「摩多羅神」と「道教」との関係
京都の三大奇祭の一つの「牛祭り」は広隆寺の祭りであるが、明治以前は大酒神社の祭礼であった。
由来は恵信僧都・源信の夢に異人があらわれ、真の無量寿仏を拝もうとするなら、広隆寺絵堂の尊像を拝しなさいと告げた。 今の講堂の本像である。源信が広隆寺に参ると、夢に見たとおりの仏像があり歓喜したという。そこで感謝の気持ちを表すため、三つの像を刻み始めた。
その像が完成したので、三日間唱名念仏を唱え続けた。その法要が何時までも続くようにと、延暦寺から摩多羅神(まだらしん)を勧請して、その祭りを9月12日の夜に行うことにした。
14世紀に書かれた『渓風拾葉集』によると、延暦寺三世座主の円仁が留学した唐から帰国の途中に現れた神だとある。「人が死んだ時にこの神がその人の肝を食うことによって、往生につながる臨終を迎える」という奇妙な神格を持っている。
これは仏教の神ではなく、いけにえを好むチャイナの土俗神であろう。円仁は泰山の神・泰山府君を赤山明神として身近に祀った。 この件と大酒神社の祭神に秦始皇帝がいることを合わせて考えると、摩多羅神は道教の神と言える。摩多羅神の祭りがあるのも頷けるところである。
摩多羅神が道教の神であれば、牛祭りの謎も解ける。牛や馬をいけにえとして神に捧げた漢(韓)神信仰は道教信仰であるが、この漢神信仰と摩多羅神信仰が結びついたものと推測できる。
以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−
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