花窟神社(はなのゆはや)
三重県熊野市有馬町30


御綱掛け神事 熊野 そまさんご提供 HP(そまさんてつさんの熊野)

交通案内
紀勢線 熊野 南東へ700m



祭神
伊弉冉尊 配 軻遇突智命

日本最古 花窟神社



石巌壁立高さ45米


由緒
 創始については詳らかではないが、『日本書紀』(神代巻上)に一書に曰わくとして「伊弉冉尊、火神を生む時に灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」とみえ、それが当社のことであると伝える。
 つまり、当窟は伊弉冉尊の御葬所であり、季節の花を供え飾って尊を祀ったが故に花窟との社号が付けられたと考えられる。一説に伊弉冉尊を葬し奉った地は産田神社であり、当社は火の神の御陵ともいう。また、御綱掛け神事は音曲歌舞こそ伝承していないが、大要において書記の記載に合致し、往古の遺風を残すものという。
 古来、当社には神殿がなく、熊野灘に面した巨巌が伊弉冉尊の御神体とされ、その下に玉砂利を敷きつめた祭場が設けられている。それを少し隔てた所には王子の岩屋と呼ばれる高さ12メートル程の岩がある。『紀伊続風土記』によるとここに軻遇突智尊の神霊を祀り、この神が伊弉冉尊の御子であることに依拠して、王子の窟(別名、聖の窟)の名称由来を説いている。 以上『三重県神社誌』から

 葬礼の時の歌舞・飲食は『魏志倭人伝』にもあり、『隋書高麗伝』にも出てくる。熊野の強い海洋性と渡来人との関連を重視しなければならない風習であろう。
 さて、「神を葬る」と言うことであるが、神祇信仰的と言うよりは仏教的、記紀作成の頃とすれば修験道の影響を感じる。『日本書紀』にここまで書かれているにもかかわらず、延喜式内社として記載されていないのは、墓所として神社とは見なされていなかったのではないかと思われる。 伊弉冉尊の墓所としては、神武天皇が登ったと言う熊野神邑の地でもよく、強いて熊野川を越えた別地域の有馬であるのか、やはり神域を汚すとの観念が働いていたのではなかろうか。

 伊弉冉神信仰は淡路海人や紀州海人と熊野海人の接触で持ち込まれたものかも知れない。また熊野は金属の豊富な地域であり、軻遇突智神が熊野灘にあっても不思議ではない。

 元々海岸の洞窟や海中に死者を葬る風習は紀伊半島一帯に分布していたわけで、花窟も大古から死者を海の彼方に返す聖地の一つであったのだろう。 それを知っていた『日本書紀』編集者は、服属することが遅かった熊野地域を取り込む意味でも、皇室の祖神に祭り上げた伊弉冉尊の墓所として公示し、熊野の人々もそれを受け入れたのではなかろうか。

 この有馬については、「渡来人が出雲から入りこみ、出雲の炭焼きを業とする集団で、縄文晩期に大挙して紀伊に移住した。」という伝承があり、また、「朝鮮半島から出雲東部に渡来した有馬氏がスサノオ信仰を持ち、これを紀伊に伝えた。」とも言われてる。 (参照 『古代史倶楽部yokosuka』by 瀬川照央さん)

 出雲と伊弉冉尊と言えば、揖屋神社が思い出される。『古事記』に「今、出雲国の伊賦夜坂と謂う」とある、死者の国との境である黄泉比良坂、を云う。
 この伝承に付合するかどうか不明だが、和歌山県御坊市熊野(いや)に鎮座する熊野神社(いや)の由緒書きに、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、『当社に熊野神が一時留まりませる』ということが当神社の由緒になっている。」とある。

 熊野王子社の花窟王子でもある。

本殿に相当する




お姿

 海岸と神社の間に国道42号線が走っており、太古の海岸沿いの面影は薄れている。それにしてもこの磐の巨大であること、肝をつぶす。 この辺りの山々はこのような磐が多いようだ。花の窟の東側にも大きい磐が見える。王子窟だろう。 

窟の頂上からの綱




お祭り

例祭 2月2日 10月2日
 御綱掛け神事が斎行される。口有馬の氏子が中心となって、およそ10メートルの三旒の幡形を作り、その下部に種々の季節の花々や扇 子等を結びつける。それを約170メートルの大綱に吊し、その大綱の一端を岩窟上45メートル程の高さに、もう一端を境内南隅の松の大 樹にかける神事である。昔は朝廷より毎年錦幡旗が献上されていたが、ある年幡旗を乗せた船が難破し、奉納されなかった。そこで土地 の人が急遽縄で形作った幡旗をこしらえてそれに代用し、現行のような神事になったという。

紀伊續風土記 巻之八十九 牟婁郡 有馬荘 口有馬村

○花窟  境内   東西六十五間  南北 百十間
 伊弉冉尊陵  秤所  鳥居
 村の北一町許往還の側海辺にあ石巖壁立高さ二十七間南に面へ其正面に方三間許の壇を作り玉垣を周らし拜所を 設く 『日本書紀』の一書に伊弉冉尊生火神時被灼面神退去矣故葬於紀伊国熊野之有馬村 焉土俗祭此神之魂者花時亦以花祭又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣とある是なり 『古事記』出雲国と伯耆国との境なる比 婆山に葬るとあっるは異伝なり 花窟の名僧基法師か記行 庵主 に始めて見えたり  花を以て祭るよろ起れる名なり 下より十間許上に方五尺許の洞あり 土人御からうといふ 『寛文記』に三 蔵法師大般若経を籠めし所と云ふ 此事既に増基か庵主に見えて弥勒佛の出現の世にり出す経なりしよしいへり  是より花窟を般若の窟と称す皆浮屠氏の妄説なり 祭日毎年二月二日十月二日両度なり 『寛文記』に昔は祭 り日には紅の綱錦の幡金銀にて花を作り散し火の祭と云ひしとあり 土人いふ錦の幡は毎年 朝廷より献し給ひ しに何れの年にか熊野川洪水にて其の幡を積みたる御舟破れしかは祭臼に至俄にせんすへなく縄にて幡の形を乍 りしとそ 其後錦の旗の事絶えて縄を用ふ 今花井荘熊野川相須村の辺に絹巻石と云ふあり 破船の時 錦の幡の流れて其の石にかかりし故にその名ありとそ 今土人の用ふる所は縄を編みて幡三流の形を造 り幡の下に種々の花を括り又扇を結ひつけて長き縄を以で窟の上より前なる松の樹に高く掛け三流の旗窟前に翻 る歌舞はなけれとも以花祭叉用鼓吹幡旗祭るといふ故 実を存する事めつらしき祭事と云ふへし 夫木砂光俊朝臣花祭の詠及久安百首の歌に錦の幡なとの事は見えされ とも花祭の名古くより世に聞こえわたる事知るへし 又祭日ならても土人等時時花を奉りて新念すといへり  庵主に卒塔婆の苔に埋もれたるなりとありといへとも今はさる穢れたるものなし 以下略

公式花窟神社

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