文子天満宮神社
京都市下京区間之町通花屋町下ル天神町400 googlemap

鳥居

交通
東本願寺東側200m


祭神
菅原道眞 配祀 文子比賣、伴氏、是善公

摂社
白瀧稲荷大明神「倉稻魂命」
 

由緒
 社伝によれば、道真の乳母文子が、配所で亡くなった道真を弔うべく、自宅に小祠を建てて祀ったのが起源と云う。また『北野天神縁起』によれば、文子は「西京七条に住せし賤女」で、天慶五年(942)自分を北野の右近の馬場に祀れとの道真の託宣を受けたが、身の賤しさを憚って、自宅に祀ったと云う。

 文子を賤女とする伝承は恐らく道真と云う天穂日の後裔であるが、一応反逆罪の汚名を被った人間に対しての扱いの意識があったのだろう。

拝殿

文子殿  文子像
 



たたずまい
 京都の下町風の一画に東面して鎮座、東本願寺の東側の道を上って行くと標識がある。東へまがり暫く行くと西へ行くと文子天満の標識が見えた。しまったと戻ると中程に北へ行く標識があった。すぐに見つかった。社域は小さいが、由緒書きや道真一代記の絵巻きものの絵が貼られていたり、賑やかな神社。



お祭り

摂社 白滝稲荷    老松社・福部社・白太夫社
 

文子天満宮略縁起 御縁起 (平成祭礼データ)

 文子天満宮の御祭神は贈太政大臣正一位菅原朝臣道真公であります。北野天満宮御造営より前すでに奉祀せられていた由緒ある神社であります。

道真公は仁明天皇の承和12年6月25日(845年)京都菅原院で御誕生され、幼少の頃より聰明にして特に至誠の御心篤く、歌や詩にすぐれ32才で文章博士(もんじょうはかせ)になり遂に右大臣に任じ、57才の延喜元年正月7日(901年)従二位に任ぜられましたが、左大臣藤原時平等のざん言により同月25日太宰権帥(だざいのごんのそち)に勅命が下り太宰府に御左遷されることとなり、御出立の際、御乳母七条坊門多治比の文子の方に離別を告げられました時、文子の方がこの上なく歎き悲しむのを哀れと思召し、公は御自分で彫られました御像を授与されました。(当神社は文子の方の旧宅地であり、公が御立寄りの際、腰掛られた腰掛石が現存する)斯て延喜3年2月25日(903年)59才で配所において薨去(こうきょ)されましたことを承るより、文子の方は御遺徳を偲び庭前に小祠を造り御神像を祀り朝夕に仕え奉られた。これが当神社の源起であります。
後、公の冤罪であった事明白となり一条天皇の御代太政大臣正一位を贈られました。天慶3年7月16日文子の方の御示現(おつげ)により天暦元年6月9日北野(今の北野天満宮)に鎮座され、我国の鎭護の神となられました。

爾来、慶長7年浄土真宗教如上人東本願寺創建の際、当社地も寺領地に組入れられ他の神社は総て寺領地外に移転の止むなきに至るも、当神社のみは前述の由緒により依然奉祀せられました。東本願寺第二世宣如上人よりは自筆の神号並に名号を奉納せられ、特に崇敬浅からぬものがありました。この2軸は当社の神宝として現存しています。宝物には菅公の御太刀、御沓等を伝えて来ましたが、幕末火災の為焼失し、昔の姿を失うに至ったが、寺領地内の神社として旧跡を維持し、特に北野天満宮前身の由緒ある神社として崇敬篤く明治になって社格を村社に列せられました。 今の御本殿諸建造物は大正7年に造営し、昭和12年に隣接地買収し、境内地の拡張を図り今日に至っています。
以上


京都山城寺院神社大事典(平凡社)、境内由緒書き

公式文子天満宮神社
京都山城の神々


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