気比神宮
福井県敦賀市曙町11-68 its-mo

文化財の鳥居

正保二年建立の榁木造両部型本朱漆の鳥居



交通案内
JR敦賀駅から北へ徒歩15分



祭神
伊奢沙別(いささわけ)神、仲哀天皇、神功皇后、日本武(やまとたける)尊、應神天皇、玉妃(たまひめ)命、武内宿禰(たけのうちのすくね)命

土公と遙拝所



由緒
 祭神七座の延喜式内大社である。仲哀天皇以降の祭神は大宝二年(702年)に合祀されたと社伝にある。伊奢沙別神に八幡の神々を祀った神社と言える。式内大社で八幡神を祀っている貴重な神社の一つである。

 笥飯(けひ)大神、御食津(みけつ)大神と称される伊奢沙別神は天筒の峰に降臨後聖地土公(敦賀北小学校の校庭)に降臨したと伝承されている。”天筒”、まさに海神のように見える。

 『古事記』に、「かれ、建内宿禰命(タケシウチノスクネノミコト)、その太子(ヒツギノミコ)を率(ヰ)て、禊(ミソキ)せむとして淡海(アフミ)また若狭国(ワカサノクニ)を経歴(ヘ)し時、高志(コシ)の、前(ミチノク)の角鹿(ツヌガ)に仮宮(カリミヤ)を造りて坐(イマ)さしめき。ここに其地(ソコ)に坐す伊奢沙和気大神(イザサワケノオホカミ)の命(ミコト)、夜の夢(イメ)に見えて、「吾が名を御子(ミコ)の御名(ミナ)に易(カ)へまく欲し」と云(ノ)りたまひき。ここの言祷(コトホ)ぎて白(マヲ)さく、「恐(カシコ)し。命(ミコト)のまにまに易(カ)へ奉(マツ)らむ」とまをしき。またその神詔(ノ)りたまはく、「明日(アス)の旦 (アシタ)、浜に幸(イデマ)すべし。名を易(カ)へし幣(マヒ)献(タテマツ)らむ」とのりたまひき
 かれ、その旦(アシタ)浜に幸(イデマ)しし時、鼻毀(ヤブ)れたる入鹿魚(イルカ)、既に一浦(ヒトウラ)に依(よ)りき。ここに御子(ミコ)、神に白(マヲ)さしめて云(ノ)りたまはく、「我に御食(ミケ)の魚(ナ)を給ひき」とのりたまひき。かれ、またその御名(ミナ)を称(タタ)へて御食津大神(ミケツオホカミ)と号(ナヅ)けき。かれ、今に気比大神(ケヒノオホカミ)と謂(イ)ふ。またその入鹿魚(イルカ)の鼻の血臭(クサ)かりき。かれ、その浦を号(ナヅ)けて血浦(チヌラ)と謂(イ)ひき。今は都奴賀(ツヌガ)と謂(イ)ふ。」
 とある。名前の交換の話はや御食の献上は服属儀礼とされる。珍しく二重の儀礼譚となっている。

 『日本書紀』によれば神功皇后が九州へ赴く前に当地に滞在していたことになっている。その御子がわざわざ服属儀礼をさせる為に赴くのはいささか不思議なとこに思える。ましてや敦賀は神功皇后の祖先とされる天日槍命と同体とされる都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)命の子孫が統治する地とされ、また都怒我阿羅斯等命を祀る摂社もあり、伊奢沙別神そのものが天日槍(あめのひぼこ)命のこととも云われる程親密な関係にある。何故、敦賀の神が二重の服属儀礼を行ったのであろうか。

 先の『古事記』の引用に「建内宿禰命、其の太子を率て、禊せむと為て、」とあり、目的は「禊」にある。「禊」 は何故計画されたのであろうか。 『古事記』においての「禊」の話は三ヶ所に出てくる。

伊邪那伎(いざなぎ)大神が黄泉の国から還った際
建内宿禰命と譽田別太子
水歯別命(ミズハワケノミコト)が曽婆訶理(ソバカリ)水に墨江中王(スミノエノナカツミコ)を殺させた際、曽婆訶理を殺す口実として。


 さて、気比の例はともかくとして、後の二例は「禊」を行う理由は理解できる。そうすると、譽田別太子が禊をしなければならなかった理由は何だろうか。
 香坂王(かごさかおう)、忍熊王(おしくまおう)を倒したことが思い浮かぶ。本来、皇統を嗣ぐ地位にあった両王を倒しての新王朝であり、それ故の禊ではなかったろうか。両王は大帯日子(おおたらしひこ)天皇(景行天皇)が迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)を娶て生んだ子の大江王の娘・大中津比売命(おおなかつひめのみこと)を仲哀天皇が娶って生まれた皇子達である。尤も、迦具漏比売命をは景行天皇の曾孫にあたり、ここらも神々の世界かも知れない。
 一方や神功皇后には父方の5代前に開化天皇がいることはいるが、皇統の血は1/64であり、大中津比売命とは比較にならない。応神朝は要するに簒奪王朝であったので、禊ぎを行ったのであろう。気比の神が二重に服属したのは、気比の神が子孫に大いに祝福をあたえ、日本海側とそれにつながる朝鮮半島の勢力をバックにした王朝と言えるのかもしれない。

 『平成祭礼データ』では忍熊王を祀る神社は二座確認できる。
吉備国 岡山県和気郡和気町 由加神社に忍熊王命碑。
越前国 福井県丹生郡織田町 劒神社 素盞嗚大神 (配祀)氣比大神 忍熊王。


 劒神社には氣比大神と忍熊王が並祀されているのが面白い。一緒に祀って祟りを封じており、更に主祭神に素戔嗚尊であれば、忍熊王も動けないと云うことだろう。
吉備国(備前国)にも忍熊王命碑が残っているのは、応神新王権の擁立に吉備国の勢力も関与したことを示す。吉備と気比との関連が注目される所である。

二の鳥居と拝殿

 

 敦賀駅から小浜方面へJRで行くとすぐに粟野なる駅がある。また気比はキビとも読まれる。御食津大神の御食津とは魚であろうかそれとも穀類の粟とか黍であろうか。現在の由緒書きでは五穀豊穣と大漁祈願が御神徳の一部に見える。笥飯と云う言葉が黍から出ているのではなかろうか。現在、飯と云うと食事のことをも指し、代表的な穀物の名が食事一般に使われたと思われる。


境内神社の由緒(気比神宮略記から)

角鹿(つぬが)神社

(御祭神)都怒我阿羅斯等命

 式内社、崇神天皇の御代、任那の王子の都怒我阿羅斯等気比の浦に上陸し貢物を奉る。
天皇、気比大神宮の司祭と当国の政治を委せらる。その政所の跡に此の命を祀ったのが当神社で現在の敦賀の地名はもと『角鹿』でこの命の御名に因る。
殿内に宝物獅子頭を安置す。除災招福の信仰が篤い。天保十年松尾大神を合祀、酒造家の信仰が篤い。

大神下前(おおみわしのさき)神社

(御祭神)大己貴命

 式内社、気比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。


九社之宮の内の式内社

天利劔(あめのとつるぎ)神社
(御祭神)天利劔大神

 式内社で、往昔仲哀天皇嘗宮に参拝宝劔を奉納あらせられ霊験いとも奇しと云ふ。
後に祠を建て天利劔宮と稱へ奉り御神徳をさずかる崇敬者はすこぶる多い。

天井弉奈彦(あめのいなざひこ)神社
(御祭神)天井弉奈彦大神

 式内社、社家傳記に、伊佐奈日女神社・伊佐奈日子神社は造化陰陽の二神を祀りしものなりと云う。
古来縁結びの御神徳が顕著である。


気比神宮本殿風景



お姿

 戦国時代と太平洋戦争で二度全焼しているとのこと。特に昭和になっての全焼はこの神社から古社の面影と霊妙なる神威を姥ってしまったようだ。木々が大きくなく、まばらな印象を与え、敷地もほこりっぽく、良質の水が湧き出ているメリットを生かし切れていないようだ。神々がざわめいている神社と言える。

 朱色の大鳥居は、春日大社、厳島神社と会わせて朱塗りの三大鳥居と称えられている。

北陸道総鎮守 気比神宮略記から
由緒沿革

伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地に(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。
 上古より北陸道総鎮守と仰がれ、梅には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
 仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。
 神功皇后は勅命により御珠玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑リして、『天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずしで自ら帰順すべし』と御神託があったという。
 文武天皇の大宝二年(七〇二)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した。
 明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って気比神宮と改められた。廷喜式神名帳に『越前国敦賀郡気比神社七座並名神大社』とあり、中古より越前国一ノ宮と定められ、明治二十八年に官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。
 当神宮の神域は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の気比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護二年(七六六)勅によって松原客館が建設され、これを、気比神宮宮司が検校した。
 延元元年(一三三六)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ケ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。
 元亀元年(一五七○)四月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。
 慶長十九年(一六一四)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。 この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治三十九年国宝に指定されたが戦災(昭和二十年七月十二日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。
 その後、昭和二十五年御本殿の再建につづき同三十七年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巌修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和五十七年気比神宮御造営奉賛会が結成され『昭和の大造営』に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念気比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。



お祭り

 9月 2日 例祭宵宮祭  3日 神幸祭  4日 例大祭

 日本の神々8 白水社

兵主神・邪馬台国と天日槍命・赤留比賣命

神奈備中部北陸神社一覧

神奈備にようこそ
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