大豊神社
京都市左京区鹿ケ谷宮ノ前町81-1 ゼンリン

鳥居


交通
哲学の道南端近く


祭神
少彦名命 配祀 菅原道眞、應神天皇

舞殿

由緒
 社伝によると、仁和三年(887)宇多天皇の病気平癒のため、尚侍藤原淑子勅命を奉じた勅願社であり、朝野の信仰が篤かった。建武の内乱・応仁の兵火などに遭って焼失したが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ヶ谷、法然院、南禅寺一帯の産土神として信仰を集めている。
 特に、末社の大国社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶は、それぞれの神のお使いとして有名である。

本殿

たたずまい
 神花として椿、枝だ垂れ紅梅、紫陽花や山野草が四季折々、参拝者の心を和ませている。椿の名所である。

大国社の狛鼠

愛宕社の狛鳶  日吉社の狛猿

お祭り  5月 2日  例大祭


平成祭礼データ由緒から

大豊神社由緒略記

 椿ケ峰を御神体とした山霊崇拝の社でありましたが、仁和三年(八八七年)宇多天皇の御悩平癒祈願のため贈正一位尚侍藤原淑子が勅命を奉じて、少彦名命を椿ケ峰に奉祀してから約壱千百余年になります。創建当初は、椿ケ峰山天神と称せられ、公家の尊崇厚く、次いで大宝大明神と呼ばれ、円成寺の鎮守神として、霊験殊の外なるに合せて、清遊に好適なる現在の地に後一条天皇の寛仁年間鎮座、大豊大明神の神号を賜わり、社運盛大神域方四町もあったのです。建武の乱、応仁の兵火にかかって、王朝文化の粋を聚めた絢爛華麗な社殿も焼失、以来振るわざること久しく、文政三年の出火には貴重な古記類も灰燼に帰したのであります。相殿合祀の天神・八幡の二座は、この間神社存続のために斎祀されたものです。明治以降、郷土の産土神として氏子の崇敬を聚め、大正・昭和は復興期であり進展時代でもあるのです。昭和八年、本殿改築並神苑計画も立案されたのですが、満州事変勃発以来の戦争の故を以て一頓挫、誠に文に興隆、武に衰亡の御社運と申さねばなりません。歴史は巡り昌平の御代となりました。自然の相を観、自然の声を聴く幽邃閑静なる霊地!皆様の氏神大豊神社は、昭和二十九年九月三十日観光文化の都なる京都の名勝地となりました。茲に「郷土の一産土神」から「名勝大豊神社」となったのです。

 「大」いに「豊」かならしむる御神号の示す如く 治病、健康、福徳、造酒の神様であります。椿ケ峰からは清らかな御神水が流れ出ています。惟神の道は、弥栄の哲理を実践、生命の展開を生活として居ります。精神的にも肉体的にも健康で、勤み勉めたならば、価値創造の喜悦に輝き、福徳はおのずからにして身に具わるのです。この健康を蝕み損うものは病気であります。この病気を根絶することが人生の最大の要鍵でありまして信念と医薬の物心一如の力によって克服せねばなりません。薬用は医術に先立ち、古代には御酒が高貴薬として使用され、神に先づ供したものです。蒼生救済の神慮から禁忌之法を以て不幸の依って来る魔性を攘い、御酒を醸造されたのが、我が大神なのであります。     以上

『寺院神社大辞典 山城』

京都山城の神々

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