白雲神社
京都市上京区京都御苑

鳥居


交通
京都御苑 西側中央mapfan


祭神
市杵嶋姫命
摂社 福壽稲荷神社 倉稻魂命

拝殿

由緒
 境内由緒書きから
 御祭神は妙音弁財天と称え市杵島姫命を祀る
 琵琶を家職とする西園寺家に楽神として伝えられ太政大臣西園寺公経卿北山第(京都衣笠大北山の西北、現在の金閣寺がその旧址である)の造営にあたり妙音堂を第一に建立、元仁元年(1224)十二月別当成就心院に回向せしめ皇后邦子内親王(安嘉門院)臨御せられたのを奉斎の始めとする。
 増鏡、中務内侍日記、太平記等に当時の風雅なたたずまいがうかがわれるがその後同家の盛衰に伴い変遷あり 近古には赤八幡京極寺に鎮座されたと伝えられる。
 明和六年(1769)前内大臣西園寺公晃卿、前右大臣西園寺賞季卿勅許を賜り同家邸内(当地)に妙音堂を再興、天保十一年(1840)安政四年(1857)の社殿修築に際しては禁中各御所より御寄付を賜り禁裏御祈祷所と定められた。
 明治から昭和にかけて首相あるいは元老として近代日本の礎を築いた西園寺公望卿が家塾「立命館」を開設したのもこの地である。
 明治十一年(1878)神仏混淆の作法を神式に改め社号を白雲神社とする。
 御神徳あらたかなる霊社として崇敬者は京都府下は元より近畿一円にあまねく。

 例祭 六月十五日 火焚祭 十一月 十日 巳の日祭 毎月巳の日 午前七時執行 御参列自由

拝殿内部

本殿真後ろの磐座

お姿
 緑の濃い神社であるのは、京都御苑の中に鎮座しているが故であろうが、手入れも行き届いている。

福壽稲荷神社

お祭り  6月 15日  例祭
   11月 10日 火焚祭

『平成祭礼データ』

由緒略記
 元仁元年十二月(一二二四)太政大臣西園寺公経卿山城国葛野郡衣笠村字大北山の西北隅に北山堂(西園寺)を造営されるに際して妙音堂を第一に修造し別当成就心院に供養せしめられ、皇后邦子内親王(安嘉門院)臨御あらせられた、とありて当社御祭神を妙音天と称えまつり奉斎せられた始めである。
 「増鏡」内野ノ雪ノ巻に・・・(前略)・・・公経のおほきおとどそのかみ夢見たまえる事有りて・・・(中略)・・・北山のほとり世にしらずゆゆしき御堂をたてて名をば西園寺といふめり・・・(中略)・・・池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊・・・(下略)・・・」とあり、又中務内侍日記には「妙音堂の御幸云々」太平記には「丹青を尽せる妙音堂云々」など諸書に見え宏大壮麗なる勝景が想見される。然し乍ら元弘(一三三一)建武(一三三四)のころ北条氏の衰滅と共に西園寺家も亦衰頽し其後数百年の間、同家の盛衰にともない共に浮沈あり、近古に至りては赤八幡京極寺に暫らく鎮座されたとも伝えられる。
 その後明和六年(一七六九)に至りて前ノ内大臣西園寺公晃卿、前ノ右大臣西園寺賞季卿、勅許を賜り同家邸内即ち現在地に御堂を建立し妙音天を迎え祀りて、ここに妙音堂が再興せられたのである。維新後に至りて明治十一年神仏混淆の作法を一切神式に改め鎮座の地白雲村の旧称を以って同年八月社号を白雲神社とす。
 以上

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