許波多神社
京都府宇治市五ヶ庄古川

鳥居


交通
許波多神社 京阪黄檗駅西北800m ゼンリン許波多神社 

祭神
天忍穂耳尊、瓊々杵尊、磐余彦尊

由緒 『日本の神々 山城』から
 この両社はともに、『廷書式』神名帳の宇治郡十座のなかの「許波多神社三座並名神大、月次新嘗」と認定されているが、明治以前にはいずれも「柳大明神」と呼ばれていた。『山城国風土記』逸文に「宇治郡、木幡社 祇社、名天忍穂長根命」とみえ、『三代実録』貞観元年(八五九)正月二十七日条に従五位上を授けられたとある。
 五ケ庄の許波多神社の社伝によれば、大化年中(六四五−四九)中臣氏が勅によって社を大和田柳山(現五ケ庄東部)に創建し、壬申の乱に先立って近江から大和吉野に向かった大海人皇子が当社に立ち寄って参拝、鞭としていた柳の枝を社頭に挿して戦勝を祈ったところ柳が芽吹いたため、社地を柳山、社を柳大明神と呼ぶようになったという。
 現在の祭神は天忍穂耳尊・瓊々杵尊・磐余彦尊で、明治初年までは現在地の東南約二キロの柳山に鎮座していたが、明治九年に柳山が陸軍省火薬庫用地に接収されたため、御旅所(現在地)に移転した。三間社流造・檜皮革の社殿はそのとき移築したもので、内陣厨子に永禄五年(一五六二)建造の銘があり、重要文化財の指定を受けている。また当社には鎌倉時代の神像などがある。社叢は「御旅の杜」と呼はれているが、なかでも樹齢数百年といわれる周囲五メートル余の大椋が人目をひく。旧郷社。
 氏子は旧五ケ庄八ヵ村全域であったが、寛文元年(一六六一)に柳山の社地に隣接して黄欒宗万福寺が建立され、以後江戸時代を通じて境争論が続いた。また村内に万福寺領ができたため、村民間の反目が生じ、氏子同士の粉争も起こった。かつては五ケ庄村全域を南北に二分して「左方・右万」と称した宮座組織が神事に関与していたが、右方は大和田・岡本・上、左方は岡屋・谷・広芝で、畑寺と新田の二地区が宮座に加入していない。新田が新しい村で、畑寺には住民がいなかったためである。例祭は旧八月八日。なお当社の祭神は白鶏と唐臼を嫌うと信じられており、氏子は自鶏を嗣わず、唐臼を使用しはじめたのも遅い。唐臼を使いはじめたときには、そのむね神許を願う祝詞を奏上したと伝えられる。

二の鳥居と拝殿

お姿
 東向きに鎮座。一の石鳥居、二の木鳥居と拝殿・本殿が一直線に並んでいる。古社だが、近世に遷座したことが判る。境内には樫、銀杏、楠、参道には椋など木々が大きくなっている。
 この地一帯は縄文晩期の遺跡があったようだ。寺界道遺跡と言い、貯蔵穴二ヵ所、縄文土器石器などが出土、貯蔵穴は直径2m程度の大きいもので、炭化した木の実が残っていた。

寺界道遺跡説明板写真

本殿
 

お祭り  旧8月  8日 例祭

境内由緒書きから

 当神社は孝徳天皇大化元年(645)勅願により皇祖の御神霊を奉祀するため創建せられ延喜式神名帳(927)所載の大社である。貞観元年(859)従五位の神位奉授、永禄12年(1569)正一位の神位を宜叙せられた。
 明治8年まで旧大和村柳山に境域三万六千余坪を擁し鎮座の故に柳大明神と称し奉った。
- 寛永17年(1640)牛疫平癒御祈祷のため次の和歌を御献詠になった所さしも激しかった牛疫も急に治まったという。
 憐をたるゝ 柳の神ならは 死(ぬる)をうしと 思(ひ)やはせぬ
 延宝六年(1678)社殿営繕の折宮中より金品を賜った。天和2年(1682)遷宮の折神祇管領吉田兼連御参向近衛家より正副奉幣使が幣帛を供進せられた。累代例祭遷宮祭には近衛家より奉幣使参向されるの制であった。
 明治9年柳山境内地陸軍火薬庫用地に上地に付、旧岡屋の当神社御旅所であった現在地に移転、御社名を現名称に復した。
 国指定重要文化財 本殿 一棟
  以上

『日本の神々 山城』 白水社

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