羽束師坐高御産日神社
京都市伏見区羽束師志水町219-1

二の鳥居と社叢


交通
京阪中書島からバス22号線 羽束師志水町下車  its-mo



祭神
高皇産靈神、神皇産靈神
摂社 北向見返天満宮「菅原道眞」、籠守勝手神社 など

由緒
高皇産靈神を祭神とする式内社五社の一である。他には対馬国下縣郡の高御魂神社など。
 『延喜式神名帳』山城国の筆頭に記載されている。 文政年間の当社神主古川為猛の『羽束師社舊記』によれば、雄略天皇二十一年創建とある。477年の頃とある。
 当社の創建には、賀茂氏や秦氏の他に品部の一である泊橿部がこの地域に居住しており、彼らが祀ったのではないかとも言われている。 泊橿部(丈部)は、『姓氏録』左京神別に、天足彦国押人命孫比古意祁豆命の後、また山城国神別に鴨懸主同祖、鴨建津身命之後、西泥土部は鴨懸主同祖、鴨建玉依彦命之後、丈部首は武内宿禰男紀角宿禰之後と出ている。丈部は歴代宮廷の警護に係わったいわば「武士」であり、有力な各氏族に所属していた者達もいたようであり、当地の丈部も淀川の水運に係わった氏族との関連があったものと見ていい。孝昭天皇の御子の天足彦国押人命は春日臣、小野臣などの祖である。

 宮司の古川俊三氏のお聞きした話を紹介しよう。
 また当地は菅原道真公の太宰府左遷の際に北を向いて見返りの場として記念された北向見返天満宮が鎮座しており、 土師氏との関わりがあった土地とも推測できる。土師(はじ)と羽束師、似ているようで似ている。

 また古くから「羽束師の森」と言われており、入水した竹野姫の霊を祀った森ではないかともされている。山陰道の起点にあたり、当地を乙訓と称するのは堕国と言われたからとの理由である。

本殿



羽束師川と道標 境内掲示から

羽束師川の碑

 久我の地から、古川、桶爪、水垂、大下津、山崎を経て桂川に注ぐ本支流合わせせて、総延長12km余の人工水路を羽束師川と呼んでいます。
 この川は、桂川右岸低湿地の内水や悪水吐けのために、文化六年(1809年)から17ヶ年の歳月をかけて、新川の堀さく、古水路の改修、樋門の設置等の工事が完成しました。
 かくして二郡十二村の水場の人々は、累代にわたる水害をまぬがれ、荒廃した土地は耕地に変わり、その余慶は今日に及んでいます。
 而しこの工事は、官府の力ではなく、神明の加護を祈り、心身を傾け、私財を投じて地域開発の素志を貫いた、羽束師神社神官古川為猛の独力によって成し得た事業であります。
 以下省略

北向見返天満宮

真北向く祠



たたずまい
 
「羽束師の森」と呼ばれた往年の森らっしさは失われているが、社域は大きい楠木に囲まれて、神域らしい雰囲気は残っている。 123号線をトラックが行き交い、静寂さのない森であるのが残念である。

お祭り
例大祭  10月18日

『平成祭礼データ』羽束師略記
御鎮座と由緒
当社の御鎮座は、雄略天皇二十一年丁己(四七七)です。「続日本紀」大宝元年(七 〇一)四月三日条に「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」とあって、 羽束師神社についてみえる最も古い記録ですが、「三代実録」貞観元年(八五九)九 月八日条には、「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風を鎮め、潤雨を祈願 する神さまとして崇敬されていたことがうかがえます。近年当社西方の長岡京四条四 坊に当る旧址から、祈願の際献じる土馬が発掘され、話題を呼んだのは興味深いこと です。
この地は桂川及び旧小畑川等諸河川の合流点に位置し、低湿地ですが、古くから農耕 が行われ且、水上交通の要地という条件と相まって、「乙訓・羽束郷」(和名抄)と 称し開けてきた土地です。
因に、日本書紀垂仁天皇三十九年「冬十月(中略)泊橿部等并せて十箇の品部(とも のみやつこ)もて五十瓊敷皇子に賜う」と記され又、「令集解」の職員令の中には「 泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とあります。何れにしても、「はつか し」と名乗る職業をもった人々の集団が、大宝令制に組み入れられる以前から、この 地域に生活していたということが分かります。更に御所の野菜を供給する羽束師薗も あった処で、これらのことが、神社の発展をもたらした理由になったと考えられます 。
平安初期延喜の制がととのえられるや当社は、式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣 に預かって、名実共に式内第一の社となり、「むすび」の御神威を愈々顕現され、天 下豊平の加護を垂れ給うたのです。 中世・近世において、周辺地域の産土神として崇敬を集めたことは「都鄙祭事記」中 の「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下 の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還 の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」という 記事からも推察できます。
「大乗院寺社雑事記」文明十四年(一四八二)九月一日条に「八月二十七日二十八日 、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸 物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職と なって神事能を演じた事、またこの神事は近郊に聞えた盛大なものであったらしく楽 頭の得分は百貫と記されています。氏子圏の広さとその豊かさを物語っています。

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