大酒神社
京都市右京区太秦蜂岡町30

交通
京福電鉄嵐山線 太秦 広隆寺の東側道300m mapfan



祭神
秦始皇帝、弓月王(ゆんすのきみ)、秦酒公

相伝 兄媛命、弟媛命(呉織女、漢織女)


注釈
 広隆寺来由記に秦氏の祖功満公が来朝し始皇帝を祀ったと言う。この社は中世以降は広隆寺桂宮院の鎮守であった。 神仏分離以降遷座した現在地も広隆寺の鬼門に鎮座する。東1kmの木島坐天照御魂神社(蚕の社)が元社である。 元は大辟神社と記した。播磨国にも大避神社が鎮座する。秦河勝と秦酒公が祭神である。 播磨国赤穂地方は秦氏の領有する所で、秦河勝がこの地で没したので、祖先とともに祀られた。
 秦氏の居住地域と天日矛の説話を持つ地域が重なると言う。秦氏が応神天皇の時代に大挙して渡来してきたが、これを導いたのは弓月王である。 穴石兵主神社の奧宮(磐座)は弓月嶽頂上である。秦氏と兵主、天日鉾命との関係を暗示している。
 秦河勝は欽明天皇から推古・聖徳太子に仕えたと言われ、また「申楽・能楽」の創始者ともされる。 この「猿」と結びつくのか、大酒神社の祭神を道の神・道祖神とする考え方もある。猿田彦である。境界の神であり、石神とも言われる。 大酒神社の御神体は石である。播磨の祭神は宿神でシャクジンで石神に通ずる。
 能伝書には宿神を麻多羅神とする。大酒神社の大祭「牛神」には麻多羅神が出現する。この祭りは、鞍馬の火祭り、今宮のやすらい祭りとともに京都の三大奇祭とされる。
麻多羅神は恵心(源信)僧都が長和元年(1012年)念仏会に勧請したものと伝わる。
麻多羅神は伝経大師最澄の唐時代にも出現しているが、日吉大宮と同体と記されている。ここにも猿のイメージが残る。

麻多羅神については 
超マンダラの世界へようこそ by Mr.Kurosawa を参照下さい。

 別の文献では物部の弓削守屋大連の社とある。

木枯神社
 大酒神社境内に鎮座。清和天皇の時代、乙訓郡より薬師仏を広隆寺に迎えたが、向日明神が広隆寺門前の槻木に影向、その木が枯れたので、神霊をこの社に遷した所、枯れた木が甦った言う。

たたずまい
 社地は狭いが、木々が植えられており、整備がなされている。 鳥居の側には大秦明神の石碑が大きい。



本殿


鳥居




お祭り

*1日本の神々5「大和岩雄」(白水社)
京都山城寺院神社大事典(平凡社)


「摩多羅神」と「道教」との関係

 京都の三大奇祭の一つの「牛祭り」は広隆寺の祭りであるが、明治以前は大酒神社の祭礼であった。 由来は恵信僧都・源信の夢に異人があらわれ、真の無量寿仏を拝もうとするなら、広隆寺絵堂の尊像を拝しなさいと告げた。 今の講堂の本像である。源信が広隆寺に参ると、夢に見たとおりの仏像があり歓喜したという。そこで感謝の気持ちを表すため、三つの像を刻み始めた。 その像が完成したので、三日間唱名念仏を唱え続けた。その法要が何時までも続くようにと、延暦寺から摩多羅神(まだらしん)を勧請して、その祭りを9月12日の夜に行うことにした。
 14世紀に書かれた『渓風拾葉集』によると、延暦寺三世座主の円仁が留学した唐から帰国の途中に現れた神だとある。「人が死んだ時にこの神がその人の肝を食うことによって、往生につながる臨終を迎える」という奇妙な神格を持っている。 これは仏教の神ではなく、いけにえを好むチャイナの土俗神であろう。円仁は泰山の神・泰山府君を赤山明神として身近に祀った。 この件と大酒神社の祭神に秦始皇帝がいることを合わせて考えると、摩多羅神は道教の神と言える。摩多羅神の祭りがあるのも頷けるところである。

 摩多羅神が道教の神であれば、牛祭りの謎も解ける。牛や馬をいけにえとして神に捧げた漢(韓)神信仰は道教信仰であるが、この漢神信仰と摩多羅神信仰が結びついたものと推測できる。
        以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−
 



暢気なタオさん

山城の神々

神奈備にようこそにもどる
inserted by FC2 system