比売許曽神社
大阪市東成区東小橋3-8-14  its-mo


鳥居


交通案内
鶴橋駅 東400m



祭神
 下照比賣命
配祀 速素盞嗚命、味耜高彦根命、大小橋命、大鷦鷯命、橘豐日命



由緒
 式内名神大社の論社。但し『大坂市史』は近世の創建とする。遅くまで湿地帯であったようで、式内社であったかどうかは疑わしいようだ。
 新羅の阿具沼のほとりで昼寝をしていた女に「日の輝虹の如く、その陰上を指し」、女は妊娠して赤玉を生んだとある。 この赤玉は女となって新羅の王子天之日矛の妻となるが、ある日「吾が祖の国に行かむ」といって、小舟に乗って難波に来た。 「こは難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売神と謂う」と古事記に出ている。
 延喜式の臨時祭式に、比売許曾神社一坐亦號下照比売とあり、古事記から延喜の約200年の間に祭神が変わっている。
 日本書紀には垂仁天皇の条に加羅の王子都怒我阿羅斯等の伝承には、白石が童女となり、阿羅斯等はこの童女と結婚しようとしたが、「求ぐ所の童女は、難波に詣りて、比売語曽社の神となる。 または豊国の国前郡に至りて、また比売語曽社の神となりぬ。並に二処に祭ひまつられたまふといふ」と記されている。
 摂津国風土記には、新羅の女神が夫からのがれてしばらく「筑紫の国の伊波比の比売島」にいたが、まだ韓国から遠く離れていないから、ついに摂津の比売島に来たとある。



お姿
  焼き肉料理で有名な鶴橋のすぐ東である。半島系の人々には住み易い地域と思える。境内には木々が少ない。 近隣の住人が葉が屋根を詰まらせたりするのをいやがるそうだからと言う。

拝殿


 ひめこそ団子 ある年、疫病が流行し、当社に参拝する人が増えた。地元の団子屋が、神のお告げがあったとして彩色した串団子を、ひめこそ団子と名付けて売り出し、評判になった。後に祭礼に供えるようになり、訛って「ひみこ団子」と呼ばれた。当社の南東に茶屋町と旧称したのは、ここに団子屋があったから。

お祭り
 例祭 10月15日


大阪府神社史資料 村社比売許曽神社から

比売許曽神社(摂津名所図會大成巻之一)

 東小橋村二あり。今の地は當村の生土牛頭天王の社にして、兵乱の時天地を失ひ此天王の社の相殿にうつし祭ると ころなりとぞ、奮地は次の巻二委く出す。
 社記云祭神下照姫命にして人王十一代垂仁天皇の御宇勧請し給ふ所となん故に延喜式に東生郡四座の其一なり名 神大月次相嘗新嘗の祭祀行われし所とぞ按するに前にいふ磐船社と称して下照姫命を祭れる神社あり。
 一説にハ是を以て延喜式に載る比売許曽神社なりといへり其是非詳ならず是正しく上の宮下の宮或いハ本宮新宮と称するの類ならん乎尤後世磐船社と称する地は高津宮の内に営み給ふ社の古蹟なりされバ今の比売許曽社ハ垂仁天皇の勧請にして原より在し神社ならんか先今其神社の存するを以て社説に随ひて次の巻に委く出す偖亦先版及ぴ社記にも日本紀垂仁巻に出たる異國より渡れる童女の難波にいたりて比売許曾神と爲といへるをも下照姫命に合せて言り是ハ大なる誤なり下照姫命ハ神代巻に所謂味耜高彦根命の御妹にして則東生郡比売許曾神なり古事記応神の條に新羅国の嬢子小船にのりて日本に逃來り難波に留る此注二云此者難波の比売許會社に座す阿加留比売といふ者なりとご有垂仁応神の御宇の違ひありといへども事ハ同説なり又赤留比売社といふハ神名帳に佳吉郡赤留比売命神社とあり新撰神代記云平野三十歩社ハ佳吉の末社なり延喜式に佳吉郡赤留比売命神社是也云云然れバ下照姫命と赤留比売命とハ別にして社も両所に存せり思ひ惑ふぺからず尚委くハ其地所の條に著すぺし。


神紋 榊の花


大阪府神社史資料 村社比売許曽神社から

比売許曾神社(大阪府史蹟名勝天然記念物)

 東成区東小橋町。明治五年村社に列せらる。古事記によれば、比売許曾神社の祭神は新羅國王之子天日矛の妻にし て、竊に小船に乗り、吾祖之國に行かんとて本邦に渡來し、難波に留まりしを祭れるなりとし,日本書紀には、之れを意富加羅國王之郡怒我阿羅斯等の許にありし一童女とし、此童女逃れて遠く海に浮ぴ、遂に我國に入り、難波に至りて比売許曾社の神となると、延喜式神名帳には、
 摂津國東生郡比売許曾神社名神大月次、相嘗新嘗
 四時祭式に
  下照比売社一座或號比売許曾社
 臨時祭式に
  比売許曾神社一坐亦號下照比売
 とあり。三代實録に
  貞観元年正月摂津國下照比女神授從四位下
 とあるも、比売許曾神社なりとせらる。斯くの如く比売許曾神社は難波の古社、式内の名神なれども、早く荒廃して 其所在沿革詳ならず。古代は姫島に鎭座せしものヽ如し。然るに、天明八年に或者が奮記神賓を発見したりと唱へ、之れに基きて、比売許曾神社の縁起を編纂し、當社を延喜式内の比売許曾神社に當てヽより、其名世に現はれたり。
 されどその作れる縁起は固より假作にして信すぺきものにあらす。本社所藏文書に小橋村検地帳(慶長十二年十一月 十二日)闕郡東郡戸御検地帳(文録三年八月)並に南北朝時代の古文書を存せり。

『平成祭CD』比賣許曾神社 由緒

 当神社は人皇第十一代垂仁天皇の御代(今より約二千年前)、愛久目山(今の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比賣命を祀って高津天神と呼ばれたのが起源であると伝えられ、その後第二十三代顯宗天皇の御代、社殿の御造営あり、三年春正月十二日、正遷宮に際して天皇の行幸があり宮原縣主が奉幣を承ったといわれ、又第三十三代推古天皇十五年春正月十二日、正遷宮の際、聖徳太子供奉されて太子自ら神供を奉り難波惣社古宇豆天神宮と称し楼門に額を下賜され、第四十代天武天皇白鳳六年春正月十二日の正遷宮には、舎人親王御参りの上奉幣せられたと伝えられています。 第五十一代平城天皇大同元年には、摂津国封一戸を賜り、第五十六代清和天皇貞観元年に、神階を従四位下に進められました。当社は延喜式内名神大社であり、月次、新嘗、相嘗の御祭に奉幣がありました。元弘年中、兵火にかかり以後漸次衰頽しましたが、第百四代後柏原天皇の御代、将軍足利義晴に命じ社殿を再建致しました。大永二年三月、勅使中納言日野内光が参向し、将軍の代参には大町宗成がお参りしました。是に於て社殿の造営が具備しましたが、天正年間、織田信長が石山本願寺を攻めた時、またまた兵火にかかりました。この時東西両小橋村の宮座本座の人達が御神体を奉護して摂社牛頭天王社即ち現今の社地に奉遷しました。
 明治五年、村社に列し、同四十四年十一月、会計指定を受け大正四年四月、神饌幣帛料供進の指定を受けました。その後昭和三年秋、御大典記念事業として同四年三月九日、社殿社務所改築の許可を受け、同五年七月十三日、本殿遷座祭を挙行しました。
 当神社は前記のごとく創建以来皇室の御尊崇武家の崇敬共に極めて厚く、源頼朝は挾技荘の一部を寄進し、足利尊氏は瓊見嶋郷の一部、又足利義晴は新開荘の一部も寄進せられた等の事実もあります。社地も第四十五代聖武天皇の御代には、八町四方と称せられ中世に至って東西五町南北三町となり東小橋村大小橋命胞衣塚古跡の地四畝廿三歩と共に除地でありましたが、天正以後になって神領悉く廃されて、慶長十二年十月の検地に際して大部分が年貢地となり御旧地の実情も明らかでないようになり、又社地も摂社牛頭天王社の境内地のみとなり御神体も同社の相殿に奉祀し後に御主神となられました。
 以上
 



産湯稲荷神社 its-mo

神社


比売許曽神社の旧社地、現在は御旅所で末社。
 社記によると当地の開拓神である大小橋命は天児屋根命の十三世の後胤、ここ味原郷に誕生、境内の玉井を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。
 隣接していた「味原池」は、天探女が天の磐船に乗って天降られた霊地とされている。『摂津名所図会』には、「下照比売、亦の名稚国玉媛或いは天探女とも号す。」とあり、混乱しているようだ。

 上町台地には所々に井戸がある。後に大坂城につながっているとか言われたが、台地の水脈が掘り当てられたものであり、龍脈と言えようか。

井戸



   磐船大明神は比売古曽神の降臨の地とも言う。また『摂津国風土記』に見える、「難波の高津は、天稚彦が天降ったとき、天稚彦についてくだった神、天の探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ。」とある。

天理教境内にたつ舊蹟 天理教阪府分教会



 また、『摂津名所図会』では、磐船舊蹟の項で、垂仁天皇の時代に、神石美麗の天女となりて比売古曽と名乗ったとある。

 日本の神々3(大和岩雄氏)白水社、大阪府史蹟名勝天然記念物、摂津名所図會大成巻之一



兵主神・天日槍命・赤留比賣命



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