五條天神社・天使の宮
京都市下京区松原通西洞院西入天神前町351-2

鳥居

交通
阪急烏丸南西600m西洞院通 mapfan


祭神
少彦名命 配祀 大己貴命、天照皇大神

由緒
 『宇治拾遺物語』巻二(柿の木に仏現ずる事)に、「昔、延喜の御門の御時、五条の天神のあたりに、大なる柿の木の、実ならぬあり。その木のうへに、仏あらわれておはします。京中の人、こぞりて参りけり」とあり、この神社が平安初期には鎮座していたらしいことを証する。

 中世には相当広い境内地を占めたようである。

 社伝によれば、延暦十三年(794)の平安遷都の折り、空海が勧請したという。古書に「靱明神紫野今宮韓神五条天神同体也」とある。京都市北区紫野今宮町に今宮神社が鎮座しているが、現在の祭神は大己貴命となっている。

 勧請元は大和国宇陀郡からと言う。恐らくは牧の九頭神社の久須斯神を勧請したのであろう。源義経の母の常磐御前の生まれ故郷である。
 五条天神社と義経との関わりは、弁慶との遭遇が五条の橋であったとの『義経記』の記述もあり、また、その『義経記』が流行する中で各地に勧請されていったと見る瀬田勝哉さんの推測がある。弁慶に対する義経は、大国主と少彦名に見られたのであろうか。

 平安末期には祇園社の末社となり、さらに平安から鎌倉初期に天皇家の支配下に入ったようだ。

 この神社の信仰は『徒然草』第二〇三段に「主上の御悩、大方世中のさわがしき時は、五条の天神に靫をかけらる」とあるように病気退散の神とされており、転じて室町期になると疫神そのものと考えられた。応永二十八年(1421)に流行した疫病退散のために、当社を流罪とする宣下が祇園社に下っている。宣下の解釈に諸説があるが、五条天神は穢や罪を一身に背負い込み、天皇から罰を受ける特異な神であるとの認識があったが、この神は京中の人々から信仰を集めていた。

社殿

たたずまい
 社伝では、大永八年(1528)の大火で記録を失い、天正年中(1573〜92)に社殿を造営したと云う。その後も天明八年(1788)、元治元年(1864)の大火に類焼している。
 市井の鎮守社の雰囲気であるが、大きい木はない。社殿背後にはノッポビルの壁が迫っており、風情は失われている。

お祭り

 5月 10日 例祭

 

『平成祭礼データ』 五条天神社(天使社)由緒略記

 御祭神は、大巳貴命・少彦名命・天照皇大神。
光仁帝大和の宇多に祀られしを、桓武帝奠都の際平安城五条の地に移し給ひ天使の宮と崇め給ひ尊信最も深し、後鳥羽院の御時五条天神宮と勅称あらせらる。往昔は松原通りは当時の五条通りなりしを以てなり、高倉院の御宇彼の人口に膾炙せる牛若丸と弁慶との出会いの地はこの五条の森なりと云ふ。
当時は境内も広く社殿も亦広壮なりしも度々の災火により、幾変遷を経て、元治元年甲子の兵火に鳥友に帰す依て孝明帝御金60両を下賜せらる氏子及び信徒は帝の御心を畏み宮殿を造営したりき。
尋(つい)で明治21年今の幣殿を再建す爾来星霜を経るに及び御本殿大破し雨露を凌ぎがたく昭和8年10月御本殿を始め諸建物を改築し、現在に到る。祭神は医薬禁厭を始めさせ給ひし神なる事事を以て其の恩頼(みたまのふゆ)により此の社に詣で特に節分には宝舟、白R(ヲケラ)、勝餅、等を求むること盛んに行はれ明治以後に於ては厄除けの為参詣する者多し。
以上
(注)文中のRは、「述」の「シンニュウ」の無い字に近いが、造字しないと無い。文字は漢方薬の「オケラ」を見ると良い。                   
 

京都山城寺院神社大事典(平凡社)

公式五條天神社
京都山城の神々

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