橋姫神社
京都府宇治市宇治蓮華47

鳥居


交通
バス佐山下車 南に100m  ゼンリン

祭神
瀬織津姫 住吉大神

由緒
 『山城国風土記』(逸文)宇治の橋姫
 宇治の橋姫は、〔懐妊して〕つわりになり、七尋の和布(海藻)をたべたいと願ったので、おとこ(夫)は海辺に〔若藻を〕をとりに行って、笛を吹いていると、龍神がそれに感じて婿にとった。橋姫は夫を尋ねて海のはたに行くと、そこに老女の家があったので行って〔夫の行方を〕問うと、「その人ならば、龍神の婿となっていらっしやるが、龍神の火で煮たきした食べ物を忌み嫌って、ここに来て食事をしている。だから、そのときに見てごらん」といったので、隠れてこれを見ていると、夫は龍王の玉の輿に乗って来て、御召しあがり物を食べていた。女はこれと物語をして泣く泣く別れた。しかし、ついには帰って来て、この女と一緒になった。
 (鹿沙門堂本『古今集註』)

 『橋と遊びの文化史』平林章仁著 には、妊娠中の女性の霊力が強いのではないかとしている。新たな霊魂を胎内に宿しているからであろうと指摘している。この典型が神功皇后であった。小生の妻も妊娠中は滑ったり転んだりする事には注意を払っていたが、変な人間などには恐れを持っていなかった。お腹の子と共に戦えると言う気分であったようだ。

橋姫社 住吉社

お姿
 宇治橋から100mほど南に鎮座、懸神社の大鳥居の内側。かっては末社だったのかも知れない。社殿は北向き。境内は極端に狭い。

宇治橋の神を祀っていた出張り

お祭り  7月 10日 祭礼

由緒 平成祭礼データから

 孝徳天皇の御宇大化二年、南都元興寺の僧道登勅許を得て創めて宇治橋を架するにあたり其鎮護を祈らん為、宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比唐フ神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ今の三の間と称するは、即ち其鎮座の跡なり。
 後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神社と共に奉祀す。明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしが、明治三年洪水の為め社地流出してより此の地に移す。
 住吉神社は、往古は宇治川の左岸櫻の馬場にありし小社なり。彼の源平盛衰記に、平等院の北東の方結の神の後より武者二騎云々とあるもの即ちこれなり。
 尚かの源治物語宇治十帖のうち橋姫の巻といふ一帖は、これに因みしものなるべし。
 古今集。 さむしろに衣かたしき今宵もや、我をまつらん宇治の橋姫。
 新古今集。 あじろ木にいさよふ浪の音ふけて、獨や袮ぬる宇治の橋姫。
 蓮月集。 はしひめのもみちかさねやかりてまし、たびねは寒し宇治の川風
  以上

『橋と遊びの文化史』平林章仁著 白水社

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