住吉大伴神社
京都市右京区竜安寺住吉中町

鳥居

交通
京福電鉄御室下車 北へ400m ゼンリン

祭神
住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)、大伴祖神(天押日命、道臣命)

拝殿

由緒
 『式内社調査報告』から。
 式内伴氏神社の論社の一である。もう一つは北野天満宮境内の伴氏社であるが、こちらは菅公の母伴氏のために立てられた「北野ノ石塔」があり、神仏分離で」石塔が撤去された跡に建立されたもので到底式内社ではあり得ない。また当住吉大伴神社は江戸時代に並河永の『山城志』に、「在龍安寺村 今称住吉」とあり、式内社に比定されている。しかし龍安寺は馬代郷であり、伴宿禰が氏神を祀るべく賜った上林郷とは違い、さらに過去、「当住吉神社は大伴神社を名乗ったことはない。」との龍安寺住職などの口上書にあり、論社ではないようだ。しかし、当社を式内大伴神社とし、社名を住吉大伴神社と改めてしまった。

 『京都山城寺院神社大事典(平凡社)』では、大伴氏の氏神に大伴氏衰頽後、住吉神を勧請したので、住吉大伴神社と呼ばれたとある。大伴氏の氏神を伴氏神社と称したのは淳和天皇の諱が大伴であったことから、その名をはばかって伴氏と改称したためと言う。

本殿

たたずまい
 仁和寺の東、龍安寺の南に鎮座する。社殿や社務所は比較的新しいようだ。神社から道を隔てた西側に「海ゆかば」の碑が立てられている。

「海ゆかば」の碑

 「海ゆかば」は万葉集4094の和歌の一部。
 陸奥国(みちのくのくに)より金(くがね)を出だせる詔書(みことのり)を賀(ことほ)く歌一首、また短歌
4094 葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方(よも)の国には 山河を 広み厚みと たてまつる 御調(みつき)宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大王の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて  金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 下悩ますに 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ 天地の 神相うづなひ 皇御祖(すめろき)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 朕(あ)が御代に 顕はしてあれば 食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十(やそ)伴の雄を まつろへの むけのまにまに 老人(おいひと)も 女童児(めのわらはこ)も しが願ふ 心足らひに 撫で賜ひ 治め賜へば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)
 
海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生す屍
 大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじ

 と異立(ことだ)て 大夫(ますらを)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖(おや)の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り 我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる 大王の 御言の幸(さき)の 聞けば貴み

反し歌三首
4095 大夫の心思ほゆ大王の御言の幸(さき)の聞けば貴み
4096 大伴の遠つ神祖(かむおや)の奥つ城(き)は著(しる)く標(しめ)立て人の知るべく
4097 すめろきの御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く
     天平感宝元年五月の十二日、越中国の守の館にて、大伴宿禰家持がよめる。

お祭り

 10月 16日 例祭

摂社 小松尾大明神十禅師社 斎宮社
 

参考書 京都山城寺院神社大事典(平凡社)、式内社調査報告、境内掲示版

京都山城の神々

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