角宮神社
長岡京市井ノ内南内畑35 ゼンリン

鳥居

交通案内
阪急西向日 西1500m


祭神
火雷神
配祀 玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狹茅尊



由緒

 式内大社乙訓坐火雷神社(ホノイカツチ)の論社。もう一つは向日神社に併祭されている火雷神。

 『山城国風土記』では、賀茂建角身命の子神で、水辺の女神玉依姫と丹塗矢との神婚によって、上鴨神社の祭神賀茂別雷神が生誕した伝承を戴せ、その丹塗矢が乙訓坐火雷神であるとしている。

 火雷神が初めて国史に登場するのは、大宝二年(702)のことで、乙訓郡火雷神に旱魃の度に祈雨をしているとある。

 江戸時代にはこの角宮神社が乙訓坐火雷神社と考えられていた。社伝にも「継体天皇六年勅して乙訓社を建営し給ひ、火雷神を鎮め給ふ。延暦四年、桓武天皇勅して玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狹茅尊の三神を火雷神と共に鎮め給ひ、天皇行幸し給ひ、角宮乙訓大明神と仰ぎ給ふ。」とある。

拝殿 その前に磐座


お姿

 

本殿


お祭り
   5月 1日 例祭


『平成祭礼データ』lから

 式内社。乙訓坐火雷神社、略して乙訓社とも言う。祭神は本殿に向かって左に主神火雷神と玉依姫、建角身命、活目入彦五十狭茅尊の四神を、右に春日神(三神)を祀る。
乙訓坐火雷神は玉依姫の夫神で「山城風土記逸文」の賀茂伝説に丹塗矢の古事として見え、その御子別雷神を祭神とする上賀茂社玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社と共に国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社であった。初見は「続日本紀」の大宝二年(七〇二)の条で、殊に祈雨神として平安中期までは国史に度々出ている。承久の変(一二二一)で灰燼に帰し容易に復興を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明十六年(一四八四)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている。
 以上


参考:『平成祭礼データ』

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