御所八幡宮社
京都市中京区御池通高倉東入亀甲屋町594-1

鳥居


交通
地下鉄烏丸御池 御池通りを東へ300m ゼンリン

祭神
應神天皇、神功皇后、比売神
配祀 稲荷社「宇賀御魂神」

拝殿

由緒
 もと御池堺町西南角の御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通りの強制疎開によってこの地に遷された。
 この八幡社が「御所」八幡宮と呼ばれるのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏が自らの邸宅内の守護神として勧請したことに由来するという。尊氏の法名によって等持寺八幡とも呼ばれ、親しまれてきた。
 特に安産と幼児の守り神として有名で、左京区上高野の三宅八幡と並んで「虫八幡」と呼ばれ、世間の信仰を集めている。

本殿

たたずまい
 鳥居は御池通りに面しているので北向き。西側にも入口がある。社殿も西向き。
 境内は狭い。天満宮、金比羅神、大宮比売、猿田彦を祀る祠、初音稲荷とが並ぶ。

摂社 初音稲荷

お祭り

 9月 15日 例祭

『平成祭礼データ』から

 御所八幡宮社の略誌
鎌倉時代の弘安元年(1278)10月13日、二條内裏焼失により翌11月8日の夕、後宇多天皇(第91代)が前内大臣中院通成の三條坊門万里小路邸に行幸あり、しばし内裏となり俄に四足門を造立せられたることは「増鏡」に記すところである。
 (この地は、第77代後白河天皇(1155)の皇子で、平家の横暴をこらしめようと源氏の一族に密かに令旨を下し挙兵「久寿、保元の乱」(1156)を要望された、高倉宮以仁王の邸が三條高倉にあったので高倉殿とも呼ばれていた)
 村上源氏の一門である中院氏が、源氏の氏神である、石清水の若宮を邸内祠としていつの世にか勧請奉斎していたことは当然であるが、この行幸にて、御帝が親しく祝いまいらせたる社として、事後は御所八幡宮として子々孫々奉斎していた。
 建武の大乱以後、南北朝に入るに及んであたりの光景は全然一変せられ、この故地に、足利尊氏の弟で副将軍の職にあった直義が邸を構えて、高倉殿と呼ばれていた。直義は正平7年「文和元年」(1352)鎌倉において尊氏に毒殺されてより後、清和源氏の流れを汲む尊氏は直義の邸を取払い、その地に往故より鎮祀されていた、石清水八幡の若宮を、境内四町四方、本殿八棟造りの善美を盡した殿舎を再興造営し、足利氏鎮守の社として奉斎、尊氏の称号にちなみ等持院御所八幡宮又は高倉八幡宮、三條坊門八幡宮ともいわれた。
 その後は皇室のご尊宗と貴紳、武門の崇敬は誠に深甚にして、特に足利将軍家累代の社参など朝家の敬仰篤く神賑を極めていたが、応仁の大乱後、戦国時代を経て足利幕府の滅亡(1573)するに至り、衰頽その極に達し、降って江戸時代には御池通り(元の三條坊門)の南、堺町(高倉と万里小路の中間)の西、高倉の間に境内を占める有様となり、明治に入って御所八幡宮社として村社の列に入り、昭和の時代には戦時中の強制疎開により狭隘なる現在地に鎮座し、往昔の盛観はこれを偲ぶ由もないが、世の移り変りにその尊崇する姿も変ったが、概ねその昔より鎮座の位置を変えることなく現存し、今では初音学区とその近在の守護神として、汎く御池の八幡さんと親しまれ崇敬され今日に至っている。
 以上

参考資料 平成祭礼データ

京都山城の神々

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H20.10.15
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