佐牙神社
京都府京田辺市宮津佐牙垣内164

二の鳥居と社叢

交通
近鉄宮津駅 北西10分 its-mo

祭神
佐牙彌豆男神、佐牙彌豆女神

二の鳥居

由緒
  「延喜式神名帳」の綴喜郡の佐牙乃神社に比定される。『新抄格勅符抄』には佐牙神として摂津に九戸と記されているが、摂津には佐牙神は見当たらず、当社のことであろう。
 酒造の神として信奉されていた。敏達天皇二年、佐賀弥豆男神、佐賀弥豆女神を咋岡の山本に鎮座なし玉ひて云々と「佐牙神社神紀」にある。山本とは現鎮座地と見られている。
 天変地異の地を祀ったとの説もある。吉田東[イ吾]は『地名辞書』で、「社名を切山(キレヤマ)と云う、地[女尺]ありて地裂けたるによりて祭る所以」とし、これは『三代実録』貞観十二年(870)の「綴喜郡山本郷山朋陥 云々」の記事を根拠にしている。
 これを認めれば、先の、『新抄格勅符抄』の記事の佐牙神をいいいよ摂津国に求めなければならない。

拝殿

たたずまい
 遠目にも山裾の一部に社叢の盛り上がりが判る神社。たしかに社叢の中へ石段を登る感じで参詣した。箒目もあざやかに、気持ちが引き締まる。 幅の広い拝殿の向こうに朱の本殿二座が格子の向こうに見える。

本殿
国指定重要文化財。天正十三年(1585)再建。身舎の蟇股は左右対称の図案で室町初期。春日造。檜皮葺。

お祭り

 10月16〜18  例祭

平成祭礼データ

 佐牙神社の由来 由緒

 社伝には敏達天皇の2年(西暦573年)始めてこれを祭られる。
 造酒司(さけつくりのつかさ)の奉弊があったとつたえられる。また東朱智社とも言うたらしい。当社は昔山本村(遠藤川の北側府道より少し東)にあったのが、垣武天皇延暦13年(西暦794年)現在の地に創建されたと伝えられ、平城天皇大同元年(806年)神領寄進あり延喜の制には小社に列せられ、字山本はこれを氏神として今なお旧地を御旅所として祭日には神輿の渡御がある。この附近は往古佐牙野と呼ばれ、筒城野の東、南は裾野川(今煤谷川と言う)、北は朱智川辺までの名称と思われる。また佐牙垣内(さがかいと)のなが江津に残っていおり、社名と地名が同一であったことが知られる。古事記の開化天皇の段に山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)の名が出ている。この荏名津は旧名江の津(今の江津)であろうと推定されている。

 当社の社殿は永正6年(1509年)12月6日菱田監物(けんもつ)と森村信濃守と土地争論のことがあって兵火にかかり、永正11年8月山本主馬介義古一族等によって再建されたが、天正4年(1576年)10月20日また火災にかかって焼失したが、同13年9月13日さらに新築して遷宮式をあげたとつたえられている。
    以上

京都山城寺院神社大事典(平凡社)、式内社調査報告、日本の神々5

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