珠城神社
久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1

鳥居


交通
バス停鈴間 南東に5分 ゼンリン

祭神
垂仁天皇、和氣清麻呂

拝殿

由緒
 市田は垂仁天皇の宮城(珠城宮)のあった地で、天皇没後、その霊を山背大筒城真若王(開化天皇皇子日坐王の子)がこの地に祀ったのが当社の始まりとし、珠城宮の所在したことにより珠城神社と称したと言う。しかし、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の珠城宮は大和纏向の地とされる。
 延暦十八年(799)和気清麻呂死去にあたり、藤原葛野麿が勅使となって護法神社として、珠城神社に並べて神殿をつくった。
 治承四年(1180)の兵火により焼失したが、文治元年(1185)源頼朝によって再建された。
 天正元年(1573)槙島の戦いで再び焼失したと云う。江戸時代には祭神は雙栗神社に預けられ、明治十二年に合祀されたが、昭和四十二年、当社が再建され、遷座した。

本殿

お姿
 市田地域の中央に位置し、永福寺の北東に鎮座。往古の条里制地割りを残している古集落である。

お祭り  10月 8日 例祭

摂社 皇大神宮   稲荷神社

『平成祭礼データ』
珠城神社 由緒書

 珠城神社が鎮座する市田は、往古の条里制地割を残し、また和気清麻呂公の伝説をもつ古集落である。「玉城神社縁起」によれば、垂仁天皇崩御の後、その御霊を山城大筒城真若王(開化天皇王子日子坐王の子)がこの地に祀ったのがはじまりとし、垂仁天皇の皇居が珠城宮であったことから、珠城神社と称したという。
 また延暦十八年(799)和気清麻呂公の死にあたり、藤原葛野麿が勅使となって珠城神社に並べて神殿を造り、護法の神社とした。その後、治承四年(1180)兵火によって珠城神社は焼失したが、源頼朝により再建された。しかし天正元年(1573)槙島の合戦で再び焼失されたと伝えられている。そのため珠城神社の祭神は、江戸時代以降雙栗神社に合祀され、市田村氏子は享保四年(1719)神輿を造営し、神事に参画した記録が残っている。昭和四十二年十月一日区民の願望と熱意によって、春日造りの本殿と切妻造りの拝殿が旧地に再建された。
以上

『京都・山城 寺院神社大事典』

京都山城の神々

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