須賀神社
京都市左京区聖護院円頓美町1 ゼンリン
鳥居
交通
聖護院門跡前
祭神
須佐之男神 配祀 櫛稻田比賣命
交通神社 八衢比古神 配祀 八衢比賣神 合祀 久那斗之神
拝殿
由緒
往古西天王社と称し今より一千余年前、清和天皇の貞観十一年(869)創立、永治二年(1141)歓喜光院の鎮守となり、その後鎌倉時代末期、北条高時京都へ軍勢を派して反乱す為に当社はその兵火を避けて後醍醐天皇元弘二年(1332)吉田神楽岡の木瓜神社の傍らに遷座、延元元年(1336)社殿造営、吉田山に600年弱とどまり、大正十三年旧お旅所の現在地に社殿を造営、遷座した。
白竜大明神・稲荷大明神
たたずまい
大きい聖護院門跡の南側に鎮座、従って鳥居は北向き、社殿は西向き。
聖護院門跡
本山修験宗総本山の寺院である。
平安時代の寛治四年(1090)に、白河上皇が紀州熊野三山を参詣する際、修験者(山伏)として有名であった増誉大僧正が、先達を努めた功績により寺を賜り、聖体護持の意味から聖護院と名付けたという。
修験道は日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教などが結びついて平安末期に成立した宗教で、役小角を開祖とする。
お祭り 5月 10日 例祭
平成祭礼データ由緒から
須賀神社 由緒略記
住古西天王社と称し今より一千余年前清和天皇の貞観十一年(八六九)創立(今の平安神宮蒼龍桜の附近に斎き祀れる社にして現に西天王の旧地西天王塚地今に存す)永治二年(一一四一)歓喜光院の鎮守となり(歓喜光院は美福門院藤原得子の建立元弘年中兵火にかかり再建せしも応仁元年八月再び兵火に遇い廃寺となる)其の後鎌倉の末期北条高時京都へ軍兵を派して反乱す為に当社は其の兵火を避けて後醍醐天皇御代元弘二年二月吉田神楽岡に遷座し斎場所の内陣へ兼豊奉斎し、後醍醐天王の延元元年二月兼熈御沙汰により御社殿御造営。後慶安元年六月吉田大元宮西下へ社殿御造営遷座し吉田山に鎮座する事実に五百九十三年に及び大正十三年六月旧御旅所の氏子の地なる現在地に社殿御造営遷座し奉る。
以上 |
『寺院神社大辞典 山城』
京都山城の神々
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H20.12.10 |