離宮八幡宮
(りきゅう八はちまんぐう)
乙訓郡大山崎町大山崎西谷 mapfan
鳥居
交通
JP大山崎駅前
祭神
應神天皇 配 市杵嶋姫命、湍津姫命、田心姫命、大山祇神
由緒
離宮と称するのは、社地が「河南離宮」の故地であることによる。嵯峨天皇が行宮としたそうだ。
貞和四年(1348年)の奥書を持つ『離宮八幡宮遷座本紀』に創建譚が記されている。
貞観元年(859年)のこと、清和天皇は夢に託宣を受けて奈良の大安寺の僧行教と山城守紀御豊を宇佐八幡宮に派遣した。すると両人の夢に八幡神が現れ、「自分は都に近い場所へ遷って国家を守ろう。」と告げた。二人が宇佐を発して大山崎まで来たところ、山上に光があったので、住人に「この辺りに神体を遷せる場所があるか」と尋ねると、「山の麓に嵯峨天皇の離宮の跡地があるので、そこがいい」との答えがあった。行教はその地に赴き、独鈷で地を穿ったところ、石の間から清水が湧き出した。これが石清水である。行教と御豊はこの旨を奏聞したところ勅があり、神体を遷して社殿を建てて離宮八幡宮と称した。その後また行教と御豊に夢告があり、八幡神を男山に遷すよう命じた。
要するに現在の石清水八幡宮の元社であり、当社から分霊を男山へ遷したとの伝えである。当社には4月3日に行われる日使頭祭という祭礼が残っており、かっては大山崎から石清水へ列を成して参拝したという。
山崎の地は胡麻油製造で栄えた。大山崎神人と称し、石清水八幡宮へ供える油を扱うとのことで、各国の関所を自由に通過する権利、減量の胡麻を独占的に買い付ける権利、油を一手に販売する権利を持っていた。
江戸時代に菜種や綿実油が登場して、さしもの山崎の地位も急速に衰えていった。
たたずまい
鎮座地は桂川、宇治川、木津川の三川が合流する珍しい地形の一角にあり、天王山南麓でもある。
JR山崎駅の南側すぐで、社域は駅に接している。
前の広場は荒れている雰囲気だが、拝殿前や本殿近くはやはり神社らしい趣が漂う。
本殿
お祭り
4月 3日 春季例祭(日使頭祭)
9月15日 秋季例祭(放生会)
摂社と神宮寺跡
平成祭礼データ 参拝之栞
油の神様
第五十六代清和天皇貞観元年(今から千百十年前)八月二十三日勅命を以て、豊前国 宇佐八幡宮から嵯峨天皇の離宮であった河陽宮の故趾に遷され、元治元年兵火に罹る
迄は西の日光と称えられた宏壮優美にして壮厳華麗なるお社であった。
清和天皇の貞観年中、山城国大山崎荘の長者等始めて、油をしぼる「しめ木の具」を 工みて荏胡麻を絞りたるを始めとする。都名所に山崎離宮とあるは、当神社の事にて
、彼の職人歌合に、「宵ことに都へ出づる油売、ふけてのみ見る山崎の月」と歌ひし 如く其の当時は全国の人々が山崎の油を用ゐない人はなかつたのである。即ち「上は
すめらぎの御所より、下はあまさかの鄙に及び、民くさあまねく荏胡麻もて、しぼり し山崎の油を用ゐずといふことなしと」これによりて帝より忝くも綸旨院宣を給ひつ
ゝ、即ち山崎の長をば天が下の油座の長とし給ひて、禁中の御灯油料及び八幡宮祭典 の為に、諸国の油の税租をもて、山崎の油座へ賜ひ長く諸関、津料並に公事課役等を
免除せられ、鎌倉の右大将家より足利、徳川将軍家に至るまで其議をたがはせ給はず 天が下の油業者は山崎八幡宮の許なくして油を売買することは出来ないのみならず、
各関所を通ることすら出来なかったのである。
以上 |
参考 京都山城寺院神社大事典(平凡社)、日本の神々5(白水社)
京都山城の神々
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