熊野古道紀伊路、和歌山県の王子社
岩内王子と熊野[いや]神社

御坊市藤田町岩内字田端515 ゼンリン


 九海士王子から南へ進みキノクニ線の踏切を渡る。湯川子安神社の側を通り東南東へ進み、野口新橋を渡る。この橋は道成寺の色に塗られている。日高川に沿って下流方向に1200m程歩く。 下流の御坊大橋があり、たもとに〒岩内局がある。その少し向こうに岩内コミュニティセンターがあり、その敷地内に王子跡の石柱が立つ。元の社地が水没したようなので新たに也久志波王子として岩内王子を祀ったと続風土記は伝える。河原に数基の石搭・石仏がある。 また岩内王子は焼芝(薬師場)王子とも呼ばれた。也久志波王子と書く。本来の社地は現在は日高川の中にあったとされる。 明治41年熊野神社に合祀された。いや神社と読む。


岩内(焼芝)王子石柱




熊野いや神社 御坊市熊野寺井987 its-mo

鳥居



祭神 伊弉諾神 伊弉册神 大日靈女神 配祀 國常立神 天忍穗耳神 合祀 猿田彦神 天鈿女神 神日本伊波禮彦神 大己貴神 天兒屋根神 燒芝王子 廏戸皇子 武甕槌神 萬幡姫神 經津主神 金山彦命

由緒 往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当社に熊野神が一時留まりませる」ということが当神社の由緒になっている。 往時は盛況で例祭における渡御は田辺牛ノ鼻までと伝えられ、道中鉾につけた鼻高の面が海の方に向くと漁事に障りがあるということで漁民が大変恐れ、また馬が嘶くときは凶事のある兆しとして、沿道の人々が恐みて炊煙を上げず、道を掃き潮を打って清め、ひたすら、無事に通過するのを祈ったということである。

お祭り 3月17日 祈年祭、秋葉祭
    7月17日 夏祭り
    10月第三日曜日 秋祭り


社殿



熊野神社の疱瘡神の石碑




紀伊續風土記 巻之六十七 日高郡 岩内荘 熊野村から(由也)

○熊野権現社
 本山社  長 床
 一御前社 中申社ともいふ
 大和御前社
  三社一境内にありて各区域をなせり
     境内宮山 東西百九十一間 南北百四十五間   禁殺生
 大 宮  長 床
     境内宮山周百十七間     禁殺生
右四社合せてこれを熊野権現といふ 甫谷にありて一材の産土神なり 古は十二社ありしを後世四乱に合祀す 且四社境内相連なりしに炎焼に罹りし後大宮独区域分離すといふ 社家の伝に往古社も壮麗にして神領も多く 祭儀は神輿牟婁郡田辺に渡御す 何(イツ)の頃よりか其事廃して今は十一月初ノ申日大宮祭翌酉日本山祭にて神主禰宣五人馬上にて鉾五本を立て川上荘入野村大山権現に渡御あり 其日大和御前にて神楽あり 中ノ申日一ノ御前にて祭あり 是当時祭礼の式なり 祭麓の時の神楽歌を伝へたり 当社并川上ノ荘の大山権現は疱瘡守護の神にして 有徳大君藩にあらせられしゝとき疱瘡を病せられ両社へ御立願ありて神田各十二石つゝを寄附し給ふ 享保中より境内殺生を禁せられ 社殿御造営あり 享和三年(1803)古の社地分断せりといふ地にて村民一寸余の白玉ニツ鏡二面大刀長刀器物等を掘出したることあり
神主は中村右膳といふ

岩内村

也久志波王子社   境内周三十四間
村中にあり 岩内王子を祀るといふ 岩内王子は御幸記に出たり 此の地河流変遷し岩内王子の社地滅没して後世小社を此に建てしといふ


 



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