大隅神社
大阪市東淀川区大桐 its-mo

交通案内
阪急京都線上新庄駅 東へ20分

祭神
 應神天皇、別雷神

鳥居と拝殿

由緒
 応神天皇を祭神とする八幡系でない珍しい神社。

神社庁:平成祭礼データCD(大隅神社略誌)から
 当社の氏地は、もとの大隅島、即ち上中島にあたり、後の西成郡中島・大道の両村の範囲である。応神天皇二十二年(西暦二九一年)春三月、帝難波の地にみゆきしたまい、この大隅島に離宮を営んで宮居せられ、これを大隅宮と称した。

 その後安閑天皇(五二五年)秋九月、勅してここに牛を放牧せられた。後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわった。

 応神天皇の崩御の後、里人帝の御徳をしたい、宮址に神祠を建てて、帝を奉祀したのが当社の起源であるといわれている。爾来当社はこの地の産土神として尊崇せられて来たが、一度淀川が氾濫した際、加茂明神の御神体が漂着して霊光を放った。里人は喜び迎えてこれを産土神祠に合祀したものと思われる。これより社名を賀茂神祠と改め、社殿を二つに分けて、一つには別雷大神を奉祀し、一つには従来の応神天皇の他に伊邪那美神・天照皇大神・素戔嗚尊・豊受毘売神・天児屋根命・大山咋命・菅原道真公の八柱の神を合祀しその名を伊邪那美神社外七座社と称した。即ち前記境内八座社である。

 昔は境内が広く、老杉古松繁茂して森厳な神域をなし、社殿もまた壮麗を極めたが、天文十八年(一五四九年)の江口合戦、さらに元亀・天正の騒乱を経て、慶長・元和の大阪の陣に至るまで、幾多の戦乱を経過する間に、当社も兵火に焼かれて頽廃し、多くの貴重な古記録や社宝も失われた。加うるに、元禄年間には神木が乱伐せられて、社頭荒涼の観を呈するに至ったが、宝永四年(一七〇七年)、宮寺曹洞宗大道寺の社僧大順これを嘆き、強く村人達の協力を得て漸く拝殿を再興した。その後文政十年(一八二七年)にはさらに本殿の補修が行なわれたが、その頃東西五十二間・南北六十三間(三二七六坪)あった境内地は、明治初年に行なわれた境内地の払下げによって、四囲ことごとく民有地となり、今はただ昔日の面影を留めるのみとなった。

 明治四年、旧に復して応神天皇を主祭神とし社名も大隅神社と改められ、明治三十七年には幣殿を設け、拝殿を再興改築した。明治四十年六月二十日、大阪府告示第一八三号をもって神饌幣帛料供進社に指定せられた。

拝殿前の狛犬の列

大隅島『馬.船・常民』隼人と馬(森浩一氏)から抄
 淀川の出口に、古代には大隅島というのがありました。明治一八年の大洪水の時にでも、2キロ四方ほどは水没しなかった。 ここが大隅島です。その真ん中に大隅神社がある。河岸には銅鐸が出たり、九州的な銅矛が出た有名な江口がある。 それから弥生時代の、鉄製の環状の頭がついた素環頭の刀が出たりする。小さな島だけど、早くからいろんな地域の文化や、人々の集まるところです。 ここが『日本書紀』による応神天皇の大隅宮があったところとなっている。
 近畿地方には近江や河内などの隼人が分注しているし、特に山城には大量の隼人がいる。 大隅島は近畿の隼人の要のような土地、九州の隼人の中継地のような所ではないかと見ている。

 『日本書紀』安閑天皇の条に大隅島に牛を放つという記事がある。淀川水系と海との交通手段の接点に、意識的に牛を飼育していた。おそらくは淀川を大きい船が遡上する際に、川の横の道を利用して牛や馬に曳き上げさせたのであろう。

お姿
  周辺は中層住宅団地になっており、大隅や隼人を思わせるものは地名のみになっている。この神社から南西1kmに大宮神社が鎮座、ここも洪水を免れているようなので、 大隅島の端であったのだろう。

本殿

お祭り
 例祭 10月23日

 『馬.船・常民』網野善彦、森浩一(講談社学術文庫)

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