護王神社
京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町

鳥居


交通
京都御苑中央の真西mapfan


祭神
和気清麻呂公命(わけのきよまろ)、和気広虫姫命(わけのひろむし/清麻呂の姉)
 相殿:藤原百川公命(ふじわらのももひろ)、路豊永卿命(みちのとよなが)
摂社
  警察消防招魂社
  久邇宮家御霊殿
  祖霊社(近衛社)

舞殿と茅の輪

由緒

『平成祭礼データ』

御創建と御祭神
 当社は初め高雄山神護寺境内にあって、護王善神社と称していたが、嘉永四年三月十五日、孝明天皇、和気清麻呂公命に正一位護王大明神の神階神号を授け給い、また、明治七年十二月二十二日別格官幣社に列せられるに及んで、特に明治天皇の勅命により現在地の京都御所蛤御門に社殿を造営し、明治十九年十一月三日、遷座した。
 さらに、正式に大正四年十一月十日、子育明神和気広虫姫命を御祭神に合わせ祀った。
 御祭神和気清亜呂公命 公は、天平五年(七三三年)吉備国藤野郷(現・岡山県和気郡和気町)にお生まれになられた。その祖先は、垂仁天皇皇子鐸石別命から出ており、実父は国造であった。長じて宮中に武人としてお勤めになられた。
 神護景雲三年(七六九年)、恐れ多くも、僧道鏡、天皇の御位を内謀によって奪わんとした時、清麻呂公は、勅命により死を決して宇佐八幡宮に詣で、神託をお受けになられた。それより以前、道鏡は自分の非望がかなった時は公を大政大臣の位につかせるとそそのかしたが、公の御心はただ天皇への忠節のみにありさ揺ら偽もなかった。
 ”宇佐八幡宮神託”「我が国、開闢以来君臣の分定り。臣を以て君と為すこと未だ来れあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は迅に掃除すべし。」(わが日本の国は、神代の時代から天皇と国民との分が定まっている。国民をして天皇の御位に即位することは、絶無である。天皇の御位は天皇の血統者がつぐものであり、道鏡のように無道な者はすみやかに掃除せよ。)以上の宇佐大神の神託をうけて直奏したところ清麻呂公は道鏡の怒りにふれ、名を変えられ大隅国へ配流された。しかしながら、大義を明らかにした公の偉勲は、ついに萬世一系の皇統をお護りし、また道鏡追放の原因ともなったのである。
 公の功績は政治家としても多大であり、河内川・神崎川の水運灌漑工事を始め、尼崎港の建設、「民部省令」の編纂、日本初の私立大学「弘文院」の創建、私田一百町歩を挙げての貧民救済、また、現在の京都市に平安京を遷都する建策をして、造営大夫を任ぜられるなど、その高徳はあまねく国民に知られるところである。
 公の精神は、後世、楠正成公とともに国民に大きな感化を与えた。この精神は日本人の千古にかよう不滅の道義であると云える。我々国民は和気公の精神(護王大精神)を心に思い、立派な人生を送らねばならない。
 以上

拝殿と本殿

狛イノシシ
 

お姿
 御所の西側に東を向いて烏丸通りを隔てて鎮座している。
 烏丸通り側には、和気清麻呂公の生い立ちから道鏡排除等の活躍が伝記絵巻として掲げられている。また戦前には壱拾円札にも登場しており、拡大写真が掲げられている。

 警察消防招魂社が鎮座している。国家に貢献した人々を祀る気概の見える神社。

警察消防招魂社

和気清麻呂公銅像

お祭り 4月 4日 例祭

京都山城の神々

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