なかの)
靭本町2丁目5
 

 建設時期 寛永元年(1624)の海部堀川開削と同時と思われるが、定かではない。
 昭和四年架け替え 長さ 20.9m 幅 6.8m
 別名 百間堀川につながる海部堀川の東西部分に架かる三橋の中の橋。中海部橋。

南詰から北に向かって写している。

靱公園の南側の道から北を写す。




上之橋(かみの)
靭本町2丁目2
 

 建設時期 寛永元年(1624)の海部堀川開削時と思われる。
 昭和三年架け替え 長さ 20.1m 幅 6.8m
 別名 海部堀橋

 北西に楠木が見えるが、樹齢300年の天然記念物であvった。現在の楠永神社の御神木である。
 『摂津名所図絵』に、永代浜の風景が載っている。永代浜へリンク

南詰から北を望む。左に楠木が見える。

なにわ筋西側から北を写す。鳥居と駐在所。




永代橋(えいだい)
靭本町1丁目20
 

 建設時期 寛永元年(1624)の海部堀川開削時設置。
 昭和五年 架け替え 長さ 6.1m 幅 6m
 別名 一貫して永代橋。

 この地を開発して、永代の使用権を貰ったので、永代浜と名づけられた。
 靱には、昆布、干鰯、鰹節の問屋が集まっており、荷揚げ場、店、倉庫が多かったが、昭和六年の中央卸売り市場が開設されて、多くの店舗が市場内に移転し、この地域は整然とした静かな町並みになった。軒並み老舗と云う町になった。永代浜へリンク

永代橋東詰めから西を望んだもの。

同じようだと思われる場所から西側のなにわ筋を写す。




門樋橋(もんび)
靭本町1丁目13 

 建設時期 橋ではなく水門であった。寛延時代(18世紀央)門樋橋の名が定着した。
 大正二年市電開通で架け替え 長さ 4.4m 幅 22.4m
 別名 靱橋、京町橋 一丁目橋、中橋

 難波の希有の一つとして、三間半の釣り格子・うつぼ門樋橋とある。上げ下ろしの出来る釣り格子は、府ね入堀のある蔵屋敷でよく見かける構えである。

橋の西詰めから東を写した。

古い写真と同じ感じで撮影。本町通り。


阿波堀川の橋





豊橋(とよはし)
江之子島2丁目1 西郵便局前
 

 建設時期 江戸時代以降
 昭和12年掛け替え 長さ 16.1m 幅 13.3m
 別名 川尻橋 阿波堀橋
 敷屋茂左衛門が娘<おとよ>に茶道や華道を慣わすとめ、橋をかけたものとされているが、文献上の裏付けはないようだ。岡崎橋の隣だから豊橋とするのが面白い。

昭和12年掛け替え後の写真

西郵便局前から北を望む。




岡崎橋(おかざき)
西本町3丁目1 あみだ池筋本町通り交差点下がる。
 

 建設時期 江戸時代以降
 大正八4年掛け替え 長さ 16.5m 幅 18.3m
 別名 ぐハんきょうばし(願教寺橋) 水むわやハし

市電通過後の木製の橋であった。靱側の旧地名が岡崎町であり、これに因んだ命名と思われる。

市電岡崎橋交差点から南を望む。左側に三和銀行岡崎橋支店が見える。

中央に見える横断歩道の20mほど南に橋があった、




松栄橋(まつえい)
靭本町2丁目5 
 

 建設時期 18世紀以前。
 大正十五年架け替え 長さ 15.8m 幅 8.0m
 松江橋 

 松栄橋のあった筋の西隣の筋に「多み寿し」の親父さんに聞いた話。川が埋められて出来た土地は、両隣が半分まで優先的に買い取る権利があったが、共に買わなかったので、自分の父親が土地を買って寿司屋を始めたとこと。店の幅が川の幅ということ。

北に向かって撮影された写真。海部堀川にかかっていた中之橋につながっていた。

北に向かって写す。靱公園が見える。

多み寿し 幅10m




太郎助橋(たろすけ)
靭本町2丁目3
 

 建設時期 
 昭和四年架け替え 長さ 15.5m 幅 6.8m
 別名 阿波堀川開削以降一貫してこの名前

 昭和三十一年の阿波堀川埋め立てで廃橋。豊臣秀吉から勲功により、八丁四面の地を永代地として賜った阿波屋太郎助が、邸宅内の築嶋から築嶋へ架けた橋である。
 この西村太郎助の祖は楠公の義挙にはせ参じた由緒ある家で、子孫は大正十五年に27歳で同志社大学講師になるも、35歳で家産の管理を専らにするようになった。現在、この地域に一族の名は見えない。

北方の越中端筋を南から臨む

<51/P>

なにわ筋本町通りの交差点の北側から。橋はバス停付近か。




奈良屋橋(ならや)
靭本町1丁目15
 

 建設時期 江戸時代初期
 大正十五年架け替え 長さ 15.6m 幅 8.0m
 別名 奈良屋町橋 中将橋

 橋の向こうの西側に見える三階建てはユタカビルディングで、綿糸綿布商の豊嶋商店である。大手は、五棉八社と云われ、五棉とは丸紅、伊藤忠商事、日綿実業(ニチメン)、東洋綿花(トーメdン)、江商(兼松江商)、船場八社は、八木商店、豊島、竹中、丸永、田附、又一、竹村綿業、岩田商事で、ヤギ、豊島は今日まで残っている。他にもあるかもしれないが。
 奈良屋橋から東へ行くと、ワイシャツ製造のナルトヤ(吉兼氏)があった。

北方を望む。

北方を望む。そば屋さんが川を埋め立てた上かも?

四つ橋筋に近いナルトビルの一角に。




花屋橋(はなや)
靭本町1丁目10
 

 建設時期 阿波堀川開削当初から。
 長さ 16.8m 幅 5.1m  大正八年架け替え。
 別名 清兵衛橋 奈良町橋 新橋 花屋橋の名は明治十八年以降。

 宝永四年の大津波で流失、新たに架け替えたので、新橋と呼ばれるようになった。
 写真は花屋橋から北側の羽子板橋筋を写したもの。

花屋橋から北を。

北側を写す。




靱橋(うつぼ)
靭本町1丁目10
 

 建設時期 明治四十四年の市電南北線の開設時、架橋された。
 昭和三年架け替え。長さ 14.8m 幅 24.3m
 昭和三十一年の阿波堀川の埋め立てで廃橋。

 架橋された阿波堀川の北部一帯は北は京町堀川まで、西は百間堀川、東は西横堀川に囲まれた地域は<靱>と呼ばれており、靱橋と云う名の橋がなかったので、靱を冠した橋となった。
 南東角には明治二十七年創業の岡島新聞舗で、大阪毎日新聞の売り捌きを一手に握っていた。岡島家が新聞を扱ったのは明治五年である。現在は日経と毎日を扱っているが、事務処理などの能力が弱そうだ。

信濃橋交差点北東の歩道から南を見る。

信濃橋交差点北東の歩道から南を見る。

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阿波堀橋(あわぼり)靭本町1丁目3 

 建設時期 寛永三年(1626)の阿波堀川開削直後に西横堀川とを隔てる阿波堀川の水門として施設されていた。
 長さ 20.1m 幅  6.3m (大正九年架け替え)
 別名 ひの口 元禄年間 幸橋、明治十八年阿波堀川

 橋を渡った左側は銭湯である。一階は脱衣場、二回は風呂屋の家族の住居、建物の奥が浴室である。

北を望む。陶器(せともの)町の通りである。

北を望む。

三十三橋の地図




西横堀川の橋





京町橋(きょうまち)
京町堀1丁目1  

 建設時期 江戸時代初期  昭和四年掛け替え。
 昭和四年掛け替え 長さ 北側 26.1m 南側 29.1m 幅 13.6m
 別名 平野橋 京工橋
 東詰めから東には遠く東横堀川を越えて内平野町に鎮座していた日中明神に至るまで、一と六の日には夜店で賑わった。御霊神社への信仰と日中明神社の御利益の大きさが夜店の賑わいを支えた。
 しかし、大正十五年の御霊文楽座の焼失や御堂筋の着工などで、御堂筋の手前までの200mほどの範囲が往時の夜店の賑わいを偲ばせるのみとなった。
 都菊ビルの横から河川敷に降りる階段があり、川に浮かぶかき船の《かき秀》があり、初夏には「鰻まむし」「川魚料理」、冬場は「かき」を食膳に出していた。お酒は「菊正宗」を扱い、都菊ではないところが先住者の意志。

昭和12年の写真 西から東を見る。

西から東を見る。




新天満橋(しんてんま)
靭本町1丁目2
 

 建設時期 18世紀中央以前
 大正十年改築 長さ 27.3m 幅 6.1m
 別名 瓦橋 瓦町橋

潮魚・干鰯商人達が靱地域の開発を願い出て、移住したので、本天満・本うつぼに対して、新天満を町名とした。

西詰から東の瓦町五丁目方面を見た写真。左側に材木商が見える。
自転車の行く方向に自動車運送の小山勇店などがある。

同じような状態での写真。

小山運送 四つ橋筋




相生橋(あいおい)
靭本町1丁目3
 

 建設時期 慶長年間 大正十一年 改築。
 長さ 27.6m 幅 6.7m
 別名 備後橋、備後町橋

 道頓堀の芝居町に相合橋が架かっていた。こちらの相生橋の東側には弁天座の物置小屋があり、道頓堀と何らかの関係があったのかも知れない。
 備後町が相当遠くまで見えている写真である。右側橋の手前のタイル張りの倉庫は菊正宗の倉庫。

写真

東は北御堂に至る。




敷津橋(しきつ)
中央区本町4丁目7
 

 建設時期 津村別院(北御堂)の寺域拡張時に架橋か?
 長さ 24.0m 幅 4.7m
 別名 安土橋、安土町橋

 北御堂の不明門(あけづのもん)から西につながっていた。昭和二十年三月十三日の大空襲で燃え落ちた。

東詰から西を望む。

東側から見た橋のあった場所。西横堀駐車場になっている。




信濃橋(しなの)
中央区本町3丁目5
 

 建設時期 江戸時代 大正四年四月市電開通で竣工
 長さ 23.0m 幅 22.6m
 別名 富田町橋、問橋 18世紀初めから信濃橋

 寛政十二年(1800)刊行の『狂歌浪花のむめ』(白縁斎梅好著)によれば、「西横堀信濃橋は楠一色にて造りかけしとぞ、誠に石になりたるためしハあれども、橋となしたるためしくすなき名橋々々」と紹介し、「智略をハ/ゆききの目にそ/かけわたす/しなのかハりし/楠のはし」の狂歌を添えている。『古事記』に、鳥之石楠船神の云う名の神がいるが、楠木でできた丈夫な船を意味しているようだ。神話では楠木は石になっても橋にはなっていない。

 戦前の写真の遠く中央に白い建物が写っている。本町通と御堂筋の南東の交差点にあった繊維商社の伊藤萬ビルである。戦後、進駐軍に接収され、大阪司令部となっていた。
 左側(北側)に見える洋風建築は相愛女学校である。

東を望む。

同じように写して見た。

京町堀川の橋





茂左衛門橋(もざえもん)
江之子島1丁目7  

 建設時期 17世紀中央以前
 昭和13年掛け替え 長さ 22.7m 幅 13.7m
 別名 敷屋嶋橋 敷屋橋
 靱の亀祭 阿波座堀敷屋町茂左衛門橋の南詰へ五尺余の大亀来ル。人々これを燐ミて首に大坂敷屋町といふ札を付けて河口へ放ツ。年歴て西国方の漁師来り云やう或時地引の・網に大亀を獲たり。札に大坂敷屋町とあり町のもの初めて様子を語れバ魚人も帰りて亦放チ鑓りぬ。是より毎年四月酉の日に亀祭ということをつとむ。其後此町中水火の難なし。

昭和13年掛け替え後の写真

靱本町3丁目 京町堀通・新なにわ筋西側 交差点南25m




両国橋(りょうごく)
靭本町3丁目5
 

 建設時期 17世紀中央
 昭和4年掛け替え 長さ 17.4m 幅 6.6m
 別名 両国屋橋 赤穂屋橋

京町堀通の北側に金光教京町堀教会の200坪の敷地があった。橋の右側にはメリヤス卸や問屋があった。

昭和4年掛け替え後の写真

靱本町3丁目 あみだ池筋の一つ西側の小路筋

 両国橋の北詰に弁財天が鎮座していた。淡路徳島半の家老の柳田九郎黒兵衛が洲本の弁天さんを屋敷に勧請したもので、廃藩後も地元町民の信仰を集めていた。昭和五十七年、江戸ぼる開館が新築された際、その一角に遷座した。

江戸堀3丁目8 江戸堀弁財天「市杵島姫命」

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千両橋(せんりょう)
靭本町2丁目14
 

 建設時期 大正九年 市電堂島大橋線のために架橋。
 長さ 20.4m 幅 22.3m
 両国橋と千秋橋の間の橋ゆえ

 阿弥陀池筋はここから南北の方向に曲がり、岡崎橋に至っている。従来の道筋と約30度ずれており、三角地が所々にある。
京町堀通の北側に見える建物は極東ゴム社の本社である。

写真

靱本町2丁目西端 京町堀通南側




千秋橋(ちあき)
靭本町2丁目14
 

 建設時期 17世紀央
 長さ 15.5m 幅 8.1m
 別名 新橋、丸屋橋

 京町堀通りの北側に、蘭学医の緒方洪庵の師であった中天遊が住んだ所である。中天遊寓居跡碑が建てられている。

北方の越中端筋を南から臨む

靱本町2丁目 靱公園西園北側中央の出入り口から北を




新難波橋(しんなんば)
京町堀2丁目5
 

 建設時期 江戸時代初期
 長さ 18.4m 幅 4.6m
 別名 六丁目橋、やぶれ橋 難波橋(大川の橋との混乱を避ける)

 西側に、看板制作天華堂の建物が見える。その向こうはめしやのようである。

北方の江戸堀方面を臨む

靱本町2丁目 靱公園西園北側東側の出入り口から北を

この橋を北上してすぐに、関西法律学校発祥の地の碑がある。関西大学の前身である。




紀伊国橋(きのくに)
京町堀1丁目14
 

 建設時期 江戸時代初期
 長さ 17.1m 幅 5.0m
 別名 四丁目橋

 北東から南西に斜行していた。紀州街道とは無関係。南へズーット行くと新町の郭につきあたる。北の江戸堀川には阿波殿橋。松平阿波守の屋敷があり、対抗しての紀伊国橋とする。

南の靱小学校方面をを臨む、

靱本町1丁目 靱公園東園北側西側の出入り口から南側の公園を見る。




羽子板橋(はごいた)
京町堀1丁目13
 

 建設時期 江戸時代初期 戦後の進駐軍の靱地域接収で廃橋
 長さ 13.2m 幅 8.2m
 別名 靱橋、二丁目橋、三丁目橋

 川の浄化のために可動堰がもうけられていた。その部分を橋の長さにいれていないようだ。2.5m程度か。
 川の別名は地名や住所を反映しているようだが、羽子板は可動堰によって川幅が狭くなっているのを例えた野かも知れない。
 橋の北側は犬齊橋筋と云い。江戸堀川に架かっていた橋である。

北を臨む。右側(東)に可動堰が写っている。

靱本町1丁目 靱公園東園北側東側の出入り口から北側を見る。




伏見橋(ふしみ)
京町堀1丁目8  

 建設時期 江戸時代初期 明治四四年市電開設にともない改築。伏見橋となる。
 長さ 18.0m 幅 24.2m (大正十五年竣工)
 別名 靱橋、京町橋 一丁目橋、中橋

 橋の南詰めは京町堀1丁目になり、靱地域ではない。京町堀川の古名である伏見堀川に由来の名前がつけられた。
 新旧の写真肥後橋南詰め東側の大同生命のビルが見える。

北を臨む。大同生命のビルが霞んで見えている。

四つ橋筋と京町堀通りの交差点の南側から北を望む。




東上橋(とうじょう)
京町堀1丁目3  

 建設時期 京町堀開削の元和三年(1617)から余りくだらない頃。
 長さ 19.2m 幅 8.2m (大正十三年修築)
 京町堀川の東側上流に架かっている橋を表す。

 古い写真に写る瀟洒な洋館は南海晒粉ビルである。

北を臨む。

四つ橋筋と京町堀通りの交差点の南側から北を望む。

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