荒見神社
久世郡久御山町大字田井小字荒見49 ゼンリン

鳥居

交通 京阪淀から宇治行きのバス田井下車 北5分

祭神 武甕槌命、應神天皇、仲哀天皇、別雷大神、倉稻魂命

由緒 『山城国風土記』では天歳神一座とされる。時代を経るにつれ、氏子の信仰によって天歳神が、その弟神で神威の高い稲荷大神に変更され、またこの付近で神威の高い神々を勧請して現在の五柱の祭神になった。山城国久世郡の延喜式内社「荒見神社」は当社であると明治時代に比定されたが、城陽市の荒見神社であるのか否かは不明。
 社名の荒見は荒水の転訛とされ、両社とも水害の多い地であり、水神を祭ったのが起こりとされる。

 『山城国風土記』には荒海の社
祇社、み名は大歳の神とあり、穀神であった。

拝殿と本殿



お姿  寛永七年(1630)の水害に当地に再建・造営された。
 本殿を楠木の巨木が取り巻いている。昭和9年に周囲9m程の楠木が落雷で枯れたとのことである。境内には杉、松、桜や竹が多く生えている。但し、荒れた雰囲気の境内のように感じる。

本殿



お祭   10月 9,10日 氏子祭と秋例祭。

『平成祭礼データ』から 

 当社の創建年代は不明であるが、延喜式および山城国風土記に現在の神社名で記載されているので、少なくとも千年以上前であることは明らかである。往古の祭神は右の文献によれば天歳神一座とされる。時代を経るにつれ、氏子の信仰によって天歳神が、その弟神で神威の高い稲荷大神に変更され、またこの付近で神威の高い神々を勧請して現在の五柱の祭神になった。
 江戸時代当社は、五社大明神と奉称されていたが、明治初年現在の神社名に復した。当社は、寛永七年(1630)木津川堤切れの洪水によって社殿と社地を失い、寛文四年(1664)氏子の寄進によって現在地に社殿を再建した。現在の本殿は当時のもので、江戸時代初期の雄渾な神社建築様式を残す優れた文化的遺産である。諸記録は元禄年間(1688から1702)以降のものが残っており、田井の氏子の祖先の当社に対する篤い尊崇の跡を示す貴重な資料である。
 明治十年(1877)6月、延喜式内社と決定された。
 以上


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